第10話 甘いもの

「先生ありがとうございました。来週もよろしくお願いします」


欠席していた間の遅れを取り戻すための特別補習授業を受け持ってくれた担当教師に向かって、礼儀作法通りの丁寧なお辞儀をして、桜は教室を出た。


一鷹と幸が学校側と相談してくれたおかげで、体調優先で授業に出席する事を許可して貰えた。


日によって保健室で休む事もあるが、こうして補習授業を受けられるおかげで毎日の授業にもついていけている。


塾と学校の往復をしていた頃は、毎日の課題に嫌気がさしていたけれど、一度学校を離れてみると、良さが分かる。


高校生でいられる時間はとても短い。


桜が子供でいられる時間も残り少ない。


だからこそ、桜を迎えてくれた幸の為にも、精一杯やらなくてはいけない。


土曜日の学校は、外部受験対策の補修講習や、部活動が行われていて、結構賑やかだ。


行事の為の委員会が土曜日に設定される事も多く、クラス委員をしていた頃は、ちょくちょく登校していた。


今日は授業の後は通院が待っている。


一緒に付いて行く予定だった幸が、店舗応援に行く事になったので一人で電車とバスで行くつもりだ。


タクシーで行きなさいと言われたが、大丈夫だと断った。


体調が良くないならともかく、一人でタクシーに乗り慣れていないから落ち着かない。


富裕層が多いと言われる聖琳女子だが、一般家庭の子供も通っている。


一部のクラスメイトは雨の日には駅からタクシーで通う者もいたが、桜には縁遠い話だった。


今日はお天気も良いし、駅まで歩くのは苦痛ではない。


小腹が空いたけれど、お昼ご飯を食べる余裕はないので、さっき購買で買ったクッキーを食べて誤魔化すしかない。


時間が気になって腕時計に視線を落としたら、角を曲がって来た誰かとぶつかった。


「っ!ご、ごめんなさ・・・」


「桜?」


頭上から聞こえて来た声に、一瞬空耳かと思ってしまう。


「え、浅海さん!?」


視線を上げると、目の前に昴が立っていた。


「どうしてここに居るの!?」


「俺が此処にいる理由なんてひとつしかないだろ?」


当然のように答えが返って来る。


「~みーゆー姉ー・・もおお大丈夫って言ったのに!!」


桜の事になるとなんでも過剰に心配しすぎる従姉の顔がすぐに浮かんだ。


そして、幸にべた惚れの昴の上司の事も。


『さぁちゃんの病院が土曜日なんだけど、仕事が入っちゃって・・一人で行かせるの不安なのよ』


『それなら大丈夫。浅海さんにお願いしますよ』


絶対こんなやり取りが行われたに決まっている。


「お前が大丈夫でも、幸さんが大丈夫じゃねぇんだよ。道中なにかあったらって気が気じゃないんだろ」


具合が悪くなったら何処かで休むし、幸の方向音痴は有り難い事に受け継がれていない。


ここまで大事にされると、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。


それを幸に言ったら、そんな事ないと全力で否定される事も分かっている。


幸にとって桜たち家族は、異国で暮らす父親よりもずっと近しい存在だった。


何年も帰国しない父親の代わりに、桜の両親を実の親のように慕っていた。


だから、桜のことは本当の妹同然に思っている事も知っている。


あの日、事故で両親を亡くしたのは桜だけではない。


幸もかけがえのない肉親を失ったのだ。


桜だけは何があっても守らなくては。そんな風に必死になる幸の気持ちも痛い位理解できる。


「そこまで子供じゃないのに・・お休みの日にごめんなさい」


困ったように笑って、有り難くもないお目付け役を任された被害者に頭を下げる。


一鷹の頼みなら、昴が動かないわけにはいかない。


幸が桜に甘いように、昴も一鷹に甘いのだ。


一鷹同様多忙を極めるスケジュールで動いている事を知っているから尚更申し訳ない。


「いいよ。一鷹に頼まれなくても、どうせ予定を聞いたら来てた」


「浅海さんも、みゆ姉に影響され過ぎ・・・」


自分でいうのもなんだけど、みゆ姉のさぁちゃん至上主義は凄いからな・・・


幸の隣は暖かくて、いつも心地よい。


自分が物凄く尊い女の子なんじゃないかと勘違いしそうになる。


あの空気に包まれてしまえば、幸を好きにならないわけがない。


一鷹が、幸に焦がれる気持ちも理解出来る。


「その制服で一人でウロウロさせるのもなぁ・・」


聖琳女子の生徒はかなり希少価値があると言われている。


今時珍しい長めのスカート丈と、肌を見せないタイツ。


清純な雰囲気を損なう事無い所作を徹底的に教え込まれるので、卒業するころには立派なレディが出来上がっているのだ。


付近の学生から”高嶺の花”と呼ばれている所以はそこある。


最近でこそ他校との交流会が企画されるようになったが、それまでは完全に雲の上の存在だったのだ。


