第111話 等身大コネクト 

「昴ー、これ、お土産?」


ソファに無造作に放り投げられたスーツを拾い上げたら、その下から顔を出した小綺麗な紙袋。


書類やノートパソコが入っている通勤カバンと一緒に床に置かれている大きめの紙袋は、社名入りのものなので、こちらは仕事で使うのだろう。


扱いが違うことからして、恐らくお土産だろうと当たりを付けて尋ねる。


冷蔵庫から取り出したビールを片手にこちらに向き直った昴が、綺麗に結ばれていたネクタイに指を引っ掛けた。


これを放置すると、また椅子の背やら、ソファの上やらに放り投げられるので、早急に回収する必要がある。


先に寝室に行って着替えてくれればいいのに、と思うものの、帰宅直後に飲むビールの美味しさを滔々と語られた当時、まだ桜は未成年且つ学生で、社会人とはそういうものなのかとあっさり納得してしまった。


あの時もう少し自分が大人で、それとこれとは別です!とはっきり言えていたらと思うけれど、この生活に慣れきってしまった今となってはもう遅い。


軽い口喧嘩をした時、意趣返しのつもりで”あたしがいなくなったらどうすんのよ!?”と言ったら、真顔で冗談でも言うな、と切り返された。


同じ言葉を昴が桜に投げることは、絶対にありえない。


予想以上にこの生活に馴染んで甘え切ってしまっていた自分に気付いて、少しだけ反省した。


考えもしなかった”もしも”の現実を突きつけられて、その結果桜はここにいる。


そして、昴は、何があっても、桜が傷つく言葉だけは絶対に使わない。


それは、幸も、一鷹も、おなじだ。


相手が一番使えない言葉で、先制を仕掛けて成功した意趣返しの後味の悪さを知ってから、桜が、昴のスーツを片付けるのは日課となった。


勿論、桜が起きている時間帯に昴が帰宅できない日もあるので、こうしてスーツを拾い上げて、ネクタイを受け取れるのは、二人が一緒に過ごす時間を持てる証拠でもある。


リボンもそうだが、たった一本の布切れが、結び方ひとつで物凄く見栄えのする装飾になるのが、桜には未だに不思議で仕方ない。


繊細とは言い難い無骨な指が、驚くほど綺麗なタイを作り上げる様は、ちょっとした芸術だ。


同じネクタイを結ぶ仕草でも、一鷹と昴のそれは全然違っていて、それがまた不思議で面白い。


ちなみに、一鷹にネクタイの結び方を最初に教えたのは昴だそうで、二人が並んでネクタイを結ぶとほぼ同じ癖が出る。


けれど、僅かな指の動きや仕草が、全く違う。


慣れた手つきで解かれたネクタイが、掌の上に落ちて来る。


それをスーツと同じ腕に引っ掛けた所で、昴が思い出したようにああ、と口を開いた。


「高砂屋の外商部で貰ったんだよ。もうすぐバレンタインだからって。そういや中身確認しなかったな・・・車の中結構暖かかったけど・・・」


「チョコ?」


「さあな。開けてみろよ。どうせ食べるのお前だけだし」


「え、ちょっと位食べたら?」


「・・・・慣れたもんだな」


「え?そう・・?週の半分はあたしが片付けるし、慣れもあると思うけど・・・」


桜が先にベッドに入っている日も少なくない。


そういう日は、きちんと昴が自分でクローゼットにスーツやネクタイを片付けるのだ。


受け取ってくれる桜がいる時だけ、日課となっているこの一連の作業には、少なからず昴の甘えも含まれていると思うので、桜としても苦ではない。


昴が帰ってこないと、スーツもネクタイも受け取れないのだ。


自分の制服にブラシをかける事はあっても、男物のスーツにブラシをかけた事なんて一度もなくて、一緒に暮らし始めてすぐはなかなか戸惑ったものだった。


幸に教えてもらいながら、どうにかアイロンがけとブラシがけをマスターした時には、一人前の主婦もどきになれた気がした。


あっという間に形状記憶のワイシャツが主流になって、洗濯を干すときに念入りに皴を伸ばす事に重きを置くようになってしまったけれど、そうやって少しずつ二人の生活を重ねて縒り合わせて来たのだ。


懐かしい思い出に浸っていると、昴が不服そうな顔になった。


「そっちじゃねーよ・・・バレンタイン。チョコレート貰ってきてもいいけど、最初に食べるのはお前がくれたやつにしろって怒ってたのに」


「いいいいつの話よ!!!」


「言われなくても毎年手ぇ付けずに実家に持って行ってたのに。あんまり必死になって言うもんだから俺も可笑しくなってさ。大人ぶってても、まだまだ子供だなぁと思ってなんか安心したんだよな」


