第117話 新しい春
満開の桜は人の心を奪うほどに美しい。
思わず見入ってしまう、鮮やかな柔らかい薄紅は、穏やかな四月の空に綺麗に映えた。
毎年恒例となったお花見の後。
朧月の夜空を彩る儚げな桜を見たら、風に揺られてハラハラ舞う花びらが物悲し気で、なんとも言えない気持ちになった。
自分と同じ名前だから、人一倍思い入れのある花。
両親が一番好きな花を名前にしたと聞いた時は、安直!と思ったけれど。
空に向かって枝を伸ばし、毎年綺麗に花開く優しい桜を見ると、良い名前を付けてくれたと思う。
響きも優しくて好きだ。
この花のようにありたいと、大きな憧れも抱いていたりする。
★★★
浴室から出て、リビングに戻るとカーテンの引かれていない窓から庭の桜が見えた。
桜は、髪を拭く手を止めて思わず風に吹かれてひらひらと夜空を漂う花びらの行方を見やる。
志堂一家と一緒に、本家の庭で毎年恒例の花見をしたのはつい数時間前の事だ。
夕方に解散になったので、お酒もいい具合に抜けていた。
一鷹がわざわざ取り寄せたという桜の日本酒。
幸の大切なものにはてんで甘い一鷹の大盤振る舞いはいつもに増して凄まじかった。
桜の笑顔が見られれば、それだけで幸は幸せになり、そんな幸を見て、一鷹も幸せになる。
見事に繋がった幸福連鎖。
”甘えるのも大事”と漸く理解出来てからは、一鷹や幸の好意は素直に受け取るようにしている。
申し訳ない、という気持ちばかりが先走っていた頃とは違って、自分の幸せの為に力を尽くしたいと願ってくれる人がいる事に感謝できるようになった。
大人になった、のだと思う。
心の何処かで、一人で生きていく覚悟を持たなくては、と気持ちばかり焦っていた。
片意地ばかり張って、必死になって強くあろうとしていた頃とは違う。
どう足掻いても、一人でなんて生きていけない事を実感してしまったから。
ぬくもりを分け合える人が側にいる幸せを。
泣いても、我儘を言っても、受け入れて貰える場所がある幸せを。
心の一番奥で理解出来たから。
「桜ー。ドラマ始まるって慌てて上がった癖になにやって・・・」
後を追ってバスルームを出てきた昴が、窓の外を見やる桜に気づいて眉を顰める。
まだ夜は冷えるので、先に髪を乾かすようにとあれほど言ったのに・・・
明らかに濡れたままの長い髪に指を絡めて、さらに眉間の皺を深くした。
どうせドラマは録画しているんだから、無理やりにでも引き留めて湯船に浸からせれば良かった。
一緒に入浴する事自体稀なので、照れくささもあるだろうし、と思って好きにさせたが、間違いだったらしい。
うだうだ文句を言う口は手っ取り早く塞いでしまえば良かったのだ。
未だ強引になりきれない自分の甘さと、臆病さに苦笑いしつつ肩にかかったままのタオルで桜の髪を包み込む。
昴の慣れた手つきに、桜が漸く気づいて振り返った。
「あ、ごめん」
振り向いた桜の顔を見て、昴が一瞬ぎょっとなる。
何で泣きそうな顔してんだよ・・・
思わず口を突いて出そうになった言葉。
心細げな表情は、普段の桜からは想像できない。
この家には、桜が今は亡き両親と過ごした幸せな時間が刻まれている。
昴と知り合う前の、京極桜の歴史がある。
どんなに側に居ても踏み込めない記憶の壁。
あの庭で、桜が優しい両親とどんな風に過ごしたのか昴は知らない。
それでも、桜が胸の奥に閉じ込めた、見て見ぬふりのままの気持ちには気づいた。
やっぱり先に上がらせるんじゃなかった・・・
