第十四章 結末

コバルトブルーに無数の白い泡が溶け込んでいき、褐色の肌に絡みついていく。


下から見上げる水面が逆さまになり、白い壁をキックすると再び透明の世界が広がっていく。

最後のターンを終えラストスパートに入った貴男は、疲労にしびれた両腕を抜くピッチを早める。


水中に恵里子の顔が浮かぶ。

貴男の口から洩れる泡がそれを壊していく。


この行為を毎日何百回と繰り返している。

澄み切った感情を放射させる時間。

時折、吐き出される泡は言葉を伴っていた。


「恵里子・・・愛している」

NASAのコンピューターなら、こう解読しているだろう。


15メートル。

10メートル。

5メートル。

ゴール・・・。


タッチした手でプールから這い上がると、自分のゴールはまだまだ遠いなと苦笑いするのであった。


※※※※※※※※※※※※※※※


器用に封を切ってオニギリの三角形に海苔を巻いていく。

丁寧に形を整え先端をかじり取る。


せわしなく顎を上下に動かし、次々に小さくしながら冷たいウーロン茶で流し込んでいく。

昼休み終了まであと5分。


貴男がサンドイッチに手を伸ばすと瞬く間に消してしまった。

いつもながらの手品のような早業を遠くのブースから恵里子は眺め、ため息をついた。


今度こそ本当にお弁当を作ってあげたいと思う。

ただ、今年で二十八になることは危険を冒してまで心地良い恋の夢をなくすには少し、苛酷な年齢である事を頭の中の小人達が呟くのであった。


ここ十日余りの電車の中の密かなデートだけでは、あまりにも儚く不安な恵里子の恋であった。

相談したくても里美はシャレにならないし、遠藤とて、やはり微妙な想いを、いまだ寄せている事は自分でもよくわかっていた。


今日は、その遠藤も仕事の追い込みで険しい表情でオフィスを駆け回っていた。

 

※※※※※※※※※※※※※※※


恵里子はビデオショップのオートドアをゆっくりと、くぐった。

店内の時計は8時30分を指している。


忙しそうな遠藤が気の毒で手伝ってあげたが、遅くなってしまった。

非常に恐縮して帰っていいと言う遠藤であったが、やはり助かるのか8時前まで仕事をしてしまった。


送っていくと言う遠藤に方向が違うからと言って断った。

それにこの頃は後をつけられた事もないし、遠藤もまだ仕事が残っているようで、そのまま一人で帰った。


水野のブースを見ると、まだ灯が点いていた。

よほど一緒に帰ろうと誘いたかったが、思い留まり会社を後にした。


今日は楽しい映画でも観てグッスリ眠ろうと思い、この店に来たのである。

ラブストーリーの棚をゆっくり見てまわっていると、「店長のお薦め」という棚があり、70年代のオールド映画が置いてあった。


その中の一つである「フォロー・ミー」という題名にひかれ、手に取ってみた。

「第三の男」を監督した「キャロル・リード」の名作で、ロンドンを舞台にしたオシャレなファッションと小粋なセリフが、あなたを魅了しますとコメントされていた。


写真の探偵の顔がどことなく遠藤の印象に似ていてユーモラスだったので、これを借りて見る事にした。 

ビデオショップを出てみると、辺りは暗くやはり気味が悪かった。


早くマンションに帰ろうと足早に歩いて行った。

いつもの公園の前を通る頃ふと気がつくと、又足音が二重になっていた。


思わず振り向くと、サラリーマン風の男が追い越して行った。

ホッとため息をついて歩き出してしばらくすると、やはり靴音が重なっている。


足を止めると、その音も止んだ。

冷たい汗が背中を伝ってくる。


今度は振り返らず、足を早めてマンションに一直線に向かって行った。

顔からも大粒の汗がしたたり落ちる。


恐怖で目は大きく見開き、足が緊張でつりそうになる。

殆ど駆け込む様にオートロックを外し、エレベーターに乗り込んだ。


自分の階のボタンを押すと壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返している。

エレベーターのドアが開き外廊下の手摺越しに、しゃがみ込んで恐る恐る下を覗くと、男が一人立っていた。


マンションを見上げている。

通り過ぎる車のヘッドライトが男を写した瞬間、恵里子は驚きに息を飲んだ。


水野が立っていた。

コートのポケットに両手を入れ、こちらを見上げている。


ライトの光にメガネのレンズの部分がキラリと光るのが不気味であった。

やがて男はゆっくり向きを変えると、駅と反対方向へ歩いて行った。


手摺にしゃがみ込んだまま男の背中を見つめていた恵里子は、やがて後ろ向きに手摺にもたれて身体を震わせていた。


心臓の鼓動が破裂しそうに早くなっている。

荒い息が止まらず、唇を濡らしている。


(ど、どうして・・・。あ、あな・・・た、な・・・の?)


恵里子は立とうとしても身体が動かず、じっとドアのレバーハンドルを見つめていた。


涙がとめどもなく流れてくる。

どしゃぶりの雨のように恵里子の心を濡らす。


ようやく部屋に入り、ベットにうつ伏せに倒れ込んだ。

コートを着たまま、恵里子は心の激情を洗い流すかのように涙をふり絞っていた。


何故・・・?

いや、そんな事はどうでもよかった。


さっき味わった恐怖が、今まで蓄積された思いの全てが一気に爆発し、恵里子の心を粉微塵に砕いていた。


今は泣く事だけが恵里子に与えられた特権なのだった。

女は泣く事でどこにでも飛んで行ける。


男は酒を飲む事で心を静める。

どうせなら泣ける方がいい。


その方が、あたたかい。

恐怖も怒りも全て一旦涙に溶かし、あたたかく流していく。


遠い記憶も、微かに浮かぶ顔も、全てぼんやりと包んでいく。

恵里子は今、どこまでも遠い空の彼方に浮かんでいた。


号泣がやがて嗚咽に変わる頃、お風呂が沸く知らせの電子音が鳴った。

いつの間にスイッチを押したのか。


多分無意識によろよろと部屋に入る時、照明のスイッチと同時に押したのであろう。

いつもの習慣であった。


恵里子は顔を上げ、涙で腫らした目を窓に向けた。

カーテンが開いたままになって窓ガラスが曇っている。


闇の黒さを白く覆っている。

まるで外の世界から恵里子を守るように。


恵里子は大きくため息をつくと、コートを脱いで浴室に向かった。


※※※※※※※※※※※※※※※


お湯の中で白く長い両足の映像が揺れている。


髪の雫が波紋を作っている。

1つ、2つ・・・3つ・・・。


泣きながら熱いシャワーを浴びたことで、ようやく恐怖が薄れてきた。

その代わり、数多くの疑問が恵里子の頭をいっぱいにしていた。


波紋が大きく乱れた。

あまりにも理解不可能な事に大きく頭を振り、雫が飛び散ったのだ。


(なぜ・・・なぜなの・・・水野さん。どうして・・・?)


恐怖に代わり、疑問と怒りが沸いてくる。

冷たかった身体が温まり、興奮が恵里子の身体をたぎらせる。


(許せない・・・。なぜなの、水野さん・・・?)


又、水面に波紋が作られていく。

恵里子はじっと、それを見つめていた。

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