「桜がこの制服着てると、さらに目を引くんだよ。だから、一人歩きさせない方針には、俺も賛成だ」


投げやりに言った昴が、やれやれと肩を竦める。


「休日返上でも?」


「いいよ、どうせ接待ゴルフの予定だったし。こっちのがよっぽど有意義だ」


「病院通いのどこが有意義?」


「堅苦しい役員連中の機嫌取るのって大変なんだぞ。その点女子高生なら楽ちんだしな」


「あ、楽ちんって嫌な言い方ー。でも、来てくれてありがとう」


「どういたしまして。病院終わったら、どっかで飯食って帰ろう」


「いいの?」


空腹を訴えるお腹にランチのお誘いは最高のご褒美だ。


まさか昴が来てくれるとは思わなかったので、休日に会えただけでも嬉しいのに、送り迎えだけじゃなく、一緒に過ごせるなんて嬉しすぎる。


芽生えた恋心はここの所急成長を続けていて、会えない日が続いていた分、このサプライズは泣きそうな位桜の心を揺さぶった。


本当の所は、幸と一鷹のお願いがあったから来てくれたのだとしても、構わない。


「ほら、機嫌良くなった」


茶化すように言われて、思わず顔が赤くなる。


「ご飯は病院の食堂で食べようと思ってたの!それまではクッキーで凌ぐつもりだったし・・・」


「クッキー?へえ、そんなの売ってんのか」


「聖琳の名物クッキーなの。知らない?地元じゃ有名なんだから」


パッケージを開けて、昴のほうを向ける。


シンプルなバタークッキーだが、素朴な味が人気で、バザーに出

せばあっという間に売り切れてしまうヒット商品だ。


「浅海さんって、あんまり甘いもの食べない・・?」


一緒にいるようになって暫く経つが、彼が口にするのはタバコだけのイメージが出来上がっていた。


「ああ、そうだな。進んで食べる事は殆どないけど」


「甘いもの欲しくなる時ってないの?」


「俺はどっちかっていうと、タバコが恋しくなるからなぁ・・ん、なんか懐かしい味すんなこれ」


クッキーを頬張った昴が、甘さ控えめだな、と微笑んだ事にホッとする。


自分が好きな味を、好きな人と共有できるのは嬉しい。


好きは理解に繋がっている。


昴の吸うタバコの味も知りたいような気がしたが、言ったが最後、大人三人にお説教されるような気がしてしまう。


「美味しいでしょ?優しい味で、いくらでも食べられるの。みゆ姉も、大好きだから、よく買って帰っておやつにするんだ」


「へー・・伝統の味なんだな」


「うん、聖琳といえばこのクッキーみたいなところはあるかも。あ、でもなんで校舎にいるの?メールしてくれたら車まで行ったのに・・・」


いつもは校門近くの通りに車を停めて待っている昴が、わざわざ面倒くさい来客手続きを取ってまで校舎の中に入って来た理由が分からない。


「学校見学とか?」


「今更学校見学してもしょうがねぇだろ。一鷹に頼まれた書類を持ってきただけ」


「あたしのせいで面倒かけてる・・?」


分かっていながらも訊いてしまうのは、自分がここに居ることで少なからず負担が生まれている事を知っているからだ。


「あのなぁ。俺と一鷹が、毎日どれだけの仕事捌いてると思ってんだ?お前ひとりの事位、面倒のうちに入んねぇよ。余計な事考えるな、幸さんが心配する」


「ごめんなさい」


幸が心配すれば、一鷹が心配して、さらには昴が心配する事になる。


昴が桜の髪をくしゃりと遠慮のない手つきで撫でた。


「高校生なんてな、子供でいいんだよ。急いで大人になる必要なんかない。俺も、一鷹も、幸さんも、お前が普通に暮らせる事が何より大事だと思ってる」


両親とも、幸のものとも違う、優しいけれど、窘めるような仕草。


肩の力が少しだけ抜けた気がした。


ああ、やっぱりこの人は大人だ。そして、あたしは子供だ。


唇を噛んだら、クッキーを摘まんだ昴が、それを桜の唇に押し当てた。


思わず口を開いてしまう。


さくっとクッキーが砕ける音がした。


半分残ったそれを、昴が自分の口に放り込む。


「・・っ」


「お前はこういう甘さが好きなんだな・・覚えとく」


その言葉に泣きそうになる。


「あ、浅海さんは!?浅海さんにとって甘いものって何?煙草以外で!!」


彼がいる世界の端っこを何が何でも捕まえたい。


必死に尋ねたら、昴が桜の顔を見下ろして、困ったように呟いた。


「甘いもの・・なぁ」


「そ、そんな迷うとこ?」


「いや、迷ってはねぇけど・・・やめとく」


「え?なんで?」


「言ったら取集が付かなくなるからな。さーて、帰るぞ、桜」


吹っ切ったように先に昴が歩き出す。


慌てて追いかけて尋ねても、昴は頑として口を割ってはくれなかった。


昴にとって甘いものが何だったか桜が知るのは、彼女が制服を脱いだ後の事。

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