第105話 恋しかったから 

一鷹の専務就任から、一時は地方出張が増えた。


結婚してから暫くは怒涛の挨拶回り巡業が続いたが、それも落ち着いて泊まりがけの出張はめっきり少なくなった最近。


昴は久しぶりに単独での出張命令を受けた。


分家がらみの仕事だ。


分家のひとつが地方旅館を買い取ったのだが、改装工事が終わり、リニューアルオープンの案内が届いた。


一鷹が結婚して家庭を持ってからは、分家筆頭としての仕事も全て父親では無く昴に下りて来るようになった。


一通り、自身と一鷹で目を通して決済する。


そのうえで最終判断として確認を現当主と現筆頭に依頼していた。


一泊二日の短い旅行のようなものだ。


旅館の様子を見つつ、分家筋に挨拶回りをする。


二人で暮らし始めた当初は、桜を一人残しての泊まりがけの出張は心配が尽きなかったが、今ではすっかり安心して留守を任せられる。


だから、これは本当に予想外の事態だった。


昭和初期に建てられた和風旅館は外観をそのままに、すっかり内装は洋風に変わっていた。


レトロなムードを漂わせる室内は、アンティークのシャンデリアが上品な雰囲気を醸し出している。


装飾も決して華美ではなく、居心地の良い温かみのある調度品が、何と無く懐かしい気分にさせられる。


穏やかな空気は、分家の色が濃く出ていた。


祖父に当たる先々代から懇意にしている分家の現当主は、好々爺といった風情の初老の老人だ。


旅館経営は息子に一任しているらしい。


支配人に長男、女将にその嫁。


自身は相談役として毎日温泉三昧の優雅な日々を送っている彼は、昴の来訪を心から歓迎していた。


さすがに最寄駅まで、本人が送迎車を運転してきた時には驚いたが。


旅館の視察もそうそうに、秘蔵の日本酒を手に部屋を訪ねてきた当主とその息子との久しぶりの語らいは、心から楽しめるものだった。


旅館の今後の経営展開や本家からの資金援助の話しを大まかにした後は、近況報告となり、籍を入れたばかりの昴が格好の餌にされた。


あっという間に時間は過ぎ、日付が変わってすぐに、酔い潰れた当主を長男と一緒に旅館の離れにある部屋まで送っていった。


戻って軽くシャワーを浴びて、メールチェックの後ベッドに潜り込んだ。


けれど、いつものように眠気が襲って来ない。


酔っている筈なのに、少しも眠くならなかった。


寝付けない理由を考えながら、何と無く桜に電話をかけた。


いつもなら何か用事がある時でもないと殆ど電話はしない。


海外出張もあるので、連絡がいつでもつくとは限らないからだ。


電話がかかってくるのでは?と桜を待たせるのが忍びないので、基本連絡はメールで済ませるようにしてある。


一緒に暮らし始めた頃は、暇さえあれば電話をしていた。


声が聞きたい、とかではなく、ただ心配だから、と言い訳をつけて。


コール2回で電話に出た桜が驚いた声で開口一番。


「何かあった?」


と問いかけて来て、自分がこうして出張先から電話をかけるのがどれくらい久しぶりか改めて実感した。


「いや、何も無いよ。遅くにゴメンな。寝てたか?」


そう思ってみれば深夜1時を回ったところだった。


「お風呂から上がったとこ」


「風呂で寝てたんじゃないだろうな?」


「今日は起きてましたー。昴居ないんだもん、うっかり寝ちゃったら風邪引くし」


「俺が居る時も風呂で寝るなよ。下手すりゃ溺れるぞ馬鹿」


「はーい。ねえ、珍しいよね?電話してくるの」


「ああ・・・ちょっと寝付けなくてな」


「枕変わったから?昴って意外と神経質?」


耳元で桜が笑う声がして、無意識にほっと息を吐く。


さっきまでの自分が嘘のように、じわじわと心地よい眠気が忍び寄って来るのを感じる。


ただ、声が聞きたかっただけなのか?


胸の奥に浮かんだ疑問を自覚したら急に恥ずかしくなった。


わざとらしく咳払いして昴が言った。


「さっきまで呑んでたんだよ。酔いが醒めたみたいだな」


「そうなの?明日も早いんでしょ」


「午後から会社で会議だからな」


「そろそろ寝ないと。朝起きれる?」


「それはお前だろーが、明日幸さんと出かけるんだろ?」


幸とセレクトショップの展示会に行くと聞いていた。


「午後からだもん、平気よ。あ、何か美味しいお土産買ってきてー」


「早速土産の催促かよ」


「だって最近出張無かったし。ねえ何が有名?」


「土地柄酒じゃねえの?」


日本酒を上げると桜が不貞腐れた口調で”あたし日本酒飲めないし!”と返す。


「ハイハイ。何か美味そうなもん探して帰るよ」


「明日、遅い?」


「21時には帰るよ」


「待ってるね」


「何だ、寂しいか?」


問いかけたら桜が素っ気なく


「べーつに!」


と答えた。




★★★★★★★★★★★★★




約束通り20時50分に昴は自宅に帰った。


玄関に迎えに出てきた桜の腕を引いて、廊下との段差を活かして桜の肩に額を寄せて抱きしめる。


昴が小さく息を吐いてから短く告げた、ただいま。


腰に回された腕の力が、挨拶の強さじゃなくて、桜は困惑気味に問いかけす。


「っど・・・どしたの?」


「なにが?」


「っえ、だって・・・なんか変」


「どこが?」


「ど、どこがって・・・」


何処もかしこも変なのだが。


強いて言えば、玄関先でこんな風に急に抱きしめたりする事が!


思わず出張先で何かあったのかと心配してしまう。


「と、とりあえずリビング戻ろう?寒かったでしょ。コートも脱がなきゃ」


身を捩って昴の腕の中から抜け出そうとするけれど上手くいかない。


もがけばもがくほど昴が強く抱き竦めてくるのだ。


「分かったよ」


呟いて渋々腕を解いた昴が、息を吐いた桜の唇に音を立ててキスをする。


驚いた瞬きした桜の前に紙袋を翳して見せた。


「ほら約束のお土産」


「あ、覚えててくれたの?何?」


「桜チョコ」


「え!?」


「桜を使ったトリュフだって」


桜を通り越して先にリビングに入った昴がコートを放り出してソファに腰かける。


「あ、上着も脱いで!」


「ああ」


「ああ、じゃなくって・・」


「桜」


「うん?」


「こっち」


「何?」


「いいから」


きょとんとする桜の手を引いて目の前まで連れて来ると、昴は膝を叩いて見せた。


「え?」


意図が分からずに紙袋を持ったままで桜が固まる。


「おいで」


「何言って・・ちょ・・」


漸く昴が膝に座らせようとしていた事に気付いて、桜が思い切り拒否する。


が、抵抗虚しくあっさりと抱き上げられてしまった。


「何で!?」


「理由なんかあるか」


「恥ずかしいから下ろして!」


飛び降りようとしたけれど、紙袋をテーブルに載せられて、空になった手を肩にまわされてしまった。


無駄な抵抗はやめろという事らしい。


「本当に・・・何?」


見下ろす形になって問い返したら昴が指先で頬を撫でた。


「何でだろうな?」


呟いて、頬から下りた指先で顎を引き寄せる。


唇が重なる瞬間に桜の手が昴の背中を抱きしめた。





恋しかったから、何て口に出せる筈も無く。


生まれた衝動は行き場を失くしてしまうから、とにかく本能のままに桜の唇を求めた。

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