第103話  tempest 

当たり年とでもいうのだろうか。


今年何個目かの台風はまたもや日本列島縦断の予報。


つい先日も暴風と大雨で街路樹が倒されたり、停電が広がったりと散々な被害をもたらしたばかりだ。


充実した福利厚生が誇りのクリーンな企業に相応しく、社員の安全を第一優先にという社長の指示の元、電車の運行状況予定が発表されると同時に、台風接近に伴い翌日は全社員の出勤を停止するという通達が出された。


関西圏の店舗についても臨時休業の指示が出されて、各部署の管理職は部下への指示と、事前対応に追われる事になった。


帰宅困難者が出る恐れもあり、付近のホテルはすでに予約で埋まっている状況。


不測の事態に備えて、ビル管理の警備員だけが夜通し常駐する以外は、全員が自宅待機。


ここ数年で初めての特例措置に、一部の末端社員は臨時休暇だと手を叩いて喜び、タスク管理の担当者と、営業部門とシステム室と、商品課と工程管理に所属するほぼ全社員が、スケジュール変更と、臨時社内便の手配と、無茶な納期変更で日付が変わるまで社内を駆け回ることになった。


誰もが天気の神様を恨んだ一夜だった。


海沿いの展望エリアの住民も多く、避難指示が出る可能性のある地域の社員の確認や、避難場所の通知、安否確認の連絡。


この不測の事態は、いきなり決算がやって来たような怒涛の忙しさをもたらし、まさに会社全体が嵐に見舞われたようだった。


誰もが落ち着かない様子でいつになく足早に、もしくは小走りに廊下を行きったり来たりする。


賑わう食堂での話題は勿論、台風への対処一色。


中でも役員秘書は、出社停止の指示が下りた瞬間から、机に噛り付いて方々に電話を架ける羽目になり、一時は秘書室全体がコールセンターのようなざわめきに包まれた。


幸いなことに、昴が側近を務める一鷹は、社内会議と店舗視察の予定しか入っておらず、外部との調整が必要無いスケジュールだったので、会議資料の準備と各部署への連絡に専念することが出来た。


営業部全体の動きを確認しつつ、逐一一鷹への報告を行い指示を仰ぐ。


普段なら何の問題もなく流れて行く一連の作業が、営業各部署から上がって来る情報が時々で変化するので、その都度指示の変更が必要となり、やはり予想以上に手間がかかった。


一鷹も自席で電話とメール対応に追われていて、ちょくちょく顔を出す営業部門の役員の相手もしなくてはならず、二人の間でのやり取りは会議中同様スカイプがメインとなった。


専務専用の執務室のドアを開ければすぐに営業フロアで、その一角にパーテイションで仕切られた浅海昴の席はある。


本来なら、一鷹の秘書業務も兼ねている昴の席は、執務室と繋がった個室に用意される予定だったが、現場との隔たりが出来る事を嫌った昴が、元からいた営業フロアからの移動を拒んだ為、役員と一鷹の必死の説得に折れる形で今の場所に落ち着いた。


いくら風通しの良い社風とはいえ、分家筆頭且つ次期社長の片腕が、一般社員と同じように机を並べるのは如何なものか、立場に相応しい行いがある事を自覚するように、と釘を刺したのは昴の父親で、現場の声を身近に出来る機会は貴重なので、出来るだけ近い場所で働いて欲しい、と間に入ったのは一鷹だった。


浅海家を担う役割を最初に与えられていた兄、大地の出奔により、後釜として側近となった昴は、初めから兄とは違う視点で志堂を見て来た。


いずれは志堂の歯車の一部となって、動かされる側の人間。


その考えが、こうして”浅海家嫡男”を引き継いで数年経った今もどこかで拭いきれない。


人の上に立つことを最初から教え込まれ、スタートラインから違う場所に立っていた一鷹とは、根本が違う。


同じように現場に立っても、視点が違う二人の意見はぶつかる事もしばしばだが、それが新たな展開に繋がる事も多い。


純粋な専務と秘書とは若干異なる関係性は、不思議な程互いにしっくり来ている。


そしてそれは、私生活においても同じだった。


ほぼ同時期に生涯の伴侶となる相手を手に入れたせいもあるかもしれない。


一鷹は細い糸が縒り合わさって行く時間の中で出会い、昴は神様の悪戯としか思えない、皮肉な偶然で出会った。


恋愛も結婚も志堂の外で、と昔から決めていた筈の二人が心を奪われた相手は、意外にも志堂に深く関わる女性で、姉妹のような関係性だった事も加わって、さらに二人の結束は強まった。


