第4話 雨上がりなら、笑えますか?

鍵を開ける瞬間、ほんの一瞬迷った。


居なかったらどうしよう?


ここ以外帰る場所のないことは誰より自分が一番知ってるのに。


ほんの一瞬だけ、不安になってしまった。



☆★☆★



「・・・ほんっといいタイミングで電話が鳴るのよねぇ・・・・」


ドアノブに手を掛けたままひとりごちてみる。


仕事場を出た瞬間待っていたように、馴染みの着信音が響いた。


通話ボタンを押すと、心地よい声が聞こえる。


「幸さん?」


どうしてだろう。


無意識にほっと安堵する自分が居た。


もしかしたら今、一番聞きたかった声かもしれない。


ううん、きっと、だ。


急に強く吹いた風に髪を押さえながら、幸は電話の向こうの優しい従弟を思って笑みを浮かべる。


「今から帰るわ」


「迎えに行こうか?」


ほとんど大学に行かなくなった今も、レポートの山と、書類の山に埋もれていることを知っている。


そんな時間あるはずないのに。


4つも年下の従弟に甘えそうになった自分に驚きながらも、幸は迷わず駅に向かって歩き出す。


「忙しいのに、何言ってるの。さぁちゃん迎えに行ってくれただけでもほんとに助かってるのに・・・もう十分よ。ほんとに・・・ありがとう」


一鷹が電話の向こうで小さく溜息づく。


「ひとりでなんでもしようとしないで下さいね」


「あら、1人じゃ何にもできないから、こーんなに従弟に頼ってるのに?」


「桜嬢のことじゃなくて。幸さんのことですよ」


予想外の答えが返ってきて、幸が笑う。


まるで自分が年下になったような気になる。


「そんなに心配してくれなくても大丈夫。あたしの心配より、さぁちゃんの心配して頂戴。あたしなら大丈夫、知ってるでしょ?結構頑丈なのよー」


桜の受けた傷を思うと、ここで不安になったり怖気づいたりしていられない。


守るべき相手が居る。


今は、仕事の事以外はいつだって桜を第一優先にしたいのだ。


あの子が笑って”ただいま”を言える場所を作る。


それが今の目標だ。


だから、自分の事に構っている余裕は無い。


必要も無い。


「そういう人だって知ってるから、心配するんですけどね。困った人だな」


「困らせないわよ」


きっぱり言い返したのに


「あなたが泣く位なら、喜んで困りますけど」


と恐ろしい返事が返って来た。


「イチ君の心配症」


「心配もしますよ、ほんとに、無理しないで」


懇願するような声に、素直に頷く。


「ありがとう。ほんとに感謝してる」


「桜嬢にもよろしく。幸さんも、久しぶりの誰かが待ってる我が家でしょ?」


「そうなの」


待ってる子がいるから、急がなきゃ。


幸の言葉に一鷹が優しく気をつけて、と告げた。



☆★☆★


「ただいまー」


鍵を開けてドアをゆっくりと開く。


室内灯の明りがやけに眩しい。


こうやって明かりのついている自宅に戻るのは本当に久しぶりだ。


スリッパに足を入れると同時にリビングのドアが開いた。


さぁちゃん!と言いかけて顔を見せた人物を認めて、まず疑問が浮かぶ。


「・・・さぁちゃんは?」


問われた人物は、人差し指を唇の前に立てて声を出さずに口を動かす。


『へ、や』


彼の仕草に頷いて、鍵を掛けてそっと中に入った。


カーペット張りの廊下なのに、こそこそと音を立てないようにリビングへ向かう。


昴が立ったままの姿勢でこちらを見た。


「おかえりなさい」


一番に聞きたかった、言いたかった言葉を昴から言われて、幸は苦笑交じりでソファに座る。


「・・・ただいま戻りました。浅海さん、今日はありがとうございました」


本来なら、退院の日も一日付き添いたかったのだ。


けれど、桜の事故以来仕事を極力抑えて病院にかかりきりになっていた。


その皺寄せがのっぴきならない状態になってきたのだ。


以前の幸なら、徹夜をして二日で片づける位の事はやってのけた。


けれど、これからは違う。


朝起きて、夜には家に戻る。


出来れば夕飯も桜と一緒に摂りたい。


この家に慣れるまでは、眠るまで側にいてやりたかった。


だから、今日は仕事を優先させる事にしたのだ。


桜もしきりに幸の仕事の事を心配していたから、よい機会になったと一鷹は言ったけれど。


幸の言葉に昴が畏まって答えた。


「そんな改まって言われると困りますよ。幸お嬢さん」


久しぶりに呼ばれて、幸は困った顔で口を開く。


志堂の苗字を名乗っていた頃、幸はそう呼ばれていた。


そして、安曇の苗字に戻って本家に通うようになってからも。


「だからお嬢さんは」


幸の言葉を遮るように昴が口を挟む。


「俺に敬語やめて下さいって」


「そうだった。以後気を付けます」


