第2話 帰る家と新しい居場所
正直、あの家に1人で戻る自信はなかった。
朝、出かけたままになっている玄関の靴や開いたままの新聞や、干しっぱなしの洗濯物。新しくしたばかりのベッドカバー。
カーテンの色、お揃いの湯のみ茶碗。
家族で過ごした記憶が鮮やかに残る場所。
昨日までそこに居た息遣いが、手に取るように感じられる場所。
★☆★☆
「あたしの家に、帰らない?」
退院が迫った日の、面会時間ぎりぎりに駆け込んできた幸が誘いかけるように言った。
迷うことなく真っ直ぐ告げられた言葉。
素直に頷きかけた桜は、ぐっと堪える。
こんなに甘えさせて貰って、これ以上のものなんて望めない。
幸にだって自分の生活が、人生がある。
仕事も、恋も、自由に選び取る権利がある。
その貴重な時間を、自分の為に僅かでも割いて貰うわけにはいかなかった。
これ以上、頼れない、そう思った。
「でも・・」
ふつふつと湧き上がって来る不安を押し込めて、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
1人で頑張れる、後1年で高校も卒業だし。
1人でだって暮らせるよ。
笑顔を作ろうとした桜の手を優しく握って、幸が微笑んだ。
「模様替えしてね、可愛いベッドカバー、買ったの。さぁちゃんの好きなオレンジのカーテンも。前に欲しいって言ってたチューリップのルームランプも」
「みゆ姉・・」
「だから、家に帰ろう?あたしも、1人で寂しいし。ほら、いい年して、お嫁にも行かずに家にいるとなんか・・・寂しくなっちゃって・・さぁちゃんが居てくれたら嬉しいわ」
「・・・いいの?」
あたしが側に居たら”嬉しい”?
言外投げた問いかけに、幸が何度も頷いた。
「もちろん!父さんも、そうしろって。女の子の一人暮らしなんて絶対ダメよ。ね?一緒に帰ろう」
足手まといだとばかり思っていた自分の存在が、僅かでも幸を喜ばせる事になるんだと思うと、純粋に、ただただ嬉しかった。
安曇の家にいる”理由”がひとつ出来た。
「うん・・」
もっと他に、ありがとう、とか、嬉しい、とか。
幸に伝えなくてはいけないことは沢山あった。
事故に遭ってから今日まで、ずっと側にいてくれたのは彼女だ。
両親の葬儀、京極の親戚たちのやり取り、自宅の権利や遺産の手続き、学校とのやり取り、それら全てを桜が眠っている間に幸が行ってくれたのだ。
他に変わりなど居ない。
今ではたった一人の、桜を抱きしめてくれる大切な人だ。
けれど、何一つ、言葉にならなかった。
ただ、頷いて涙を堪えた桜の手を、握ったまま幸は安堵したように泣き笑いの顔になった。
「よかった」
泣きつかれた桜が安心したように眠りにつくまで、幸は側を離れようとしなかった。
ずっと桜の頭を撫でてくれた。
★★★★★★
この特別室に関しては、面会時間を過ぎていても大目に見るようにと指示を受けている看護師たちが、22時の巡回を始めたころ。
部屋の中を簡単に片づけた幸が、桜の寝顔をそっと撫でておやすみを告げて病室を出ると、廊下に見慣れた顔を見つけた。
思わず声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。
長椅子に腰かけて、幸に向かって手を振る一鷹だった。
「どうして?今日まで四国の予定でしょう」
「出張から早めに戻れたんで」
なるほど、見ればスーツのままだ。
去年のうちにほとんどの単位を取ってしまったので、平日の大半は会社の方に居る彼の大まかな予定は、一鷹の腹心である浅海昴から定期的に報告を受けていた。
桜の身の回りの事は基本、幸が総て対応している。
それでも、検査結果やこれからの経過観察の予定など、ひとりで対処するには難しい事柄が多くあり、それらにおいては、幸の一存で一鷹も同席のうえで話し合いを行ってきた。