揃って外堀を埋めて、外野を黙らせ、下にも置かない扱いで想い人を溺愛している。


営業部門の同僚からも頼りにされて、役員の覚えもめでたい昴は、分家筆頭を鼻に掛ける事も無く、その気さくな人柄から人望も厚い。


一鷹同様に、次代の志堂を担う重要な人物として、社内でも人気がある。


そんな彼の唯一の弱点が、本来なら表に出さず箱入りにしておきたい年下の婚約者である事を知っているのは、一鷹を始めとするごく一部の親族だけだ。


目と鼻の先に居るのに、お互い電話と確認作業で入れ代わり立ち代わり訪れる社員への対応に追われて、まともに顔を合わせるのは半日ぶりという驚きの状況。


どうにか一服する時間をもぎ取って、執務室のドアをノックすると、一鷹は誰かと電話中だった。


ちらりと顔を上げてこちらを見た表情で、その相手を察する。


ポケットから取り出した煙草のパッケージを揺らして見せると、一鷹は会話を止める事無く頷いた。


火急の用件なら電話を架けて来るだろうし、この調子ならそういった事態は起こりそうにない。


お邪魔しましたと一言も発さずにドアを閉めようとした矢先に聞こえて来たいつになく柔らかい一鷹の声に、やっぱりな、と予想通りの電話相手に頷いて、部屋を出た。


メイプルシロップに浸したパンケーキに、粉砂糖とチョコレートをかけて、生クリームを添えたみたいな甘ったるい声。


新居となっている一鷹の家に、最愛の従姉を尋ねた桜が、ぐったりげっそりしながら帰りの車の中で漏らした感想だ。


確かにあんな声は聞いた事が無い。


喉がひりつく様な、胸焼けを起こしてしまいそうな、その場から逃げ出したくなる色香を放つ声で四六時中纏わりつかれて、よく奥方は平気でいられるもんだ。


まあでも、慣れもあるのかもしれない。


幸はあの状態の一鷹しか知らないのだから。


柔らかい口調と穏やかな笑みで引き寄せて、腕の中に囲い込んだ後は、一生繋いで離さない。


雨の如く注がれる愛情は止む事無く、幸の世界はあっという間に洪水だろう。


溺れて沈んだ後は、それがもう日常と化すから、違和感なんて覚えようがない。


一鷹は死ぬまで幸だけを愛し続ける。


捕まえて綺麗な籠に閉じ込められた鳥は、広すぎる籠の大きさを正しく理解する前にきっとその生涯を閉じてしまうだろうから、これも幸せの一つなのだろう。


志堂の男は大抵そうやって結婚相手を手に入れる。


愛情過多な人間が多い事は両親を始め親族を見れば一目瞭然だ。


あとは、可愛い妻を連れ歩いて自慢したい性分か、徹底的に隠して独占したい性分かの違いだけ。


時代の風潮もあるのだろうが、パートナー同伴の社交というのも随分と減ってきている。


それが、同じ性分の一鷹と昴にとっては好都合だった。


世代交代の後は、何処にでも妻を連れて行くスタイルは一変するだろう。


むやみやたらと得意先の前に連れて出る事もない。


必要な時に必要な場所で最低限の関りを持つ以外は、ごく内輪で交流を続けるだけで十分だと、一鷹も昴も思っていた。


社会人として会社に勤務して、普通の生活を送っていた幸はともかく、昴が薬指の約束を望んだ相手は当時まだ女子高生だった。


大学に進学はしたものの、当然就職の予定なんてない。


最初から外で働かせるつもりは昴にも、一鷹にも、幸にもなかった。


桜が望めば志堂の関係会社に縁故採用を取り付ける位のことはやってのけただろうが、自身の結婚で志堂との関りが急速に変化した幸は、桜が働きたいと言ってもよい顔はしなかった筈だ。


