第89話 スーツ攻防戦 

昴が会社から持って帰って来たのは社員や社員の家族向けの展示会の案内状。


年に一度行われる展示会では、通常の社員割引からさらに値引きされるとあって毎年大勢の来場者が訪れるんだとか。


まだ学生だし、そういう展示会にも行った事が無くて敬遠しがちだった。


基本的には、桜に似合いそうなものを昴や一鷹や幸が見繕ってプレゼントしてくれるのでそれで十分事足りてしまう。


親族会にも殆ど顔を出さない桜にとってジュエリーはたまにおしゃれをして出かける時や取っておきデートの時位しか出番が無い。


のだけれど。


「明後日なんだー」


「予定あるのか?」


スーツを脱いだ昴がネクタイを緩めながら問いかけてくる。


ネクタイの結び方も解き方も何も知らなかった頃は昴の手が器用にネクタイを操る様に見惚れたものだ。


あんまりじっと見るものだから、昴が苦笑して桜にネクタイを解かせてやることもしばしばだった。


「苦しくないの?」


マフラーやリボンとは違う。


桜の学校では女子は皆ブラウスにリボンだったのだえ、ネクタイとは縁が無い。


首元を締めつける感覚は、何と無く息苦しさを覚えてしまう。


スーツ姿の昴はとても好きだけれど(勿論口には出さない)。


桜の質問に昴は笑って


「慣れ」


と簡潔に応えた。


昴はこれと言ってスーツに拘りはない。


なので、扱いも実に無尽蔵だ。


皺になる前にハンガーに避難させないと下手すれば一晩中ソファの上ということもあり得る。


スーツを胸元に引き寄せた。


ふわりと昴がいつも吸う煙草と愛用の香水の香り。


「ううん、なんにもない・・けど・・」


「行きにくい?」


こちらの考えを読んだ昴が視線を合わせてくる。


解かれて首から下がっているだけのネクタイを取ろうと手を伸ばしたらその手首を掴まれた。


唇を爪の先に触れる。


手の甲にもキスが落ちてきた。


反対の手でネクタイを引っ張る。


と同時に昴が最後の距離を詰めた。


唇が重なる。


触れるだけのキスが二度三度と続いてから昴が桜の耳たぶを撫でた。


くすぐったい位の甘い雰囲気。


昴がスーツを脱ぐと、ホッとする。


いつでも抱きつけるからだ。


Yシャツは皺が寄ろうがグロスが付こうが関係ない。


どうせ洗濯機行きだ。





★★★★★★★★★★★★★




いつだったか、昴が帰るのを待ち構えていた桜を抱き締めようとしたら躊躇した事があった。


夕飯を食べに出かける約束をしていて昴の仕事が終わるのを今か今かと待ち構えていたのだ。


会社近くのカフェで時間を潰していた桜にメールを送って自社ビルの地下駐車場で待ち合わせの約束をした。


地下に直通のエレベーターを降りたら車の前で待つ桜を見つけた。


「桜!」


名前を呼んだら、弾かれた様に携帯から顔を上げて、こちらを見て、次の瞬間、柔らかい笑みを浮かべた。


「お疲れ様」


「腹減った?」


「めちゃくちゃ空いた!」


歩み寄って桜の肩に手をかける。


そのまま抱き寄せようとしたら、いつもはすんなり体を預ける彼女が慌てたように昴の胸を押し返した。


「何?」


地下駐車場は無人だ。


ここに下りてくるまで誰にも会わなかった。


何を躊躇う必要があるのかと視線を送ると桜が呟いたのだ。


「御化粧直ししたトコなの、おしろい付いちゃうから」


なるほど、今日のスーツはダークグレーだ。


「ふうん・・」


桜の頬に人差し指の背を滑らせれば、わずかパールが付いた。


女子高時代は校則が厳しかった事もあって化粧っけが無かったのに。


「お前も女子大生だもんなぁ」


ついこの間まで、制服に身を包んでいたと思ったらあっという間に”脱皮”してしまった。


制服着てたら、安心と思っていたのに・・


自嘲気味な昴のセリフに


「え、今更?」


問い返した桜のうしろ頭を掴んで引き寄せる。


「え、だからっ・・」


「まさか、キスも駄目とか言わないよな」


これ以上のお預けは許容出来そうにない。


有無を言わさず重ねた唇から、甘酸っぱいイチゴの甘みが伝わって来る。


桜が塗ったイチゴのグロスのせいらしい。


自分の唇に移ったそれをペロリと舐めて呟く。


「甘い」


「・・・」


いきなりの展開に桜は言葉も無い。


「コレって俺の為?」


「っは・・?」


「こうする事分かってたんだろ?」


2度目のキスの為に、屈みこんだ昴を必死に睨み返して桜が口を開いた。


「ちがうしっ・・!」


反論を塞ぐように強引に唇を重ねる。


やっぱり甘すぎる位甘い。


これで、キスする為じゃないなんて嘘だろう。


「だっ・・誰か来る!」


「来ない」


「も・・お腹空いた!」


「分かってる」


適当に答えながら、全くキスの終わりは見えてこない。


綺麗に唇を舐め取られて、漸く昴が体を離した。


「お・・怒っていい!?」


反射で応えた桜の額に音をたててキスをする。


「誤魔化されないから!」


「怒っていいけど、拗ねるなよ」


桜の唇の端に残ったグロスを拭いとって昴が助手席のドアを開ける。


こういう所は抜け目が無い。


いつも桜は掌の上だ。


渋々車に乗り込むと、桜は運転席に回った昴を盛大に睨みつけてやった。


「スーツ脱いで」


「は?」


今度は昴がきょとんとなる。


「何で」


「いいから、運転する時邪魔でしょ」


早くとせがまれて、仕方なく言われた通り上着を脱ぐ。


さっきは、多少強引に押し切った感があったのでここで機嫌を損ねるとマズイ。


そんな無意識の計算も働いたのだ。


脱いだスーツを後部座席に放り込んでから問い返した。


「で?」


途端、桜が抱きついて来た。


飛び込んできた体を抱きとめて、背中を撫でてやる。


よしよしと髪を撫でれば桜が肩に頬を預けて来る。


「スーツで隠れるからいいよね?」


なるほど、こうしたかったわけか。


こめかみに零れる髪をかき上げて、唇で触れる。


「いいよ」


どうせ食事の後は帰るだけだ。


「うん」


頷いて桜が珍しく甘えるように昴の肩に腕を回した。


こういう所は、高校生の頃から変わっていない。


最初の”とっかかり”を掴むまでは一切隙など見せないけれど


こうして甘える”きっかけ”を与えてやれば桜は驚くほど素直になる。



この一件から、昴は家に帰るとまずスーツを脱ぐ事が習慣になっていた。





「俺も一緒に行くけど?」


「え!」


「何だよ、嫌なのか」


「そうじゃなくって・・てっきり一人で見て来いって言われると思った」


「それくらいの時間は融通きかせるっつーの。一鷹も、幸さん呼ぶつもりだろうから。さすがに一日一緒ってのは無理だけどな」


「それでもいいよ。一緒に見れるなら、嬉しいし」


「珍し」


ぼそっと呟いた昴の一言を、耳ざとく聞き取った桜がムキになって


昴の腕を叩いた。


「珍しいって何よ」


「別に」


シレっと言って桜の長い髪を指で弄ぶ。


鎖骨当たりでふわふわと揺れる毛先がくすぐったい。


昴の視線が甘いので、桜も憎まれ口を叩く気になれずに大人しく体を預けた。

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