第5話 そして新しい朝

「もし、具合悪くなったら、そのときは、すぐに携帯鳴らしてね」



もう何度目かの幸の台詞に、桜は苦笑いで答える。


漸く慣れてきた新しい日常。


新しい、けれど、いつもの、朝だ。


レーズンたっぷりのパンを一口齧れば、ふんわりした甘味が口いっぱいに広がる。


こうやってゆっくり朝ごはんを食べるのも久しぶりだ。


明後日から学校に復学するつもりにしていた。


ゴールデンウイークを入れると三週間半も休んでいたので、春休みを2回味わった気分だ。


幸は、店舗ミーティングで夕方まで出かける予定になっていた。


桜の事故以降、暫く押さえていた仕事量を徐々に戻し始めており、桜としても幸の負担を少しでも減らせたことに安堵している。


一日も早く、幸の日常を取り戻してあげる事が、桜の目下の目標だ。


安曇の家で同居を始めてからは、幸と一緒に朝ごはんを食べることを日課にしていた。


出来るだけ、ひとりになりたくなかった。


言葉にしたことは無いが、それは幸も分かってくれているようで、幸が忙しい昼間は、週に何度か昴が顔を見せに来てくれる。


いつも美味しいケーキを持って。


あの日、大泣きした桜が眠るまで側に居てくれた昴は、言葉以上にとても優しかった。


何も言わずに、ただ黙って桜を抱きしめてくれた。


ほぼ赤の他人の腕の中でわんわん泣いたのは当然の事ながら生まれて初めてだ。


花も恥じらう女子高生にあるまじき行為である。


気まずすぎて、次に合わせる顔が無いと思っていたのに、次の日家にやってきた彼は、前日のことなんてなかったみたいに普段通り接してくれて、そのおかげで桜も気負わずいられた。


昴の訪問が、幸を大事に思う一鷹からの指示であっても、桜には十分だった。


むしろ、その距離が心地よかった。


訳知り顔で近づいて来る大人程信用できない事を、桜は今回の事故で嫌というほど思い知ったのだ。


桜の後見人となった幸は、京極の親戚を黙らせる為に、これまで一度も使ったことの無い母方の志堂のカードを潔く切った。


当然、それを機に態度を豹変させる親族も現れて、それら全てを一鷹と幸が撃退したわけだが、怖いもの知らずの残党が、何度か桜の病室に訪ねてこようとしたのだ。


一鷹の許可のない人間は病室に入れない事を知るや否や、廊下で桜が出て来る事を待つ愚か者まで現れて、桜はげっそりした。


両親が駆け落ち同然で結婚した事を聞いていたし、京極の親族とは一切会った事も無かったのに、受付カウンターで、自分は桜の大叔母だと騒ぎ立てる中年女性を目にした時には呆れてものも言えなかった。


