第82話 彼女に一言  

「近江先生いなくなったら寂しくなるよねー」


「今の生徒にもすっごい人気って言ってたし」


「新卒で入ってきた時は、あたし達と同い年かと思うくらい幼い感じだったのにね」


「そうそう、童顔でからかわれますって、新任の挨拶の時に言ってて」


「講堂中がきゃーって黄色い声援に包まれたよね」


「シスターがすっごい怒って、皆さん静かになさい!ってあり得ない位の大声で叫んで」


記憶をたどる様に桜が目を閉じる。


その様子を見ていた冴梨と絢花が顔を見合わせてにやっと笑った。


「桜なんて、最初子供みたい!とか言って馬鹿にしてたのに」


「馬鹿にはしてない!ただ、童顔だから、先生に思えなくって」


冴梨の言葉を桜が慌てて否定する。


すかさず絢花が口を挟んだ。


「でも、6月の定例会で、先生がピアノ弾いてくれて、ころっとほだされたのよね?」


「ちょっと!語弊がある言い方しないでよね!そんなんじゃ!」


「ええー!嘘ばっかり!ピアノ弾く先生を見つめる桜ってばすっかり恋する乙女だったよ?」


両手を組んで乙女のポーズを見せた冴梨の腕を叩いて、桜がムキになって言い返した。


「恋する乙女とか言わないでよっ!別に好きでも何でもなかったんだからっ!」


「今更でしょー。いいじゃない。女子高生時代の淡い恋の思い出」


「本気の恋は浅海さんとしたけど、憧れの恋はまた別物ってね」


「絢花、冴梨!あんたたち、勝手に人の過去脚色しないでよね!」


「事実を言ったまでですーねー?」


「ねー?」


冴梨の言葉に絢花がうんうん頷く。


二人がかりでやられると、ひとたまりもない。


桜は慌てて逸れた話を元に戻すことにした。


「それより、日にち先に決めないと、先生にお花持って行こうって言い出したのは絢花なんだからね!てきぱき相談する!」


「来週でいいんじゃない?離任式が来週末らしいし」


「駅前のお花屋さん、大きいしあそこで花束調達しよっか」


「じゃあ、講義の後ランチして、お花買って聖琳に行く、ってスケジュールでいいよね?」


冴梨と絢花の意見を纏めるように桜言う。


二人が笑顔で頷いた。


「じゃあ、話もまとまった所で帰ろっか、絢花。この後カズ君とご飯でしょ?」


「うん、じゃあ桜、来週宜しくね」


冴梨と絢花が立ち上がってリビングのドアを開ける。


と、そこで固まった。


「あ、浅海さん!?」


こんな昼の日中に、仕事人間の浅海昴が帰宅するはずがない。


目の前にいるのは幻に違いない。


瞬時に冴梨も絢花もそう理解した。


後ろから続いた桜が、何言ってんの、と呟いて廊下を覗いた途端硬直する。


やっぱり昴がそこに居た。


「な、なんでいんのよーっ!!」


悲鳴にも似た桜の叫びがリビングいっぱいに広がる。


桜以外の三人は思い切り顔を顰めて、冴梨と絢花はそそくさと逃げるように昴の前を通り過ぎる。


「浅海さん、こ、こんにちは。お邪魔しましたっ!」


「浅海さん、お仕事お疲れ様です、これで失礼しますっ桜また明日、大学でね!」


「あ、ああ、いらっしゃい。帰るなら送ろうか?」


困惑気味の昴が、ひきつる笑みを浮かべながら桜の友人二人を見下ろす。


即座に冴梨と絢花は首を振った。


「けけけ結構ですっ!」


「まだ明るいですしっ!」


言うが早いか逃げるように、二人揃って玄関から飛び出していく。


声を掛ける暇もない。


ドアの閉まる音がして、途端家の中が静寂に満ちた。


リビングの床にしゃがみ込んだまま、こちらを見ようとしない桜の前に、昴が片膝をついて跪く。


「帰ってきちゃまずかったか?」


静かな声音に、桜がびくりと震えた。


「べ、別にそんなことないけど!!」


「ならなんでそんな動揺してんだよ」


呆れた声で言って、昴が桜の肩に触れた。


宥めるような、優しい撫で方。


けれど、逆に桜の動揺は増すばかり。


「動揺なんて・・・そんな・・・っていうか・・・いつから居たの!?」


仕事の資料を取りに昼間帰ってくる事も、無くはない。


今日もその一環だろうと思った桜の問いかけに、昴が簡潔に答えた。


「お前らがきゃーきゃー盛り上がる最初から」


最初、つまり、桜たちが近江先生の話題を始めた時から居たと言う事だ。


さっきの会話を必死に思い出す。


別に何があったわけじゃないし、何も無かったけど。


変な誤解が生じるような言い回しをしてやいないだろうか!?


