第二十一章 金曜の夜

白いコートが脱ぎ捨ててある。

男物のコートがそれに重なるようにしている。


カーディガンとブラウスも床に散らばり、ワイシャツとネクタイが間に挟まるように脱ぎ捨てられている。

ズボンとスカートはデートするように重なっている。


カーテンのレースを通した光で模様の影が男の盛り上がった肩をなぞる。

白い長い腕がそれに絡みついている。


時計の音が息遣いと共に静かな部屋に響いている。

愛らしい柔らかな唇が男の不精髭に埋まっている。


やがて男の唇がゆっくり首すじに下りてくる。

女の半開きの口から、ため息に似た声が洩れる。


「ああ・・うぅ・・・ん」


細い指先がシーツに皺を作る。

もう片方の指は男の頭を抱え、掻きむしるように動いている。


「好きだ・・・大島さん。ずっと前から・・・愛している」

男の熱い息が情熱的な言葉を女に送る。


「う、うれしい。わ、私も・・・待っていたの・・・え、恵里子って・・呼んでぇ」 

女の声が震える。


「僕のことも貴男って呼んでくれないか。恵里子・・さん・・・」

男は顔を上げ、愛おしそうに女の瞳を見つめた。


どちらともなく顔を近づけ唇を重ねた。

人生で一番美味しいキスを交わしている。


女の目から涙が溢れてきた。

この幸せをどう表現したらいいのだろうか。


ひと月余りを恐怖の中で怯えていた花が幸せにほころんだかと思った瞬間、暴漢に襲われそうになったのだ。

恵里子の身も心も激しい渦の中にいた。


今はもう言葉にも出来ず、男の唇をむさぼり抱きしめるのだった。

愛おしい顔を抱えたまま官能に酔いしれていく。


「愛してます・・・貴男さん・・うれしい・・・」

「え、恵理子さんっ・・・・」

男の想いが解き放たれた瞬間、女の背中が大きくのけぞった。


「ああー・・・あつ・・・い・・・。貴男さん・・・」

「愛している・・・恵里子さん・・・恵理子さんっ・・・・」


※※※※※※※※※※※※※※※


月明りに重なった二つの影が壁に写っている。

再び静寂に包まれ、遠くで犬の遠吠えが微かに響いていた。


男の肩にもたれて恵里子は呟いた。


「今日は、大丈夫なのに・・・」

女の囁きをくすぐったそうに聞きながら、愛しそうに細い肩を引き寄せ優しく頬に口づけして言った。 


「もし・・・できちゃったら・・・悪いし・・・。僕は、うれしいけど・・・」


これ以上の言葉は、女には必要なかった。

耳元まで顔を赤らめ男の胸に顔を埋めた恵里子は、むずかるように囁いた。


「ばか・・・」


静かな時間が流れる。

時計と男の心臓の音だけが恵里子の耳に聞こえてくる。


このまま、ずっと。

このまま。


そう願うのは贅沢であろうか。

世界中の恋人達と同じ願いを二人も同時に思い浮かべていた。


今日は金曜日。

二つの休日が二人を待っている。


慌てる事はないと恵里子の中の小人達が呟いた。

世界中で一番幸せな二人の「金曜の夜」であった。

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