「彼女」のその後(2)


 抱きかかえた松音の体は、心なしか少し震えているように感じられ、雨に打たれた寒さのせいなのか、それともここに来るまでに体験したことが原因なのか。いずれにせよ、俺は震える松音の体を、「ぎゅっ」と力強く抱き寄せた。松音も、俺の体に身を預けるように、彼女自身の体をもたれかけてきていた。



 部屋に入り、何はともあれ、松音にシャワーでも浴びてもらって……と考えたが。そこで、シャワーを浴びるのはいいが、その後の「着替え」が全くないことに気付いた。濡れた衣服をもう一度着直すのは明らかに具合が悪いだろうし、かといって、この歳になるまで独身を貫いて来た俺の部屋に、女性用の服などを常備しているはずがなかった。


 それでも、びしょ濡れの服のままにはしておけない。俺は松音の様子を伺いながら、彼女の意思を確認することにした。


「松音さん……良かったら、シャワーでも浴びてきませんか? 着替えになるような気の利いた服はなく、私が普段着ているものしかないんですけど。もし、それでも良かったら……」



 松音は俺の言葉を聞き、「ありがとう」と小声で呟いた。それを承諾だと受け取った俺は、出来るだけ綺麗なタオルを選び抜き、部屋の隅に積み重なっているいつでもぱっと着られる類の衣服ではなく、押し入れに仕舞い込んだままで防虫剤臭いかもしれないが恐らく他に比べれば綺麗なことは間違いないであろうそうであって欲しいと願うばかりの服の中から、なんとか松音が着られそうなものを見繕って、バスルームの前に用意した。松音が着られそうなものといっても、限られた中での「俺チョイス」なので、似合う似合わないはこの際勘弁して欲しいところだが。


「脱いだ服は、この籠の中に入れておいて頂ければ。ここの扉を閉めておけば、服を脱いでも俺からは見えませんから。……あ、私は部屋の向こうの隅でじっとしてますから、ご安心を」


 俺は努めて明るくそう言って、バスルームに通じる扉とは対角線上にあたる、部屋の隅を指差した。勤めて明るくはしていたものの、腋の下はすでに冷や汗でびっちょりだった。


「すいません、急に押しかけたのに、色々気遣ってもらって……」


 松音は静かにそう言うと、バスルームに近い扉を「ぴたり」と閉めた。



 扉はぴたりと閉められているとはいえ、狭い安アパートの室内である。バスルームからシャワーの水音が聞えて来て、俺は更に緊張の度合いを高めていた。出来れば、緊張でカラカラになった喉を少し潤したいところだったが、飲み物が入った冷蔵庫は、閉められた扉の向こうにある。ここは松音が出てくるまで、我慢するしかない。俺は部屋の隅で縮こまるようにして煙草を咥え、忙しなく煙を吐き出しながら、「落ち着け、とりあえず落ち着け」と自分に言い聞かせていた。



 やがて、聞こえていた水音がピタリと止まり。「かちゃっ」という音と共に、閉められた扉の磨りガラス越しに、桃色の肌が「チラリ」と見え、俺は慌てて扉に背中を向けた。


 それから、松音が体を拭き、服を着ているのだろう、永遠に続くかのように思えた数分の後。扉の開く音がして、「ありがとうございます……おかげで、少し落ち着きました」という、松音の声が背中から聞こえて来た。そこでようやく俺は、くるりと扉の方を振り返り。「ああ、それは良かったです。狭苦しいところですが、そこにおかけになって……」と、松音に声をかけようとして。そこで、体が硬直してしまった。



 濡れた髪をタオルで拭きながら、俺の方を見ている松音は。俺が用意した服――クリーニングから戻って来て折り目の付いた白いYシャツを着て、夏場に寝る時用にでもと買ったもののそれっきり仕舞い込んでいた短パンを穿き。これまで見て来た以上に、最高レベルでセクシーな姿だと言えた。


「すいません、それじゃあ失礼して……」と、松音が座ろうとして身をかがめると、Yシャツの中で豊かな胸元が上下するのが感じられた。……そうか、Yシャツの下に着るものも用意すべきだった。「こういう機会」に慣れていない俺は、そこまで気が回らなかった。濡れた服を下着まで全部脱いでしまった松音は、素肌の上にYシャツを着て、その下には「何も付けていない」状態なのだ。



「そ、そうだ。何か飲みますか? ビールくらいしかないですが……いや、体が暖まるものの方がいいかな」


 俺はそう言いながら立ち上がり、ともすれば視線が釘付けになってしまいそうな松音とすれ違うように、扉の向こうの台所へ向かった。


 台所でお湯を沸かしながら、俺は密かに「すう……、はあ……」と深呼吸をして、自分を落ち着かせることに懸命になっていた。……おいおい、まだ女を知らない、ウブな中坊じゃないんだから。ドギマギするのにも、程があるだろ。


 そう思いつつも、Yシャツと短パンを着た松音の姿は、俺の脳裡にくっきりと焼き付いてしまっていた。出来るだけ綺麗なものをと考えるのが先に立って、それを「シャワーを浴びたばかりで髪が濡れていて、下着を付けていない松音」が着た、その姿までは想定していなかった。しかし今はそれどころではなく、どうして俺のアパートの傍にいたのか、その事情を聞かなければならない。いや、彼女が言いにくいようであれば、今は休ませてあげることを優先すべきか……。



 俺はとりあえず、震えていた松音が少しでも暖まり、気持ちが休まるようにと、カップにウイスキーを少し注ぎ、そこにお湯を入れた「お湯割り」を松音に差し出した。


「これを飲んで、暖まって下さい。アルコールは少なめにしましたので……」


 こんな時若い女性に出すような、ホットチョコレートやココアなどの類は、当然のことながら俺の部屋には置いていない。コーヒーもブラックでしか飲まないので、砂糖すらも置いていないくらいなのだ。だが、自分の部屋に来た若い女性にアルコールを出すというのは、何か「狙い」があるのではと勘繰られてもおかしくない。それでも、まだ若いとはいえ「名家の長女」としての落ち着きを持っていた松音は、「大人の女性」として変に疑うことなく、受け取ってくれるのではないかという期待があった。



「……ありがとうございます。ほんとに、色々お気遣い頂いて……」


 松音は小声で「いただきます」と囁いてから、カップの温かさを感じ取るように両手で持って、中の飲み物を「くいっ」と口に流し込んだ。その温かみが、喉を通り過ぎ、やがて体の隅々に行き渡るのを感じたのだろうか、松音はカップをテーブルに「コトリ」と置いて、「ふう…………」と、長いため息をついた。



 俺は、松音のその様子を見届けてから、ゆっくりと話しかけた。


「……松音さん、もし言いづらいようなことがあったら、それで構いません。差し支えなければ、あなたがなぜ私のアパートの傍にいたのか、お話し頂けますか……?」


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