第114話 パジャマとお帰り
深夜23時過ぎ。
リビングでテレビを見ていた桜の耳にインターホンの音が聞こえてきた。
「はいはーい」
リビングから玄関までは数メートルある。
返事をしても聞こえない事は分かっていたが、つい癖で言ってしまう。
スリッパを履いて、ソファから立ち上がった桜は足早に廊下に出た。
こんな夜更けにどちら様ですか、と誰何することはしない。
必要が無いからだ。
昴から、鍵を忘れたと連絡があった。
今日は朝から新幹線で移動だったので、車を使わなかったせいで、キーホルダーごと自宅の鍵を家に置いて出たらしい。
一鷹の運転手役を務めることの多い昴は、車移動が基本なので、たまにこういう忘れ物をすることがあるのだ。
飛行機移動で飛行場まで車で向かうとかなら忘れないが、電車移動になるとこういうことが時折起こる。
つっかけ代わりのサンダルを履いて、桜が急いでロックを解除して、ドアを押し開ける。
「おまたせーお帰りー」
外灯の下に立つ昴が、桜の姿を認めて一瞬微笑んで、それからすぐに眉を顰めた。
ちゃんと帰宅を待って出迎えたにもかかわらず、しかめ面を向けられる理由が分からない。
昴が二歩で距離を縮めて桜の背中を大きな手のひらで窘めるように撫でた。
「ただいま。インターホン鳴らしたろ?」
「うん、聞こえた―。タクシーで帰って来たんだ?連絡くれれば駅まで迎えに行ったのに」
走り去るタクシーを昴の肩越しに確認して桜が笑う。
先日念願の免許を取ったばかりなので、とにかくいまは運転したくてしょうがないのだ。
最近は、近所のスーパーやコンビニにすら車で出かけている。
けれど、桜のその提案はあっさり却下された。
「夜に一人で運転すんなって言ったろ」
桜が免許を取得してからずっと昴が口を酸っぱくして言っていることだ。
自分か一鷹が一緒の時以外は夜には運転しないように。
それではいつまで経っても夜間運転が苦手なままだ。
折角免許があるのだから、自分で運転して夜のドライブにだって出かけたいのに。
ちなみに、一鷹からは、幸と二人きりでドライブに出かけるのはもう少し先にして欲しいとのお願いされている。
桜が運転に慣れるまではとても愛しい妻を助手席に預ける気にはなれないらしい。
当の本人の幸はというと、桜が免許を取ることに反対していたことが嘘のように、若葉マークを片手にドライブに行きましょう!と自ら誘って来たけれど。
桜とて、運転に不慣れなうちに幸を乗せて何かあっては困るので、もうちょっと待ってねと伝えてある。
そのため、免許を取ってから助手席に収まっているのはいつも昴だ。
ブレーキが遅いだの、確認が足りないだのと物凄く口煩いけれど、近場ならまだしも、やっぱり市内の大通りを一人で走る勇気はまだないので助かっている。
「駅まで10分でしょー」
「それでもだ」
「それじゃあ、いつまでたっても夜の運転出来ないし」
ブスっと不貞腐れた桜の頬を撫でて昴が答える。
「今週は無理だけど、来週末には付き合ってやるよ」
だからそれまでは一人で乗るなと念押しされる。
桜の手にカバンを預けて両手を空にすると、昴が玄関のカギを締めた。
「それと、俺が帰って来るって分かってても、インターホン鳴らしたら出ろ。いきなり鍵開けるなよ」
「こんな時間に誰も来ないわよ」
昴の帰宅連絡を受けたからそのまま出たのであって、さすがにこんな深夜に突撃訪問がやってきたら不審がってインターホンで確かめる。
「こんな時間だからだ」
「はいはぁーい」
彼が過保護なのは昔から、且つこの手のことで折れないことも昔からなので、言い返したりはせずに素直に返事をしてやり過ごす。
「それと」
「なーに?まだなんかあるの?」
もう十分すぎるくらい聞き飽きてますが、と桜は眉根を寄せて項垂れる。
面倒くさそうに問いかけた桜の肩を抱き寄せて、昴が言った。
「パジャマで出て来るな」
「・・・お風呂入った後だったんだもん」
「あのな・・・」
「だらしないって言いたいんでしょー。大丈夫、これから気を付けます―」
これ以上小言を言われるのは御免とばかりにひらひらと手を振って、昴の腕を抜けだそうとする桜。
そんな彼女の背中を抱きしめて、昴が肩口に唇を寄せた。
広めに空いた襟元から覗く滑らかな肌に触れる。
舌先で鎖骨を辿れば桜が、びくっと肩を竦めた。
「・・・っ」
昴の髪が頬を擽る。
馴染みの煙草と香水の匂いに包まれて、漸く昴が帰って来たと実感する。
向かい合わせで桜の腰を抱きしめて、逃れられなくしてから、昴が器用に左手で桜のパジャマのボタンを1つ外した。
指をひっかけて襟元を更に開くと、廊下の柔らかい間接照明に照らされた、白い胸元に唇を下ろしていく。
桜の持っている昴のカバンのせいで、それ以上下には触れられない。
諦めるかと思ったけれど、昴は一向に離れようとしなかった。
指先で撫でた後を辿るように唇が移動していく。
「す・・・昴っ」
困惑気味の桜が名前を呼べば、ちらりと視線を上げた後で、昴が唇にキスをした。
一度だけ触れて、昴が桜の顔を覗きこんで、満足そうに笑う。
「・・・素直だな・・・」
「っん・・・っぁ」
項、肩と触れられた箇所が徐々に熱を発したように熱くなっていく。
飽きることなく触れる唇が、無防備な胸元にいくつかの刻印を刻んだ。
廊下で、帰って来たばかりの夫に抱き竦められる自分の状況を自覚した途端、目を開ける事は出来なくなってしまった。
胸元に顔を埋める昴を確かめたら、冷静でいられなくなる。
赤く残った痕を見つけたら、何も言えなくなる。
だから、ギュッと目を閉じてこみ上げて来る熱をやり過ごす。
小さく息を吐いたら、桜の切ない吐息ごと飲みこむような、深いキスが返って来た。
昴のカバンは決して軽くは無い。
必死に抱えていようとするけれど、徐々に指先から力が抜けて行く。
「ま・・・ってカバン」
キスの合間に告げると、漸く昴が思い出したように唇を離した。
と同時に桜の両手からカバンを取り上げる。
酸欠状態で涙目の桜の額にチュ、とキスを落として昴が囁く。
「無防備なのは俺の前だけにしろ」
「無防備って・・・・」
「そんなカッコで、玄関開けてくれるな頼むから」
「わ、分かったからパジャマはやめます。上着着るから・・・・っこれ!」
外されたボタンを止めようと、胸元に視線を下ろした桜が目を剥いた。
予想以上の唇の痕。
「明日、みゆ姉と洋服買いに行く予定だったのにー!」
「あー・・そう」
シレっと返事をして桜を置き去りにしてリビングに向かう昴。
そんな彼の腕を掴んで桜が叫ぶ。
「あーそうじゃない!」
そんな桜の腰を引き寄せて昴が告げた。
「これでも我慢したんだけど?」
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