彼らに比べれば、昴はずっと真っ当で、信頼のおける人物だった。


バイトすらした事のない桜でも、一介のOLが女子高生1人を抱えて簡単に生きていけない事位理解できる。


志堂の家に本当は幸が良い印象を抱いていない事も知っていた。


彼女と両親には志堂との苦い思い出がある。


その上で一鷹に自分の事を頼んでくれたのだ。


だからこそ、幸の前では、出来るだけ笑っていたい。


少しでも、この気持ちを、貰った愛情を返せるように。


幸の幸せになれるように。


「だーいじょうぶ。今日は、午後から冴梨たちが家に来るから賑やかに過ごします」


「お菓子とかある?何か買っておく?」


子供にするように世話を焼いてくれる幸は、まるで自分のことのようにソワソワとお菓子や食器の数を確認していく。


くすぐったくて、ワタアメみたな朝の光景。


「こないだ買い物行った時に買ったの、まだあるから大丈夫」


「ほんと?果物とかいらない?」


「もーほんとに大丈夫だから!あ、ほら、もう時間でしょ?ミーティング遅れちゃうよ」


時計を指すと、幸は慌ててパンをカフェオレで流し込んで席を立つ。


「あ、さぁちゃん!グロスカバンに入れておいてぇ。ベージュのやつ!」


洗面所に向かいながら早口で言われる。


「パール入ってる方?」


「そーよー」


二人で暮らし始めてから、まず幸と桜が一緒にした事は、メイクごっこだった。


幸の持っているメイクボックスをひっくり返して、マスカラ、アイシャドウ、いつもはしまいこんである派手な口紅やグロスで遊んだ。


髪を巻いてチークを付けて、二人で雑誌片手に夜中まではしゃいだ。


おかげで幸の化粧品は殆ど覚えている。


いつも使うオフィス仕様のメイク道具は特に。


桜はまっすぐで、癖のない綺麗な幸の黒髪が大好きだ。


それを手早く一つにまとめる時の仕草も女っぽくって見惚れてしまう。


一鷹の見たことのない幸の一面を知っている自分にちょっと得意げになる。


幸はしっかり者だけど、けっこう抜けていて可愛いところもあって、そして、誰よりも優しい。


洗面所から戻ってきた彼女は、すっかり仕事用の顔をしていた。


バイヤーのキリっとした表情だ。


ゴールドのクリップで留められた髪が揺れる。


綺麗な項が眩しくて、より一層彼女を女っぽく見せた。


「じゃあ行ってくるわね」


そう言って玄関まで出た桜を振り返って柔らかい腕で抱きしめた。


この家に来てから繰り返されてきた朝の恒例行事。


桜は、幸に抱きしめられる時が一番安心する。


こうして抱き締める相手が居る事が、いってらっしゃいと言える事が。


彼女を笑顔でおかえりと迎える事が、一日の仕事だと思える。


そして、外で、幸が絶対に傷ついたりしませんようにといつも祈る。


こんな風に自分も両親に見送られていたのだろうか?


