第一章 朝食
足音が聞こえる。
コツコツと暗闇の中を。
恵里子のヒールの音ともう一つ、少し重い音が重なっている。
恵里子がスピードを早めると、もう一つの音も早めてくる。
どんなに急いでも、どんなにもがいてもついてくる。
もう、どのぐらい歩いたであろう。
身体は疲れでしびれ、汗が滝のように流れてくる。
足音が聞こえてくる。
恵里子の頭の中を駆け巡る。
逃れようとするのに、いつまでもついてくる。
遠くに小さな明かりが見える。
あそこまで行けば、そこにつきさえすれば。
恵里子は必死になってもがく。
足が思うように動かない。
それでも懸命に足を前に出す。
あそこまで・・・。
足音が近づいてくる。
恵里子よりも早く、やがて徐々に大きくなってくる。
追いつかれる。
逃げなくては。
もう少し、あと少し。
足音が近づいてくる。
足が動かない。
どんどん大きくなって、恵里子の耳に迫ってくる。
振り向いてはいけない。
逃げなくちゃ。
でも・・・。
身体が動かない。
足音がとまり、恵里子の肩に手が伸びた。
恵里子は思わず叫んだ。
「いやーっ・・・」
※※※※※※※※※※※※※
鳥の鳴き声がきこえる。
カーテンの隙間から弱い光がレースの模様の影をゆらす。
毛布をにぎりしめた細い指が震えている。
汗が額から首すじへ流れていく。
恵里子はようやく夢だと気がつくと窓のカーテンをあけた。
冬の遅い朝日が弱々しくあたりを照らしている。
都心の住宅街でわずかに生息する木々が少しずつ色づき始めている。
小鳥が二、三羽、斜めに横切って行った。
「恐かった・・・」
恵里子は、まだ夢の余韻で動けなかった。
金しばりのようになった身体を慎重に動くか確かめている。
パジャマも下着もぐっしょり汗でぬれている。
ブラジャーをつけず直接着たTシャツが、胸のふくらみに沿って汗のしみをつくっている。
この頃、毎日のように同じ夢にうなされる。
寝る前に楽しい映画のビデオを観たり本を読んでみたりするのだが、必ず同じ場面が出てくる。
恵里子は大きく息を吐くと、よろよろと起き上がりシャワーを浴びにいった。
冬の朝は底冷えする寒さなのだが、とにかくこの悪夢の記憶を消したかった。
熱いシャワーをゆっくりあびた後ドライヤーで髪をかわかす。
冷たい牛乳をコップにつぎ一気に飲み干した。
それから簡単に化粧をする。
鏡に映った恵里子は肌も瑞々しく美しい顔立ちをしている。
眉は生まれたままの形であるのに細く濃い線がきゅっと横に伸び、大きな目は黒目がち
に潤んだ瞳を見せている。
鼻はまっすぐ下に、唇は小さめにぷっくりと弾力をかんじさせる。
頬はふっくらしているのだが顎の線は細くとがっている。
ただ最近の悪夢の連続により頬は痩せ、目の下に薄いくまができている。
そのくまを隠すように、いつもより少し濃いめにファンデを塗っていく。
うすめにアイラインとシャドウをかけると後は食事が終わってからにする。
あまり食欲がないのだが、朝はしっかりと食べるようにしている。
一日のはじまりはエネルギーを充分補充してのぞむのだ。
カリカリに焼いたベーコンと卵はサニーサイドに、サラダは新鮮なレタスを下に敷いてキャベツはたっぷりと。
薄く切ったきゅうりとプチトマトをのせ軽くドレッシングをかける。
厚めのトーストを今日はこんがりめに焼き、軽くバターを塗った後にブルーベリージャムをのせる。
ゆっくり少しずつ食べていく。
よく噛み野菜の生気を取り込むように味わっている。
恵里子は出社する時間に余裕で間に合うよう早く起きる。
一日のスタートを焦って始めるのは嫌いなのだ。
したがって夜ふかしもしない。
毎日十一時には寝て朝六時には起きる。
食事を済ませコーヒーを飲みながらゆっくり新聞に目を通す。
ストーカーの記事に怯えるように眉をひそめると、ため息のようにつぶやいた。
「今日は金曜か、明日・・・どうしよう?」
恵里子は、ある大手の設計会社にコンピューター図面のCADオペレーターとして勤めている。
といっても派遣社員で、今の会社に来てからまだ二年であった。
いや、もう二年・・・というべきかもしれない。
恵里子も、今度の誕生日で二十八になる。
あせっているわけではないのだが、結婚についてはいつも考えている。
ただ、本当に愛せるような男性に、なかなか巡り合わない。
別に贅沢を言っている理由ではないのだが、どうも言い寄ってきたり身近にいる男性は好きなれない。
一人を除いては・・・。
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