幸いなことに、桜が通う聖琳女子は、歴史が古く、良妻賢母を育む事で有名で、地元の企業や名士の令嬢が多く通う場所でもあったので、将来は一般企業に就職してOLになる、という世間一般の女子が思い描く未来地図はそれ程浸透していなかった。


大学在学中に取引企業の令息と婚約して、卒業と同時に結婚というのも珍しくなく、まさに桜も同じような形で卒業と同時に浅海の籍に入る事が決まっていたので、純粋に自由な学生生活を満喫していた。


そうさせる事を誰よりも望んだのは幸で、高校卒業と同時に浅海の保護下に引き入れたかった昴としては、数年間待たされることになったわけだが、親族間の面倒事を片付ける猶予期間が出来たと前向きに捉える事にしていた。


戸籍上は京極桜を名乗らせてはいるものの、住居は同じで、両親が居ない桜の保護者代わりを務めている一鷹夫婦公認の下、誰に気兼ねする事も無い正式な”同棲生活”を送っている。


順番を間違えるような失態は犯せないので、妊娠だけは避けなくてはならないが、それ以外はまさに理想通りの二人暮らしだ。


一鷹程ではないにしても、自分でも驚くほど桜に甘い事を自覚している。


こうして平素以上に多忙を極める過密スケジュールを縫って、煙草と言い訳をしてまで、連絡を取ろうとしてしまう程度には。


秘書業務に慣れているから、その日の桜の講義予定も、放課後のプライベートも全て頭に入っている。


イレギュラーで、馴染みのカフェでお茶をする事になったとしても、桜の交友関係は全て掌握済みなので、居場所が特定できない事は無い。


言えば桜は顔を顰めるだろうが、志堂に連なる家に入る人間への対応としては、至って普通の事だった。


勿論、無駄な情報を与えて怯えさせるつもりも、警戒させるつもりも無いので、墓場まで持って行く事項だ。


スケジュールの移行漏れが無い事を確認して、営業フロアが空になるのを見届けた後、警備室に大量の差し入れを届けて、一鷹と一緒にオフィスを出たのが午前1時。


大学も当然休校らしく、ご飯とお菓子を買い込んで帰るから、と言っていた桜は、宣言通り大量の荷物と共に帰宅しており、リビングのテーブルの上には、おにぎりやサンドイッチ、ペットボトルやスナック菓子がずらりと並んでいた。