初めてのバレンタインの直前の記憶を引っ張り出されて、桜は真っ赤になった。


中学、高校と女子高で育った桜にとってのバレンタインといえば、予備校のクラスメイトに男女関係なく配る義理チョコが定番だった。


高校時代一度だけ付き合った事があるが、すぐに別れてしまったのでそういう甘酸っぱい経験は皆無だった。


だから、初めて恋人に贈るチョコレートに、かなりドキドキしていたのだ。


しかも相手は年上で、社会人。


保護者公認の婚前同棲状態の桜なのだから、なにひとつ怖いものなどありはしない。


それは建前であって本音は別だ。


バレンタインの1週間以上前から、次々と昴からお土産と称して手渡されるバレンタインチョコの数に愕然として、幾度となく心が折れそうになった。


社会人になると、義理チョコが義務みたいになるから、特に意味はないと幸から何度も言い聞かされたし、昴の様子を見ても全くその通りなのだろうとは察しがついたけれど、女子大生の桜にはなかなかショッキングな出来事だった。


自分の恋人が女子に人気で、それを誇れるようになるには、相当の鍛錬と自信が必要なのだ。


バレンタインチョコをカウントするのも嫌になって来たある日、今日も今日とて渡された手土産が、珍しく開封済みである事に気付いた。


結びつけられていたであろうリボンが、紙袋の中に無造作に放り込まれていたのだ。


少し迷って、それでも好奇心を抑えきれずに中を確かめると、6つに仕切らた一角が空になっていた。


砂糖菓子で作られた可愛らしい花が飾られたトリュフは、カラフルなチョコレートでデコレーションされており、贈り主のセンスの良さを感じさせる。


じくりと胸がきしんで、よせばいいのに、と内心思いながらも、結局桜が疑問を口にしてしまった。


「これ、食べたの?」


これまで、持ち帰ったチョコレートはどれも未開封だった。


とくに興味も無かったのか、好きなものから食べて、食べきれない分は大学の友達と分ければいいなんて無神経な事を言ってのける程度の認識だったのだ。


わざわざ包装を解いて、それだけを口にした事に、特別な意図を感じずにはいられなかった。


「ん?ああ、結構旨かったよ。わざわざ甘さ控えめなのを選んだらしくて・・・桜も食べて・・・え、?ど、どうした!?」


贈り主が昴の嗜好まできちんと把握している事実に打ちのめされて、もう駄目だった。


気付いた時には視界は涙でぐにゃりと歪んでいて、勢いのまま手にしたチョコレートの箱を昴につきつけた。


「食べれるわけないでしょ!?これは、昴の為を思って、その人が一生懸命選んだんだから・・・それが分かってるから、昴もこれだけは食べたんだよね!?あたしにあげるなんて、無神経すぎるよ!」


贈り主の気持ちを考えると、このチョコレートに桜が手を伸ばすわけにはいかない。


けれど、本当はこれを昴の手にも返したくなんてない。


でも、誰かに思いを届けたいと願い自由を、横から奪う権利なんて桜にはない。


胸元に押し付けられたチョコレートの箱を掴んだ昴は、そのままそれをポンとソファの上に放り投げた。


あまりにも適当過ぎるその仕草に唖然とする桜の目尻から零れ落ちた涙を、ため息交じりの謝罪と共に、昴がそっと拭い去った。


「俺が悪かった・・・」


困り果てた表情で、反対の目から零れた涙も慎重に拭った昴が、それでも後から後から零れていく桜の涙に降参して、そのままスーツの肩口に桜の額を押し付けた。


吸い込んだ空気に混ざるタバコと男物の香水の匂い。


肩を抱かれた強さと、掛かる腕の重みに、見栄を張って強がった猫が一気に剥がれた。


「バレンタイン・・今日じゃないし!!あたしだって・・・まだ渡してないのに・・・なんでほかの人から貰ったチョコ先に食べるのよぉおお!!いっぱい考えて・・・悩んでるのにいい!!」


「・・・ん、だから、俺が悪い。考えなしだった・・・ほんとごめん」


わんわん泣きじゃくる桜に、途方に暮れながら小一時間付き合わされた昴は、その後、真っ赤になった目元をアイスノンで冷やす桜の付き添いながら、洒落たチョコレートの贈り主の正体を桜に明かした。


その相手を聞いた途端、桜は寝転がっていたソファから起き上がって、掴んだアイスノンを勢いよく昴に投げつけた。


「なんでおば様からだって先に言わないのよ!!!!」


父親と食事に行く約束をした母親が、会社までタクシーで乗り付けてそのついでに昴にチョコレートを押し付けて行ったらしい。


毎年味はどうだったかと尋ねられるので、例年通りそれだけ開封して口にしただけで、他意は無かったと聞かされた瞬間、桜は羞恥心で死にそうになった。


投げつけられたアイスノンを難なく受けた昴は、終始ご機嫌で、翌年以降、桜から貰ったチョコレートを必ず最初に食べると約束した。


今となっては懐かしい思い出だ。


「今年はどんなチョコレートが出て来るんだ?」


「・・・いま思案中。あんまり期待しないで。あと、ほかのチョコにも浮気しないで」


「・・・はいはい」


機嫌よく笑った昴がプルタブを引き上げる。


彼が余裕なのはいつもの事だし、それはきっとこれからも変わらない。


あの時泣いた気持ちに嘘は少しもないのも事実だ。


それでも、やっぱり未だにちょっとだけ悔しいから。


口元にビールを運ぶ昴の腕を支えに、ほんの少し近づいて、つま先立ちになる。


意趣返しのキスは、ほんのり煙草の味がした。

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