ふと、そんな事を思った。




桜が登校する様子を、お気に入りの庭からずっと見守っていた母。


角を曲がるまで何度も振り返るたびに、スコップを振り回して手を振る姿が滑稽で、何度も、普通に見送ってよ!と言ったものだ。


こみ上げてきた涙をぐっと堪えて幸の背中を見送った。


インターホンが鳴る。


予定通りの時間だった。


大方部屋も片付いたところだったので丁度良い。


幸との同居を始めてから、極力家の事は自分でするようにしていた。


何も言わないけれど、今回の一件で、どれくらい幸に負荷をかけているかは簡単に容易に想像出来たから。


きっと訊けば笑って否定するだろうけれど。


仕事だって決して楽なはず無い。


掃除機をかける手を止めて、玄関に向かう。


念のため覗き穴から確認した後でロックを解除。


「いらっしゃい」


この言葉を言うのはまだドキドキする。


自分の家じゃないのにと、どうしても思ってしまうのだ。


ドアを開けると同時に伸びてきた手に額を弾かれる。


そこはお邪魔します、ではないのか。


「いったぁ!」


額を押さえた桜の頭を遠慮なくくしゃくしゃと撫でて昴は靴を脱いだ。


「インターホン出ろ」


憮然と言われて唇を尖らせる。


「のぞき穴で確認しました」


「表玄関オートロックだからって安心すんなよ。今日みたくここの住人と一緒に通っちまったら分かんねーだろ?」


確かに、一軒家にしか住んだことが無かったのでオートロック云々の勝手は分からない。


そっか・・・全然知らない人もマンション内に入ること出来るんだ・・・


確かに不用心だったなと反省しつつ。


「はーい」


一応返事をしたら、昴が振り返って笑う。


「分かればよろしい」


子供みたいに褒められて、不貞腐れる。


これでも学校でも友達の間でもしっかりしている、大人びていると言われてきた。


けれど、彼の前では桜は、ただの未成年の子供にすぎないのだ。


今更ながら、彼の前で大泣きした事が悔やまれる。


あの日以来、昴はすっかり桜を年下の子供として扱うようになった。


遠慮が無くなった彼は、すぐにこうして桜に小言を漏らす。


それに応じるうちに、桜も彼の前では畏まらなくなった。


両親が居なくなってから、誰かにこんな風に心配されるのも久しぶりだった。


傷つかないように、大事に、大事に。


この上なく大切に守られていた空間を思う。


これまでずっと家族っていうあったかい羽毛みたいな温もりにくるまれて、気付かないうちに、いろんな危険や悪意から守られてきたのだ。


生まれてから、17年間ずっと。


両親は、娘の成長を妨げるもの全てから、桜の事をいつも遠ざけてくれていた。


桜が学校で過ごす時間も、家で家族と過ごす時間も。


側に居ても遠くても、いつでも。


今、それは目の前にいる昴や、幸がくれている。


そう思うと、本当に有難くてただただ嬉しかった。


リビングに入った昴がくるりとこちたを振り返る。


「今日、友達来るんだろ?」


「うん。仲良しの娘が二人ね」


「学校の子?」


「そう、あたしが眠ってる間も何度かお見舞いに来てくれたみたい。みゆ姉が言っていた」


「ああ、聖琳の」


「知ってる?」


「何度か見たことあるよ」


「そう、良い子なんだ」


持ちあがりではなく高等部からの途中入学組の中でも一番仲の良い冴梨と絢花。


かけがえのない大事な友達だ。


キッチンのカウンターに置かれた一輪差しに活けられた綺麗なマーガレット。


幸は、部屋に植物を置くのが好きだ。


マイナスイオンも出るし、癒されるらしい。


最近はハーブなんかも育てたりしてる。


好きになったらトコトンってのは、考古学者のおじさんに似たんだろうなー・・・


昴が、その花に目を止めた。


「一鷹がよく彼女に贈る花だなぁ」


一鷹のせいでいつの間にか覚えさせられたよ。


昴が可笑しそうに頬を緩めた。


「志堂さんって、ほんとにみゆ姉のこと、好きなんだ」


「・・・見てりゃすぐに分かるよなぁ」


苦笑いするその顔はまるで手のかかる弟を持ったお兄ちゃんみたいで。


彼と一鷹の間には、桜も幸も知らない、長い長い歴史がある。


それでも、この短い時間で分かる事もあった。


一鷹の、真っ直ぐな愛情と、幸にだけ注がれる優しい眼差し。


本気で幸を大切に思っていなければ、厄介者である桜の面倒まで見ようとは思わないだろう。


「好きだと思うけどな」


幸を側で見ていれば分かる。


本人は気付いていないけど、多分、彼女があんな風に自然に接している異性は一鷹だけだ。


桜の言葉に昴がひょいと眉を持ち上げた。


「幸さんが?」


どうしてそんなに驚くのだろう。


「・・多分」


「家族としてじゃなくて?」


「最近は、何か微妙に意識してる気がするし」


電話の時の表情や、声を聞いているとふとこれまでとの違いを感じるのだ。


長年の付き合いの桜が言うんだから、きっと間違いない。


幸の中には恋心が息づいている。


「へぇー・・・長期戦で挑んだ甲斐があったってことか」


長期戦って・・・そんなに昔から好きだったんだろうか?


疑問に思って首を傾げると、昴が意味深な笑みを浮かべて言を継いだ。


「まー、確実になったら教えてやるよ。そろそろ出るぞ、診察間に合わなくなる」


今日は退院後の定期検診の日だ。


当分の間はこうして病院と学校と家の往復の生活になる。


ここまで回復できただけでも、感謝しなきゃいけないんだけれど。



例の如く、病院の送迎をして貰う為に幸が一鷹にお願いをしたのだ。


手間をかけてしまうこと、時間を取らせてしまう事。


それを申し訳ないと思うと同時に実はほっとしてもいた。


正直、あの病院に一人で行くのは不安だったのでありがたかった。


「待って、待って!」


上着を取りに部屋に引き返す。


・・・そうだ


ここで待たせるのも申し訳ない気がして


「先に降りててもいいけど?」


ドアを開けたまま伝えると、待ってるよ、と返事が返ってきた。


迎えに来てくれただけなら、携帯を鳴らすか、インターホンを押すだけで良かったのに。


そんな風に思いながら、パーカーを羽織って部屋を出ると、彼はもう靴を履いて待っていた。


「よし、行くか」


桜の髪を軽く撫でてから


「鍵かけてやるから」


家の鍵を寄越せと手を差し出される。


あ・・・・そうか。


彼がここに来た理由が分かった。


あの日、京極の家の玄関の鍵を開ける手が震えていた事。


必死に隠していたけれど、知ってたのだ。


本当は、ドアを開ける勇気が無かったこと。


桜が、どんな気持ちでいたか、昴はちゃんと分かっていた。


なんで・・・・優しい人ばっかり・・・・


幸の優しさは真綿みたいだ。


いつでも桜をふわふわに包みこむ。


一鷹の優しさは、太陽みたいだ。


いつも心地よい距離で足元を照らす。


そして、昴の優しさは。


そっか、海みたいなんだな・・


深くて、広い。


時々波を起こして強引になるけど。


けれど、桜を傷つける事は絶対にしない。


ありがとうと言うのは照れ臭くて。


キーホルダーの付いた家の鍵を彼の掌にそっと落とした。


幸が付けてくれた可愛いストラップがシャラシャラ鳴った。


桜の胸のどこかもシャラシャラと鳴った。

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