第二十二章 変身
「そうね・・・そのスーツならこのシャツかしら・・・。
それでネクタイ・・・は。
いいわね。
これと、それも・・・。
あっ、このシャツも頂くわ・・・。
首周りを測って下さいね」
恵里子はテキパキと店員に指示した。
店員の方も久しぶりに訪れた大口の客に、思わず足取りも軽く動き回っている。
やがてブースのカーテンが開き、貴男の足元の店員が言った。
「お客様は背も高いし足も長いので、そう詰めることもないと思いますが?」
恵里子は驚きに顔を赤らめて言った。
「そう・・・ね。いいわ、裾詰めは私が後でやるから・・・。あとのパンツと一緒に包んで下さい」
貴男は手持ちぶさたで、なすがままになっている。
いくらカードを持っているとはいえ、もう八十万円ぐらい買っている。
(でも、いいか・・・・)
ため息をついた。
入社して十年近く、おしゃれというものに無頓着であまり服を買ったためしがない。
貯金も使うことがないので一千万円近くあった。
今日はさっき使い捨てのコンタクトレンズを買わされて、とりあえず乱視ではなかったので試供品を着けている。
満足そうに貴男の姿を見つめると、恵里子は今さらながら男に惚れなおした。
メガネを取った顔は澄んだ瞳を宿し、がっしりした上背と長い足。
昨夜の熱いキスを思い出すと身体が火照ってくる。
「もう、いいかい?」
貴男にそう言われて我に返ると、恵理子は言った。
「ええ、じゃあ次は・・・靴ね」
荷物を山程抱えた貴男を従え、意気揚々と恵里子はデパートのオートドアをくぐった。
タクシーを呼び止め、二人は乗り込んだ。
「あーっ・・・。人の物とはいえ、やっぱり買い物は気持ちいいわ」
恵里子は伸びをして言った。
運転手に自分のマンションの場所を告げると、貴男は大きく息をついた。
「フーッ・・・」
「やっぱり・・・疲れた?」
恵里子がいたずらっぽい目で覗きこむように言った。
「そりゃ、そうだよ。滅多に買い物なんかしないのに、いっぺんにこれだけ買ったんだもの」
貴男が苦笑いしながら言った。
「そうよね、全部で百万円以上使ったものね。でも、気持ち良かったぁ・・・」
恵里子は貴男の腕をとって、甘えるように肩に頭を乗せた。
運転席のバックミラーの恵里子を見つめ、貴男も微笑みを返し女の細い指を優しく握る。タクシーはゆっくり裏通りを抜けて貴男のマンションを目指して行った。
荷物を部屋に運び入れると、二人はベットに並んで腰掛けた。
「さすがに疲れたわね・・・。へえーっ、結構きれいにしているのね?」
好奇心に瞳を輝かせながら女は部屋を見回している。
「コーヒーでも、飲む・・・?」
貴男がキッチンに立つと、返事をしながら机の写真を手に取った。
「いやだ・・・。これ、私・・・?」
「あっ・・・だ、だめだよ・・・」
慌てて貴男が戻ると、ひったくるようにして写真を奪った。
顔を真っ赤にして、後ろ手に隠している。
恵里子は目に涙を溜めて、男の胸にチョコンと顔をもたれかけた。
「うれしい・・・。ねえ、いつの写真・・・?」
女の細い肩に腕を回し、いい匂いのする髪を撫でながら男は言った。
「去年・・・の、社員旅行・・・さ。一人の写真がなくて・・・みんなで写っている中で一番大きいのを・・・切りとっ」
最後まで言い終わらない内に女の唇でふさがれた。
二人はそのまま抱き合い、お互いをむさぼるようにベットに倒れ込んだ。
「髭が、痛いわ・・・。剃らなくちゃ・・・ね」
「ああ・・・。その前にシャワー・・浴びなきゃ・・・」
「そうね・・・。シャワー・・・浴びなきゃ・・・その・・前に・・・」
「その前に・・・なに・・・?」
「バカ・・・知らない・・・」
ブラインドが下りたまま白いバーコードを作っている。
その影が二人の身体を形づくり、やがて妖しく動き始めていく。
土曜日の午後は始まったばかりであった。
※※※※※※※※※※※※※※※
ベットにもたれてコーヒーカップを持ったまま、恵里子は固まってしまった。
着替え終わった貴男が目の前に立っている。
髭を剃り落としドライヤーをかけ、きれいに分けられた髪の下に涼しげな瞳が恵里子を見つめている。
たくましい胸板を包む薄いブルーのシャツとペイズリーの細めのタイ。
グレーの上下のスーツは、ざっくりとしたイタリア製で長い手足がぴったり合っている。
パンツの裾上げはまだしていないが、足が長いのでそんなに違和感がない。
「どう・・・似合うかな。おしゃれなんて、した事なかったから・・・」
危うくカップを落としそうになって恵里子は我に返った。
コーヒーを一気に飲み干し、改めて男をながめた。
「そんなに、見るなよ・・・。恥ずかしいじゃないか・・・」
男が頭を掻きながら言うと、女は立ち上がり背伸びをして軽く頬にキスして言った。
「男版のマイ・フェア・レディみたい・・・。すてき・・よ・・・」
男はくすぐったそうに、くびれた腰を抱き上げおどけるように言った。
「じゃあ、食事に行きましょうか・・・。えーと・・・ヒギンズ・・教授?」
二人は、くすくす笑いながら部屋を出た。
冬だというのに春のように暖かい陽射しだった。
土曜日の昼下がりの午後であった。
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