第75話 大人扱い

いつものように、仕事を抱えて帰ってきた昴が籠る書斎におやすみを告げて、ベッドに潜り込んでから数時間。


トイレに起きたら、2時すぎだった。


桜は寝ぼけ眼のままでゴロンと寝返りを打った。


きれいに半回転して身体が、布団の上に倒れる。


いるはずの昴の姿がない。


瞬きをして桜はゆっくり身体を起こした。


まだ、昴は書斎らしい。


欠伸をひとつして、ベッドから出る。


そう思ってみれば最近、一緒にベッドに入った事が記憶が無い。


どんなに遅くまで仕事をこなしていても、朝はいつも通りに出勤するのに、昴の仕事は毎晩深夜に及ぶ。


一鷹の専務就任から、昴と一鷹が抱える仕事量は倍に増えた。


予想していた事ではあったけれど、本家の仕事と、本社経営に同時に携わるというのは、生半可な事では無かった。


そう思ってみれば、一緒にどころか、今週に入ってから、昴がまともに眠っているのを見たことがない。


昴の口から仕事の愚痴なんて、一度も聞いた事がないけれど。


桜の目から見ても、負担が増えているのは見てとれた。


桜の念願が叶って、セキュリティを一新した京極の家に戻ってから数ヶ月。


昴が、ギリギリまで仕事をこなして、それでも21時前に自宅に帰って来るのは、全て桜の為だ。


この家で桜を一人にしない為。


それが分かっているから、多少の無理は目を瞑って黙っていた。


桜が”無理しないで”と言っても昴が聞かない事は判り切っていたから。


それでも、こうも一人寝が増えると寂しくなるなと言う方が難しい。


自分の為だと分かっているからこそ、堪えて来た不満がふつふつと募る。


口に出来る筈も無く、一人でやり過ごしていたけれど・・・


昴は書斎とは別には寝室を持っている。


桜と一緒に眠る時に使う主寝室だ。


両親が使っていた部屋を、同棲を始めてからひと月経った頃にリフォームして、ウォークインクローゼットを作った。


ベッドも新調して、壁紙も桜の意向に合わせて変えたのだ。


けれど、二人揃って新しいベッドで眠った夜は数える程しかない。


昴が遅いと分かっている時は、桜はいつも自分のベッドで眠る。


広いベッドで一人で眠ると余計心細くなりそうだから。


仕事を終えた昴が、いつの間にか狭いベッドに潜り込んで来ていた事の方が多い。


それ位、二人の生活はすれ違っていた。


ベッドに戻る前に、明りが零れる書斎に寄る事にした。


ドアを僅かに開けて中を覗くと、デスクに置かれたパソコンに向かう昴の背中が見えた。


数時間前と何も変わっていない姿。


上着を脱いだだけのYシャツ姿で、着替える時間も惜しいと言った様子で手元の資料とパソコン画面と睨み合っている。


ドアが開いた事にも気付かない位集中している彼の邪魔をしてはいけないと思ったけれど、歩みを止めるつもりはなかった。


スリッパを途中で脱いで、足音を忍ばせてフローリングの床を進むと、椅子に腰かけている昴の背中に抱きつく。


「っ、何だ、眠れないのか?」


一瞬息を飲んだ昴が首だけ回してん振り向く。


「んー、大丈夫。もう2時回ってるよ?」


「もうそんな時間か・・・時計見て無かったな」


「・・・仕事終わんないの?」


「もう終わりにするよ」


終わる、では無くて終わりにする。


つまり続ければキリが無いという事だ。


昴の首に腕を回したままで桜が呟いた。


「やっぱり、会社で残ってる仕事してる方が片付くんじゃないの?」


「どこでやっても同じだ。データチェックして統計出すだけ」


あっさり言ってのけた昴が資料を放り出して、桜の腕を解いた。


くるりと向き直って、正面から桜の頬に手を伸ばす。


「お前どっちで寝てんの?」


「自分の部屋」


「俺も、風呂入って寝るから。先に寝室行ってろ」


「お風呂もうお湯冷めちゃってるよ」


「シャワーでいいよ。直ぐ出るしな」


「今日は一緒に・・・寝れる?」


「そのつもりだけど?」


昴が桜の頬を撫でた手を下ろして、指先を握る。


「指先冷えてるな、熟睡出来なかった?」


「大丈夫・・・ねェ、昴。あたしも体調落ち着いてるし、遅くなっても平気だから、あんまり頑張りすぎないで?最近全然寝てないでしょ?」


「その分、週末に寝溜めしてるだろ?」


「そんなんじゃ追いつかない位忙しいでしょ、此処のトコずっと・・・一鷹くんだってもうちょっと残業してるってみゆ姉ゆってたし・・・あたしの事なら気にしないでいいから。心配っていうならみゆ姉のトコに行って待ってるし」


「それじゃ、お前がこの家に戻った意味ないだろ」


「意味って、そんなの・・・」


「俺が好きでやってんだから、お前は気にしなくていいんだよ」


「気にしなくていいって、そんな訳いかないでしょ!」


「子供は余計な事心配しないでいーから、ほら、ベッド行け」


昴が宥めるように言って、繋いでいた手を解いて、桜の髪をくしゃりと撫でた。


「こんな時に・・子供扱いしないでっ」


撫でられた髪がふわふわと揺れて、視界を遮る。


もどかしい気持ちでいっぱいになる。


肝心なところで、まだ昴は桜を子供扱いする。


桜が不安を感じる要素が少しでもあれば綺麗に目隠しして遠ざける。


それは、幸や一鷹も同じだ。


物凄く愛されていると感じる一方で言いようの無い焦燥感にかられる。


俯いたままの桜の腰に腕を回して、昴が視線を合わせた。


「子供は寝てる時間だろ?いつまでも起きてるって事は、大人扱いしていいんだな?」


念を押すように尋ねて来る。


意味深なセリフと共にさっきまで頬を撫でていた指先が唇に触れる。


桜が息を飲んだ隙に、昴の手がパジャマの裾から滑り込んで来た。


何も付けていない素肌を滑って肩甲骨を撫でる。


「夜中に起こすのも可哀想かと思ってたんだけど、起きてるってんなら、丁度いいな」


呟いて昴が桜の身体を抱き上げた。


ぐらりと視界が揺れて、昴の膝に横抱きにされる。


「ちょうどって何!?」


非難の声は無視されて、額がぶつかって、唇が重なる。


触れるだけの淡いキスの後で昴が視線を逸らす。


「お前の為じゃなくて、俺が、勝手に早く帰りたいんだよ・・・なるべく、側にいたいんだ。それでも、我慢して、必死で仕事の事考えてるのに、こんな良い匂いさせて遠慮なしに引っ付いてくるんだからな・・・おかげで、仕事する気失せた」


シャンプーの匂いが残る髪にチュっとキスをして昴が続ける。


「大人なら責任取れよ」


パジャマ越しに腰を撫でられて桜が視線を泳がせる。


「・・・早く寝ないと、朝が来るわよ?」


「今日は支店に直行だから、いつもより余裕あるんだ」


「確信犯!?あたし大学っ」


「たまたまだ、桜が起きて来ると思わなかったし・・・授業までには送ってやる」


あっさり言って昴が桜を抱えたまま立ち上がる。


「よいせっと、じゃあ行くか」


「何処に?」


「風呂」


「あたしお風呂入ったし!」


目を剥いた桜の首筋に、器用に唇を落としながら昴が笑う。


「どうせ、後でシャワーするなら一緒だろ?俺はもう1分も待てそうにないけど?」


心地よい唇に身を委ねて、桜は素直に昴の首に腕を回した。

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