その為、桜の容体が急変した時の為に、いつでも連絡がつくようにと一鷹が事前に幸にスケジュールを教えておいたのだ。
勿論、予定が変更になる事も多々ある。
その場合は昴が仲介に入って連絡を取り合っていた。
一鷹は昴にも幸からの連絡は緊急時と同じように取り次ぐ指示を出してあった。
「覗いてくれればよかったのに。さっきまでさぁちゃんも起きてたのよ」
「大事な話をしてたんでしょう?」
一鷹にはメールで、桜に安曇の家での同居の提案をすることを伝えてあった。
幸は年下の従弟を見上げて苦笑した。
「イチ君も忙しいのに、相談事ばかり持ちかけちゃってごめんね?この間から、あたしが振り回してばっかり」
桜の入院から、転院、引っ越しのこと。
すべて彼の協力なくては出来なかったことばかりだ。
真剣な顔でこちらを見てくる幸に向かって、僅かに指先を伸ばして、すぐに引っ込めた後で、一鷹は従姉仕様の柔らかい笑みを向ける。
「もっと振り回してくれていいのに」
一鷹の言葉に心臓が跳ねた。
幸は落ち着かない胸を押さえて言い返す。
「何言ってるの・・」
「俺のことなら大丈夫。男の方がずっと頑丈に出来てるから、遠慮なんかしないで。頼りにしてください。絶対に1人で抱え込まないで」
ざわつき始めた幸の心を見透かしたように、ちょっと笑って、それから送りますよ、といつものように言われた。
駐車場に向かう一鷹の後姿を追いながらぼんやり思う。
いつのまにこんなに大人びちゃったのかしら?
胸がざわついた理由はまだ分からない。
並んで歩きながら、幸は桜の眠る病室を見上げた。
自分の事より、もっと考えなくてはならない相手がいる。
震える肩、嗚咽交じりに自分の名前を呼ぶ桜の姿を思い出す。
ひとりで泣いていなければいいけど・・・
自分と同じ、強がりな妹を思う。
あの子にも、こんな風に頼れる相手が出来るといい。
家族の変わり・・ううん、家族以上に。
いつの間にか追い越されていた、斜め前の一鷹を見上げる。
「昴君にも言われたわ。ひとりで抱え込まないでくださいって」
何日も目を覚まさない桜の枕元で、不安と闘っていた時。
「そんな暗い表情でいたら、目覚めたとき彼女が悲しみますよ」
そう言ってくれた人。
「こういうときは、愚痴でも、心配ごとでも、吐き出すに限ります。幸い、あなたの声を聞きたがってる人間がいるんで、泣きついてやってください」
苦笑交じりで手渡された携帯は、一鷹と繋がっていた。
確かに、他の誰かだったらあんなに素直に弱音を吐けなかったかもしれない。
葬儀の後、またすぐ日本を離れてしまった父の分もしっかりしなくては。
ずっとそう思っていたから。
「人のこと、良く見てるでしょ、あの人」
くすりと笑って一鷹が病院を振り返る。
それから、幸が自分に並ぶのを待って告げた。
「あの人だから、幸さんと、桜嬢のことも任せられると思ったんですよ」
確信めいた一言。
「うん。ありがとう」
素直に頷いたら、一鷹が急に眉根を寄せた。
「あ、でも、何かあったら俺に一番に相談してくださいね?」
一鷹の微妙なヤキモチには気づかず、幸は笑う。
「え?勿論よ、ほんとに頼りにしてる」
幸の言葉に満足げに頷いて一鷹が笑う。
「どこに居ても、すぐに駆けつけますから」
まっすぐに見つめ返されて、幸は視線を逸らせずにただ、頷いた。
呼べば、間違いなくこの従弟は何もかも放り出して、自分を助けに来てくれるだろう。
疑うまでも無くそう信じられる。
それが、家族だからなのか、他の理由があるのかはまだ、分からない。
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