まるでパーティーさながらの賑わいに、これだけ食料があれば2,3日引きこもっても平気だなと苦笑いした。


戻る時間が読めないからと、先にベッドに行くように伝えたが、桜はやっぱりリビングのソファでブランケットに丸まって眠っていた。


日暮れと共に風が強くなって来たので、心細さもあったのだろう。


日付が変わる前に帰宅出来ると踏んで、自宅で待っているように伝えたが、こんなに遅くなるなら、幸と一緒に一鷹のマンションに置いておけばよかった。


買い出しで疲れたのだろう、熟睡していた桜はベッドに連れて入っても目を覚まさなかった。


どうせ台風が直撃すれば雨風が煩くて眠れないのだろうから、今のうちに睡眠時間は確保しておいてやりたい。


起きない事は承知で、それでも慎重に抱き寄せて掛布で包み込んで目を閉じる頃になって、漸く目の前に落ちて来た完全な休日の存在に気付いた。


平日のど真ん中に完全に仕事から解放されて完全にフリーになるのは初めてだ。


有休消化しろと上から煩く言われて無理やり捻じ込んだ休暇中でも、お構いなしに電話は架かって来るしメールも届く。


桜と二人きりで過ごしていても、仕事の事が頭から完全に無くなる事は殆どない。


最低限の連絡は休暇中も欠かさず取るようにしていた。


それが、今回の特例措置は、会社全体が完全休業。


同業者の殆ども、臨時休業と出社停止の措置を取っている。


関西圏のほぼ全域が機能停止状態になると、当然仕事の連絡も来ない。


放置するとすぐにいっぱいになる受信ボックスも、確認する度うんざりする着信履歴も、丸一日昴の手元から離れる。


「・・さて・・朝起きたらどうしようか・・?」


根っからの仕事人間なので、いざ何もしなくて良い休日を手渡されると、どうして良いのか分からない。


自由に動ける時間が確約されているのだから、桜を連れて遠出をしたり、一日買い物に付き合ってやるのもいい。


ただし、天気が良ければの話だ。


確実に自宅に足止めされるとなれば、出来る事は限られてくる。


生憎家事全般は苦手で、趣味が料理とか言うイマドキ男子でもない。


桜と並んでキッチンで料理をするのも楽しそうだとは思うものの、実感が湧かない。


どうせ、昴の手際の悪さに呆れた桜が、リビングで待ってて!と目くじらを立てるか、料理に夢中になった桜に痺れを切らした昴が性懲りもなくちょっかいをかけて、調理を中断させるかのどちらかだ。