物凄く今更な後悔を反復しつつ、桜の髪をやや乱暴に拭いてやる。
昴の手つきに、桜が不満を漏らした。
「もぉ、なに、髪ならちゃんと乾かす」
ドライヤーを当てていなかった事を叱られたと思った桜の言葉に、昴が短い溜息を返した。
「髪、乾かしてやるよ」
「え、なんで?大丈夫だし」
「いいから、ほら、座れ。そのままじゃ風邪引くだろが」
無理やり桜の腕を掴んでラグの上に腰を下ろさせると、急いでドライヤーを取りに脱衣所に取って返す。
桜はそんな昴を眺めて怪訝な顔だ。
丁寧とは言い難い昴のドライヤーは、嬉しい反面、ちょっと困ったりもする。
慣れない手つきで桜の髪を乾かす昴の真剣な顔をまじかで見られるのは嬉しい。
でも、ブローの経験がない昴のそれは、髪を乾かすだけ。
いつも自分でやっているようには綺麗にまとまらない。
それでも、構って貰えることが大人しく従う事にする。
「カーテン閉めるか?」
戻ってきた昴が静かに尋ねた。
桜が小さく首を振る。
「もうちょっと見てたいから」
桜の答えに、昴はなにも言わなかった。
代わりに、桜を後ろから抱きしめる。
しなる肩を腕に収めて濡れた髪にキスを落とすと、桜が困ったように昴を見上げた。
「お前な、寂しいならちゃんと言え」
呆れたように言う声音は、いつもよりずっと優しい。
小さな子供に言い含めるような口調。
桜はまばたきを繰り返して、昴の言葉を咀嚼する。
数秒後、桜が目を丸くした。
予想外のセリフに、昴の顔を真顔で見つめ返す。
その額を弾いて、濡れて張りついた前髪を指でそっとかき上げると、昴が目を細めた。
「お前が飲み込んだつもりでも、ちゃんと顔に出てるんだぞ」
「なにが」
「・・・泣けよ」
「っえ!?泣きそうな顔してる!?」
「必死に堪える顔してる」
俺が一番見たくない顔。
心の中で付け加えて、恐らく同じ思いを抱くであろう一鷹と幸の顔を思い浮かべる。
昴が額を撫でると、桜がぎゅっと目を閉じた。
「言葉にしたら、駄目になるとか思ってんなら間違いだぞ」
「なんでよ」
図星を突かれた桜がうっと言葉に詰まる。
口にしない限り、それは現実にならない、と必死に思い込ませようとしていた。
だって、弱い言葉は、どんどん自分を駄目にするから。
「お前が堪えて抱えた分だけ、重荷が増えるだけだろ。この体に収めれる量なんて、たかが知れてんだよ。我慢すんな・・・吐き出せよ、頼むから」
最後は懇願に近い言葉。
「俺は一鷹みたいに敏くねぇんだよ。お前が言わなきゃ、気づかないことだって山ほどある」
「そんなことないよ・・・」
目を伏せたままで桜が優しく答えた。
だって、あの一瞬で、桜の全部を見破った。
「なら、俺がちゃんと気づける距離にいろよ。今日はもう一人にしない」
「大げさ」
笑った桜が昴の腕に頬を寄せた。
穏やかな声にほっとして、今度こそ体を離す。
リモコンに手を伸ばす横顔が、さっきより和んでいる事を確認して昴はほっと息を吐いた。
「嘘じゃねぇよ」
「・・・だったらもうちょっと抱きしめてくれる?」
テレビに視線を向けたまま桜が小さく呟く。
ほらみろ、と返して、昴が桜の腕を掴んだ。
向かい合わせに抱き寄せて、潤んだ瞳を覗き込む。
「だから、そういうことを最初に言えよな」
「言えないあたしだって知ってるくせに」
「ああ、そうだ。分かってるからこーなるんだよ」
呆れ口調で返して、昴がもう一度桜を抱きしめた。
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