急に不安が過って、桜は勢いよく顔を上げた。


必死になって昴の腕を掴む。


ここはきちんと説明するしか他にない。


「あ、あのね、近江先生っていうのは、あたしたちの学校の」


「新卒採用になった童顔の教員だろ」


「っ・・・」


「だから、最初から聞いてたって言っただろ」


「った、立ち聞きとか行儀悪・・」


「しょうがねぇだろ。声かけようかと思ってリビング覗いたらお前ら異様に盛り上がってるし。タイミング測ってたら、ほだされたとか言うから」


「や、っちょ、それは違うから!すっごい誤解だから!昴まで何言ってんのよ!」


昴の腕をばしばし叩いて、桜があり得ない!と繰り返す。


その腕を掴んで、昴が桜の顔を覗き込んだ。


桜の視線を絡め取る様に、ゆっくり目を細める。


「俺に聞かれて、動揺する程度には好きだったんだな、そいつの事」


「・・・」


もう否定できない。


桜はきゅっと唇を引き結んで、視線を下げた。


彼が来たのは、桜が聖琳女子に入学した春の事だ。


桜たちと同じく新入生のような顔で、真新しいスーツに着せられて、壇上に上がった彼を見たのが最初。


なんて頼りにならなさそうな教師だ、と思ったのが第一印象。


けれど、彼が煮詰まった会議の小休憩で引いてくれたピアノを聴いた時から、その気持ちは憧れに変わった。


大きく花開くことは無かったけれど、丸く膨らんだ蕾は、淡い恋の色をしていた。


その彼が、聖琳女子を去る。


実家の家業を継ぐために、九州に帰るらしい。


お別れの挨拶に行こうと言い出したのは冴梨だ。


思い出のある学び舎をたまには見たいし、と軽い口調で誘われた。


時代遅れの古い制服、レンガ造りの重厚な校舎。


厳しい校則に守られた花園での三年間。


彼が弾いてくれた、夕陽みたいな、優しい曲。


「いい、先生だったの」


素直な気持ちを口にしたら、昴が啄むように桜の唇にキスをした。


それ以上言わせない、そんなキス。


「・・・っ・・・」


きゅっと唇を閉じた桜の頬を撫でて、昴がこめかみにキスをする。


「そうか・・・」


吐息交じりの囁き。


桜がちらっと視線を持ち上げると、柔らかい昴の瞳とぶつかった。


穏やかで、桜を安心させてくれる表情。


いつも通りの昴に、ほっとする。


と、昴の指が顎にかかった。


仰のいたと同時に、噛みつくみたいにキスされる。


さっきの可愛いキスとは正反対の、理性も思考も根こそぎ奪うようなキス。


貪るように食まれて、桜は逃げ腰になる。




「イイ思い出だな・・・って言ってやりたいトコだけどな」


「・・え?」


「・・・なんか癪だな」


独り言のように言って、昴が桜の前髪を優しく撫でた。


「お前に・・・そんな顔させるなんて・・・」


含みのある言い方に、桜が瞬きを繰り返す。


桜の腰を掬うように、昴の腕が回された。


唇が離れた隙に、大きく息を吸う。


桜の髪を指に巻きつけて、唇が触れるぎりぎりの距離で昴が言った。


「逃げんなよ?」


宣戦布告とも言えるセリフと共に、再び唇が重なる。


「・・・っ・・・ん・・っ」


宣言どおり、思い切り逃げたくなる位の熱いキスだった。


後ろ頭を押さえられて、逃げるどころか身動きひとつ取れない。


口内を彷徨う舌は、桜の熱を呼び起こすように執拗に暴れ回る。


二人の吐息しか聞こえない。


触れる唇の感触しか分からない。


指先から力が抜けて、立っていられなくなる。


腰を支える腕が、桜の背中を壁に押し付けた。


昴が僅かに唇を離して、意地悪く微笑む。


始まった恋より、始まらなかった恋のほうが、鮮やかに残る。


永遠に続けられる”もしも”に女は惹かれる。


桜の胸に残る記憶が、どれだけ鮮やかに輝いていても。


その心に刻まれるのは、いつだって自分との記憶であってほしいから。


馬鹿みたいな独占欲だと、呆れられても、止められない。


暗闇から救い出したのが幸さんなら、二度と暗闇に桜が連れ去られないように、守るのが俺の役目だと思った。


指先を絡めることも無かった相手に、桜の記憶はやれない一片だって。


「桜・・・」


擽る様に首筋を撫でて、視線を合わせる。


呼吸が上がったままの桜は、涙目のままで昴を見上げた。


こうして、名前を呼んだ時、俺を見つめる桜の表情が好きだ。


目の前にいる事を確かめて、それから、ほんの僅かに緊張を解く。


桜の回りに張り巡らされているバリアの薄い膜を、一枚そっと剥ぎ取ったような気分になる。


目尻に溜まった涙を親指で拭う。


反射的に目を閉じた彼女の瞼に唇を落とした。


「・・・なによ」


この後の昴のセリフをドキドキしながら待っているのが、伝わってくる。


桜の頬に優しいキスをした。


溺愛中の彼女に一言どうぞ、と言われたら、さてどうしよう。


桜の視界に自分が映っている事を確かめて、昴は囁く。


「俺でいっぱいにしてやろうか?」

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