「彼女」のその後(3)


 俺の言葉は聞こえているはずだが、松音はテーブルに置いたカップを両手で包むように持ったまま、しばらく口を開かなかった。俺は、今のところは「それでもいい」と思っていた。松音の無事が、こうして確認出来たのだから。



 俺も自分用に用意したコーヒーに口をつけ、それからテーブルの上に、灰皿を置いた。松音のマンションの時とは立場が逆だなと思いながら、俺は言葉を続けた。


「すいません、もしもの時の証拠にも成りうるため、キセルは動かさない方がいいと思い、マンションの部屋で『そのまま』にしてあります。なので、普段私が吸っているものしかないんですが。それで宜しければ……」


 俺はそう言いながら、いつも吸っているLARKの赤い箱を松音に差し出した。松音は、「ありがとうございます」とわずかに笑みを浮かべ、箱から少し出ている煙草の先を指でつまんで、口にくわえた。俺はそのタイミングでライターを取り出し、煙草の先に「しゅぼっ」と火を点けた。


 松音は、煙草の煙を「ふう~……」と吐き出し、それから、やはり慣れない煙草だからか、それとも寒さで身体が冷えていたせいか、「ごほっ、ごほっ」と小さく咳き込んだ。しかし、心配そうに見つめる俺の視線に気付いたのか、俺を制するように手のひらをかざし、「大丈夫です、すいません。急に吸い込み過ぎました。……けほっ」と、少し顔を赤らめた。



 それからまた、お互いにカップの飲み物を飲み、煙草を吸い。しばらくの間、沈黙の時が流れた。沈黙の中、この後どうすべきか、まだ雨脚が強いままだが、竹乃か梅香に迎えに来てもらおうか……と考えていると。松音が、カップを持つ自分の指先を見つめるようにしながら、ポツリ、ポツリと話し始めた。




「この間、勇二さんがマンションに来たあと。竹乃と梅香との3人で、色々話し合ったんです。勇二さんにもお話したような、一清さんが企んでいることに対して、あたしたちが出来ることを。竹乃も梅香も、最初は一清さんとのことを否定していましたが、勇二さんにも調べてもらって、わかってるのよ? って念を押したら、先に梅香が認めて、次に竹乃も、諦めたように認めて……」


 そこから先は、竹乃に聞いた話とほぼ同じだった。松音と梅香で盛り上がって、どうしようかと考えている時に、竹乃が「お金も貰っちゃおう」と言い出した。それはいい考えだと、松音が一清の「裏の販売網」を利用することを思いついた……。



「私としては、結構いいアイデアだと思ったんです。私たち姉妹のうち誰かは、結婚すれば実家の跡継ぎになれて、金銭的にも潤うけど。他の2人にも、定期的にお金が入るようになればいいなと思って。それで、一清さんを呼び出して、私たちの前で謝らせた上で、その『条件』を飲むように要求したんですけども。


 その時は一清さんも、浮気してたのがバレたこともあって、条件を飲むことを承諾したんですが。その後に、私1人に言ってきたんです。『あまり調子に乗らない方がいいぞ、素人が簡単に手を出していいことじゃないんだ』とか、脅すような感じで……。


 私はきっと、一清さんが悔し紛れにそんなことを言ったんだとばかり思ってたんですけど。その数日後に、『笹川から事情を聞いた』って、知らない男の人から電話がかかって来て……。どうすればいいのかと思って、一清さんに詳しいことを聞こうと思ったら、電話が繋がらなくて。それで今日、ちょうど勇二さんから電話が入ったので、そのことを相談しようと思ってたんです。そしたら、その男から電話が来て、『今、マンションの前にいる』って言われて……。


 私はビックリしてしまって、こうなったら変に逆らわない方がいいと思って、その人を部屋に呼んだんです。会うのを断って、マンション前で騒ぎでも起こされたら大変ですし。それからすぐに部屋に来たんですけど、来たのはその男だけじゃなくて数人いて、もう言うことを聞くしかないと思って……。でもそこで、この後に勇二さんが来ることを思い出して。キセルを床に落として、ドアを開いたままにしておけば、きっと『何かあった』って気付いてくれるはずだと……」



 電話をかけて「これから行く」と告げるのではなく、マンション前からいきなり電話をする。それで相手は否応なしに、自分たちと会うことを、承諾せざるを得なくなる……。いかにも「その筋」らしいやり方だなと、俺は考えていた。


 そしてやはり、キセルと「開いていたドア」は、松音の俺へのメッセージだったのだとわかり、俺は激しく胸を打たれていた。そこまで俺を信用し、頼りにしてくれている。それが松音自身の口から語られ、俺は胸を締め付けられるような想いに駆られていた。



「……それで、その人たちの言う通りにマンションを出て、車に乗せられて。私、ほんとに危ないのかも……と怖くなって。でも、私1人じゃ何も出来ないし……って、途方に暮れてたんですけど。私が『ただの素人の女』だとわかって、そこまで逆らったり抵抗したりする気配も全然なかったので、その人たちも少し油断してたのかもしれないですね。途中で寄るところがあるとかで、車を停めたんです。そこで、その人たちが車を降りる隙を狙って、夢中で逃げ出して……。


