第90話 癒して

家に帰るなり山積みの書類とノートパソコンを手に書斎に籠った昴。


「当分籠るから」


とだけ告げられた桜は、様子を伺ってもいいものか、差し入れを作るべきか2時間程悩んだ。


仕事が立て込むと会社に泊まり込みになる事も少なくない昴。


そんな彼がこうして仕事を自宅に持ち帰ってこなす理由はただ一つ、桜がいるからだ。


さすがに週の半分以上を会社で過ごすわけにはいかない。


子供ではないとは言っても、同棲したばかりの年下の恋人を何日も家に一人にしておくのは色々と不安があるのだ。


同棲前から昴の仕事については理解のある桜だが、別の方面からクレームが入る事も少なくない。


桜を溺愛する姉替わりの幸や、その幸を妻至上主義で愛し抜く一鷹。


そして、浅海の実家。


”仕事が忙しいからと言い訳をして女性に淋しい思いをさせるのは、甲斐性ナシの男のする事です。因みに我が家には、そんなろくでなしはいません”


母親から送られてきた無題のメール。


これでプレッシャーを感じない男がいるわけない。


そんなわけで、持ち帰れる仕事は持参して帰宅したわけだが、抱える案件が多すぎて、とてもじゃないが家で寛ぐ余裕はない。


桜には気を使わせない様に、部屋に籠るから何もしなくていいと伝えた。


のだが・・・


桜の性格からして何もしないわけにはいかなかったらしい。


自宅に戻って2時間が経った頃、差し入れと言ってチャーハンを持ってやって来た。


「お夕飯食べてたのかわかんなかったから」


「ああ、そういやもう0時か。晩飯食うの忘れてたな」


「もう、ご飯だけはちゃんと・・・」


「ああ、分かってる、分かってる」


ひらりと手を振って言葉を遮った昴に向かって桜が恨めし気な視線を向ける。


「大丈夫、もうちょっとやったら寝るよ。俺はいいから、先に寝てろ」


「・・・そう言うと思った」


溜息を吐いて、桜が昴の向き合うパソコンを覗き見る。


細かく書き込まれた表やグラフが並んでいて、桜には何がなにやら理解できない。


「あたしにも、出来る事があればいいんだけど」


何も出来ない歯痒さを感じるのはこれが初めてというわけではない。


それでも、一緒に暮らして更に昴との距離が近づいて、彼の抱えるものの大きさを改めて知った。


だからこそ、何か、と思ってしまう。


無駄な事だと分かっていても。


桜の言葉に、昴がキーボードを叩く手を止めた。


チャーハンが載せられたトレーを端に押しやって、書類の束をサイドボードに移動させる。


「なら・・・はい」


そんな言葉と共に椅子を回して桜に向き合うと、昴は笑って腕を広げた。


「え?」


意味が分からずきょとんと首を傾げる桜の手を掴んで首元に導く。


「癒して」


「え・・・っ・・・い、いきなり言われても・・・ネクタイ、緩めたらいい?」


「そうだな」


おずおずと指をネクタイの結び目にかけた桜がそっと引く。


生地の滑る耳触りのよい音がして、ネクタイが緩んだ。


桜の仕草を眺めながら、昴の腕は彼女の背中を抱き寄せる。


「漸く解き方覚えたな」


昴の言葉に、桜が唇を尖らせた。


「だって、解く機会なんてそうそう・・・」


抜き取ったネクタイを桜の手から取り上げて、ベッドに投げた昴が意味深に笑う。


「ああ、そりゃそうだ。大抵お前の方が先に余裕失くしてるしな」


言葉の意味を理解した桜の顔が一気に赤くなる。


先に求めるのはいつも昴のほうだ。


寝室に向かう前に桜を翻弄してしまう昴は、いつも自分でネクタイを解く。


何度か桜にネクタイを外す様に促した事はあったが、叶ったのはそのうち半分程度だった。


「なっ・・・だ、誰のせいだとっ」


「俺のせいだろ。そうさせる為に・・・こーゆうコト、してるんだしな」


背中を行き来する掌が素肌を求めて彷徨う。


ワイシャツのボタンを外した昴が、桜の胸元に唇を寄せた。


鎖骨を擽る硬い髪の感触に桜の肌が粟立つ。


吐息交じりに肌を吸われて、桜が小さく震えた。


「んっ・・・」


「俺を癒せるのは、お前だけだよ・・・知ってるだろ」


桜の胸元を飾るピンクダイヤは、志堂ブランドで、昴が贈ったものだ。


開発から噛んでいた分思い入れもあるが、今は邪魔でしかない。


伸びかけの髭が肌を滑って桜が堪え切れずに昴の肩を掴んだ。


「つ、疲れてるんだし、寝たほうが・・」


「この状況で寝れるかよ」


ペロリと桜の肌を舐めて昴が誘うように笑う。


「桜が癒してくれたら寝れるかもな」


「っ・・・ばか」


「ああ・・もう、馬鹿でいーよ・・・なぁ・・・いいだろ?」


自嘲気味に笑った昴の頭を、愛おしげにそっと抱き寄せて桜が溜息交じりに答えた。


「しょうがないから、今日はあたしが添い寝してあげるわよ」

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