第88話 フェアリーローズ

「フェアリーローズ?」


広げた掌の上に落ちて来た小さな紙袋。


そこに描かれた商品名に桜は首を傾げた。


仕事は終わったと、ネクタイを緩める昴は、面倒臭そうに視線を桜に戻した。


「らしいな」


「どうしたの?」


「どうって・・・土産」


「え、一鷹くんからの?」


こういうロマンティックな名前のプレゼントを選ぶのは一鷹の得意技だ。


幸をお姫様にしてしまう無敵の王子様は、その威力を桜の前でも余すところなく発揮してくれる。


桜の答えに、途端昴がむっとした顔になる。


「何でだよ・・・」


「え・・・じゃあ・・・」


「俺が買ってきた、悪いか?」


「え、うそ!?」


バツが悪そうな昴の発言に、桜が仰天してプレゼントと昴を交互に見やる。


柄にもない、というか無さすぎる。


フェアリーローズって!!!


「フレーバーティーらしいぞ」


上着を脱いだ昴が、桜の隣に戻ってくる。


「紅茶専門店行ったの?」


「仕事のついでにな」


パッケージもレース柄で、ピンクのリボンが巻かれた乙女チックな包装。


昴が買って帰るのは物凄く抵抗があったに違いない。


なんでまた?と桜が不思議そうに昴を見つめる。


こーゆーの一番苦手な分野なのに。


視線を向ける桜の顎を掴んで、昴が軽くキスをした。


上唇を強めに吸われて、甘いリップ音が響く。


突然のキスに、桜が瞬きを繰り返す。


キスに理由はないって分かっているけれど、それでも、唐突過ぎる。


隣にいるから、という理由で幸の唇を欲しがる一鷹でもあるまいし。


桜が真顔で、大丈夫?と問いかける前に、昴が口を開いた。


桜の手から紅茶の紙袋を掴んで、テーブルへ落とす。


コロンと転がったそれには目もくれず、桜の頬にキスを落とした。


「・・・いいだろ・・・別に・・・甘やかしたい気分だったんだよ」


「・・・い・・・いいけど・・・」


すっごく嬉しいし、有難いし、ちょっと照れくさいけど・・・でも・・・


「一鷹くんに影響された?」


日がな一日幸を側で見つめて、愛して、慈しんでいたい、妻至上主義者。


昴が仕える主でもある一鷹は、桜が知る限り、史上最強のフェミニストだ。


その彼と毎日のように顔を突き合わせるのだから、影響されてもおかしくはない。


けれど、昴は馬鹿か、と呆れたような返事を返した。


「影響されるなら、もうずっと昔にされてるよ。どれだけ側にいると思ってる」


昴が桜に向けるのとは少し違う笑みを浮かべる。


桜だって、昴から大切にされているし、信用されているし、愛されている。


けれど、昴が一鷹に向ける視線は、もっと絶対的な信頼に満ちていた。


同士であり、協力者であり、庇護対象でもある。


一鷹の成長が嬉しくて、頼もしくもあり、少しだけ寂しい。


そんな顔だ。


これから、どんなに桜が昴の傍に居続けても、この顔だけは絶対見られない。


それが分かってしまうから、何だか悔しい。


あたしを見て。


胸に浮かんだ素直な欲求。


上手く言葉に出来ないから、桜は昴の腕を掴んだ。


視線を合わせるのが怖くて、伏し目がちに唇を寄せる。


昴がいつもくれるような、情熱的なキスは出来ないから。


触れるだけの可愛いキスを唇に贈る。


ちゅっとリップ音と共に、桜が離れた。


ほっと息を吐いたら、昴が桜の頬を撫でた。


視線がぶつかって、ジワジワと照れ臭さが込み上げてくる。


キスなんて、もう数えきれない位してきた。


それでも、こういうヤキモチからするキスは、どうしようもなく恥ずかしい。


一鷹くん、良い人だし、みゆ姉の大事な人だし、優しいし・・・文句なしの男前だし!!


非の打ちどころがない男性なのだが。


それでも、昴と過ごしてきた時間を比べられてしまうと、どうしても嫉妬してしまう。


「なんだよ、ヤキモチか?」


ふっと笑った昴が桜の髪をいつもより乱暴にかき混ぜた。


「きゃあ!ちょっとやめてよぉ!」


編み込んだ髪が乱れると、桜が昴の腕を払う。


昴は気を悪くした様子も無く、桜の頬を摘まんでみせた。


「いいだろ、俺しか見て無いし・・・もう風呂入るだろ?」


髪洗ってやろうか?と艶っぽく尋ねられて、桜がぎょっとなった。


「ひとりで入るっ・・・」


「なんでだよ、今のは頷くところだろ?」


「そんなことないわよっ・・・何考えてんのっ」


あたしはお茶するの、と紅茶に手を伸ばした桜を昴が抱きしめた。


「お茶ー?それは後だな」


きっぱり言い切って、昴の唇が桜の首筋をなぞる。


「やだぁ・・・お茶飲む・・・んっ」


「行かせないっつってんだろ」


桜の指を絡め取った昴が、握り込んだ爪の先にもキスを落とす。


どこで、昴のスイッチが入ってしまったんだろう。


項を辿る唇から逃げるように身を捩りながら桜は吐息を漏らす。


「っ・・・んっ・・・ぁ」


「何・・・考えてる?」


抱きしめた桜の耳元で、昴が静かに尋ねる。


黙り込んだ桜の様子が気になったらしい。


考えるも何も、頭がすでに回っていない。


「な・・・んにも考えられないっ・・・」


昴の唇は熱くて、触れる指はどこまでも桜を追い詰める。


桜の身体を知り尽くした昴は、少しずつ、着実に桜の熱を上げていく。


逞しい昴の胸板に身体を預けて、首を振る桜。


昴は、華奢な肩を撫でながら吐息で笑った。


「それでいい・・・」


思惑通りだと告げると、しなる身体をさらにきつく抱きしめた。


「っや・・・苦しっ・・・」


甘やかしてほしいとは思っていたけれど、こういうのは望んでいない。


ベッドでもないのに、凶暴なまでの愛情を突きつけられて、桜は困惑気味に声を上げた。


桜の非難の声に、昴が少しだけ力を緩める。


大きく息を吐くと、桜の肩に頭を預けて甘えるように凭れ掛った。


昴が腰に腕を回しているので何とか堪えていられるが、この腕が無かったら、ソファに倒れ込んでいるに違いない。


「たまには・・・加減忘れてもいいだろ?」


昴が桜に向ける愛情は、いつも手加減されたもの。


桜が戸惑わないように、困惑しないように、上手に調整されたちょうどよい愛。


「ん・・・あたしに・・・だ・・け?」


昴の硬い黒髪を撫でながら、桜が小さく尋ねた。


こどもっぽい口調に、昴が肩口で笑う。


時折見せる桜の嫉妬は、昴の心を可愛く擽る。


一鷹相手に歯止めが効かないとかあるか、馬鹿、と内心呟いて、桜の唇に触れた。


それだけでは我慢できずに、乱れた長い髪の隙間から覗く肌を指で辿る。


昴の唇が桜の肩口に吸い付いて、甘い痕を残した。


「っ・・・ん・・・」


「そうだよ・・・桜にだけだ・・・」


そうやって俺を翻弄すんのはお前位だよ・・・悔しそうに付け加える。


「無自覚に誘いやがって・・・」


桜の思考を停止させる低くて艶っぽい声音。


昴は嘘はつかない。


桜は昴の耳元に唇を寄せると、小さく囁いた。


「それなら・・・いいよ・・」

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