「はい」


隣に腰かけた昴の方を向き直り、幸は尋ねた。


「さぁちゃん、どうでした?」


幸の質問に昴は言いにくそうに口を開く。


「泣き疲れて眠ってます」


その言葉を聞いた途端、幸が勢いよく立ちあがる。


「どうして!?」


「・・・家に、荷物を取りに戻りたいって」


その言葉に幸は表情を一変させた。


さっきまでと打って変わって神妙な顔で俯く。


これまでも、何度か退院の後の予定について話し合ってきた。


桜にとって今や京極の家は鬼門に近い。


懐かしい家族との記憶が詰まった場所には連れて行けるはずもない。


だから、事前に制服など身の回りの物は幸がマンションに運んだのだ。


それでも、桜が家に戻りたいと言ったら叶えるつもりだった。


勿論、自分も一緒について行くつもりだったのだ。


「あたしには一言も言ってくれなかったのに・・」


半ば強引にこの家に呼んだのは自分だ。


どうしても、桜をあの家に帰したくなかった。


最愛の両親の気配の消えた、あの温かかった場所に戻したくはなかった。


だけど。


「間違ってたのかな・・・?一度あの家に戻すべきだった?あたしが無理やり・・・」


言葉にすればするほどどんどん不安は大きくなる。


すぐ隣の部屋で眠っているはずの桜との距離が広がっていく。


項垂れた桜の肩を、昴が優しく叩いた。


「幸さん、それは違うから。俺も、あの家に一緒に戻って思ったけど、一人にするべきじゃない。思い出の詰まった家に、置いておくべきじゃない。だから、間違ってないですよ」


「でも・・・」


「幸さんの気持ちは、痛いほど分かりますから。桜嬢のこと、一時だって一人にしたくなかったんですよね?だから、俺と一鷹に迎えを頼んだんでしょう?」


「・・・・浅海さん・・」


「俺も同じ気持ちです」


その言葉にほっとしたように頷く幸。


「あたし、自分のしてる事が正しいかどうかわかりません。さぁちゃんの為にっていつも考えてるけど、時々それが逆にあの子を苦しめてるんじゃないかって思う。いつだって笑ってて欲しいのに・・何で上手くいかないのかしら」


「幸さんの愛情があるから、あの子は此処に帰って来たんですよ」


安心させるように頷いて、ベランダに続く窓を開ける。


「桜嬢の家は、これからはもう此処だけだから」


ずっと昔に父親が使ってた古いガラス細工の灰皿をガーデンテーブルに乗せて、昴がタバコに火をつける。


カーテン越しにその様子を眺めていた幸は夜空をぼんやり見上げる昴の背中に声をかけた。


「・・・浅海さん・・・ありがとう」


「俺、何にもしてないし」


灰を落としながらちらりと視線を部屋に戻す。


まっすぐに幸がこちらを見ていた。


「さあちゃん、きっとあたしじゃ泣けなかったと思うから・・・きっとずっと気を張ってたと思うの。あたしがどんなに大人ぶって保護者面したって結局あの子の両親の半分もお母さんにはなれないし。それでも、さぁちゃんの前ではちゃんと親のフリしてたかったから。あの子もあたしを気遣って、絶対に泣いたり取り乱したりしなかった。ずっと我慢してたのね。こんな風に言ったら申し訳ないけど。何も知らないあなただから、あの子は自分を取り繕わずに泣けたんだと思う。虚勢張らずに、強がらずに、家族を無くした女の子に戻れたんだと思う」


これから、1人で強く生きなくてはならない女の子じゃなく。


1人ぼっちになってしまった女の子。


本当の意味で1人にしなくて本当によかった。


抱きしめて、慰めてくれる人がそばにいてくれて本当によかった。


この人なら、イチ君と同じようにさぁちゃんのことを守ってくれる。


さっきの彼の言葉を思い出す。


「ほんとに桜嬢が大事なんですね」


「・・・家族だから」


「カーテンも、家具も、みんな自分の好きなものばかりだって、言ってましたよ」


「それ位しか出来なくて」


「十分、嬉しそうだったから大丈夫」


「ありがとう」


「・・・やっと安心しました?」


幸の肩の力が抜けたのを確認して昴が笑う。


きょとんと眼を丸くした幸が問い返した。


「え、どうして?」


「一鷹と一緒にいる時みたいな笑い方だったから」


自分が一鷹と居る時どんな表情かなんて気にしたことがなかった。


でも・・・今はほんとに、心から笑ってた。


「そう・・かな・・あ、あたし、さぁちゃんの様子ちょっと見てくるわ」


曖昧に笑って答えながら、足早にリビングを出る。


どうしてか、心臓が跳ねる。


幸は自分の変化に驚いていた。


イチ君にめちゃくちゃ気を許してる・・・?


小さな疑問と、小さな気持ちが生まれた春の夜。

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