悩むまでもなく後者だな、と結論を出して、買い込んだ食料を思い出して、その必要もないか、と苦笑いした。


食べ物も、飲み物も余るほどある。


停電になったとしても、備蓄品と非常用の明かりと充電器は前の台風から準備してあるので問題はない。


となると、後は、どうやって丸一日を桜とふたりきりで有意義に過ごすのか、という懸案事項のみが残る。


鳴らない電話。


届かないメール。


些末事が頭を過りながら桜を構う日常から、隔離された特別な一日。


誰にも何にも邪魔されずに、好きなだけ腕の中の彼女を構って甘やかして過ごせる。


社会人になるずっと前、大地はもう二度と浅海の家に戻らない事を知らされたあの日から、自分と一鷹の分刻みのスケジュールに追われる毎日が日常と化していた。


時計を見る事が当たり前になり、1時間後のスケジュールを確認するのが癖になり、海外との時差計算が無意識に出来るようになって、これが大人なのだと思っていた。


志堂という巨大な組織を回す側に回ってからの日々は、忙しくも充実しており、背負う責任が増えると共に、充足感と達成感も比例して増していった。


そういう毎日に疑問を抱く暇も無かったし、仕事という成果は、感情に振り回される色恋事よりもずっと昴を満たしてくれた。


だから、自分の立場と天秤にかける存在と巡り合うなんて夢にも思っていなかった。


だからこそ、こうして手に入れた新たな日常は、かけがえのない守るべき現実だ。


桜を手放さない為の選択を、一鷹がそうしたように、これから昴も死ぬまで続けていく事になる。


満たされれば満たされるほど、失う怖さを覚えて、何度も何度も覚悟するのだ。


決して穏やかなばかりではない、だから、こういう予期せぬ休息はご褒美として有難く享受して、満喫するのが正しい人生の選択だ。


クッションを抱えるようにして眠っていたせいで、不自然に寝癖がついた艶やか髪を撫で下ろしながら、数時間後に迎える朝を思って、昴は柔らかく微笑んだ。




★★★★★★★★★★★★★




力加減には十分気を付けていたつもりだが、それでも苦しかったようで、ごろんと寝返りを打って背中を向けた桜が、腕枕から頭がずれた違和感に気付いて小さく声を漏らした。


「・・んぅ・・」


上からそろりと覗き込んで、覚醒具合を確かめる昴の指が、そろそろと首元に絡まる長い髪を背中へ梳きやる。


その仕草が擽ったかったのか、きゅっと眉根を寄せた桜がうっすらと目を開けた。


視界の端に見えたらしい昴の指先に気付いて、再び寝返りを打ってこちらに振り向く。


そっと持ち上げた頭の下に腕を滑り込ませながら、名前を呼ぼうとすると、半拍早く桜が呟いた。


「もう行くの・・?」


昴が出かける事を前提とした呼びかけに、どれだけ桜を残して家を出る事が彼女の中で標準装備(デフォルト)になっているかを痛感する。


僅かに掠れた囁き声が子供のように心細げで、昴は安心させるように額にキスを落とした。


「昨日電話で話しただろ?今日はどこにも行かない、お前の傍にいるよ」


「・・・でも、会社」


「うん、だから一鷹も、社長も全員休みだから。心配しなくていい。緊急の呼び出しも入らない、絶対な」


なんせ電車も午前中に全線運休が決まっているのだ。


近くのスーパーもコンビニも休業もしくは短縮営業になっている。


医療従事者やよほどの事情がある人間以外は外出しないだろうから、呼び出される心配もない。


「ええ・・じゃあずっと家にいる?」


「何度もそう言ってるだろ?やっと目ぇ覚めたのか?俺の眠り姫はほんとに寝起きに弱いな」


いつもは時計を気にしながらの甘い触れ合いも、今日は遠慮なく好きなだけ触れられる。


くしゃりと髪をかき混ぜると、桜が漸く焦点を合わせて昴を見つめた。


「お帰り・・」


「ただいま、それよりもう朝だぞ。おはよう」


「あ、うん、おはよ・・なんか、昴・・機嫌良い・・」


「当たり前だろ?こんな気分のいい休日は初めてだ。久しぶりに起きるまで寝顔も見られたし・・・」


揃えた指の背で、零れて来た横髪を払うように滑らかな頬を撫でる。


恥ずかしそうに目を閉じた桜が布団に潜りかけたので、それを制して引き寄せる。


胸元に抱き込むと、甘えるように桜が額をこすり付けてきた。


「・・変な寝言言ってなかった?」


顔が見られない淋しさと、触れた場所から伝わる柔らかな熱の心地よさで、二律背反の気持ちが渦巻く。


もう掌に沁みついている素肌の感触が恋しくなった。


それでもどうにか踏み止まって、甘やかすだけに留めておく。


太陽を遮る分厚い雲が覆う空はどんよりと重たく、時折強く吹く風が泣いているように聞こえる。


桜が起きる少し前に確認した時計は、8時過ぎを示していた。


終日ベッドに籠るのは実に理想的な休日の過ごし方だが、明日以降の桜の機嫌を考えると加減が必要だ。


寝起きの無防備さと相まって、甘い香りを振り撒く桜は、酷く魅力的なご馳走だ。


後どれ位戯れ程度のじゃれ合いで済ませられるだろうとこっそり溜息を吐きながら、昴は鷹揚に問いかける。


「何だ、夢でも見たのか?」


「ん・・昴が会社行く夢・・」


「そんないつも通りの夢見るなよ。今日はこっちが現実だ」


人差し指で頬を突けば、桜がちょっと眉を上げてくすりと笑った。


「あ、そうだ。買い込んだご飯見た?冷蔵庫の中にもね、ヨーグルトとか、プリンとかあるから」


「お前よく一人で運べたな」


「冴梨がね、自分の買い物ついでにタクシー乗せてくれたから。運転手さんが玄関まで運んでくれたし、凄く楽だった」


「ああそれで・・」


「冴梨も一人だと贅沢できないけど、二人だからって。何か亮誠さんの元に行っても全然庶民感覚が抜けてなくて、むしろ安心した」


「長年染み付いた価値観はそう簡単に変わんねぇよ・・」


昴の言葉にふーん、と呟いた桜が、思い出したように問いかけた。


「煙草、吸わなくていいの?」


寝起きにベランダに出るのは昴の日課になっていた。


けれど、今日はなかなかベッドから出る気になれない。


いつもは、そうでもしないと仕事モードに頭が切り替わらないので、煙草に火を付けるが、今はその必要はない。


まれに、染み付いた価値観を覆される事もある。


寝起きと、仕事終わりの一服に勝るものはないと思っていた時期もあったが、今は・・


「明日の朝まで、俺を独占する権利がお前にはあるんだけど?桜の傍を離れてもいいのか?」


揶揄うように前髪を撫でれば、瞬きをした桜の頬がみるみるうちに赤く染まって行く。


「で、でも、そのうち吸いたくなる癖に」


尖らせた唇は、キスを待っている事にして、遠慮なく啄む。


腕枕を外して、覆い被さるように顔の横に両手を突くと、桜が恐る恐る視線を合わせて来た。


潤んだ瞳に捉えられて、煙草の苦みも、明日の予定も、完全に頭の中から消え去る。


シーツに散った髪を撫でながら今後の方針を告げた。


「そうなる前に、お前の事を貰うよ」


後は、時間の感覚が無くなるまで只溺れるだけだった。

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