 なんとか逃げ出せたのは良かったんですけど、スマホもお財布も取られちゃってたし、とりあえず逃げようとしか思ってなかったので、どこに行けばいいのか全然わからなくて。警察とか交番に行こうかとも思ったんですけど、やっぱり『裏の販売網』を知ってて、そのお金を貰っちゃおうとか考えてたことがバレるのは、マズいとも思ったし……。妹たちのとこに行くのも、妹たちに迷惑かけるだけだし。そこで、勇二さんのアパートを思い出したんです。


 私、依頼をする前も自分で勇二さんのこと色々調べてて、それで最初にお会いした時に、凄くいい人だなと思ったので、更に興味が湧いて。勇二さん、どんなところに住んでるのかしらって、このアパートまで調べちゃったんです。なんだかストーカーみたいで、ごめんなさい。事務所だと、もしかしたら一清さんが来てるかもしれないし、その点アパートなら大丈夫だろうと……。


 スマホがなかったので、かすかな記憶を頼りに、何時間も歩いて……。途中で大雨が降って来て、ずぶ濡れになって、もう泣きそうだったんですけど。勇二さんに会えれば、会えさえすれば大丈夫だって、自分に言い聞かせて。このアパートが見えた時には、ほんとにほっとしました。後はここで待っていればいい、勇二さんが戻って来るのを待っていれば、って……」


 正直「そんな状況」になったら、後のことはともかく、真っ先に警察に行くべきだと思ったが。ここでそんな「正論」を言うつもりは、更々なかった。何より、松音がそこまで俺を頼っていてくれたことに感動し、俺自身が泣きそうになっていた。だが、俺にはひとつだけ、確認しておきたいことがあった。



「正直にお話して頂いて、ありがとうございます。ここに来るまで、さぞ大変だったでしょう。奴らも、依頼をしに行った探偵のアパートにいるとはすぐに思いつかないでしょうから、妹さんたちのところでなく、ここに来たのはいい判断だったと思います。そこで……宜しければ、ひとつだけ、お聞きしたいのですが」


 松音の「なんでしょう……?」という言葉を受け、俺は出来るだけ優しく、丁寧に、松音に問いかけた。


「笹川さんの、『裏の販売網』からの入金口座を、松音さんの口座に変更すること。これは、妹さんたちと話し合っている時に、咄嗟に思いつくようなアイデアではないと思えます。松音さん、恐らくあなたは……その前から、『そうすること』を考えていませんでしたか……?」



 一清が言っていた、「密かに、俺の店を狙っていやがった」という言葉。その真意を確かめておきたかった。そしてそれは恐らく、一清の言った通りではないかと俺は考えていた。松音は俺の話を聞いた時から「そのこと」を考えていて、竹乃が「お金も貰っちゃおう」と言ったのは、妹2人にそれを言いだすきっかけに過ぎなかったのではないか。


 とはいえ、それはこの場でどうしても聞いておかなければならないことではなかった。むしろ、大雨の中を歩き続け、俺のアパートまで来てくれた松音のことを考えれば、そんなことは後回しにしていいくらいだった。なのに、俺がそれを聞こうとしたのは……いや、俺にそれを「聞かせたのは」。安アパートの狭い部屋に、俺と松音が2人きりでいるというこの状況が、限りなく「男と女」に近い関係に感じられたから、だったのだろう。


 彼女はあくまで依頼人であり、俺は依頼を受ける探偵だ。その、お互いにこれ以上交わらないはずの関係が、ここで一気に深まってしまいそうに思えた。それに歯止めをかける意味でも、俺はあえて、そんなことを聞いたのかもしれない。だがその問いかけは、思わぬ展開に結びついてしまった。



「そう、ですね……さすが、勇二さんですね。その通りです……」


 松音は、これまで以上に弱々しい声で、俯きながらそう答えた。そこで俺は、我に返ったように「しまった、なんで俺はそんなことを」と思ったが、口に出してしまった以上、もう取り返しは付かなかった。



「一清さんが言ってたように……私、少し調子に乗っていたのかもしれません。最初は、ちょっとした悪戯心だったんですけど。考えているうちに、どうせやるなら本格的にやった方がいいかな、とか思い始めて……。でも、男の人に囲まれながら、マンションから連れ出されて、思い知りました。私ほんとに、田舎から出て来た、世間知らずのお嬢様なんだと。その思い上がりが、竹乃や梅香だけでなく、勇二さんにまでこんな迷惑をかけてしまって……」



 そう言った松音の肩が、小刻みに震えているのがわかった。うつ向いた顔の表情こそ、はっきりと伺えないが。それは明らかに「泣いている」ことを現しているのだと、女心に無頓着な俺にもわかった。それがわかった途端、俺は立ち上がり。松音の傍らに、しゃがみこむように寄り添った。


「すいません、俺の方こそ。今ここで、聞くようなことじゃなかった。松音さんを責めるつもりなんて、これっぽっちもありません。その逆です。俺みたいな奴を信頼してくれて、マンションの部屋にヒントを残し。そして、この雨の中を、アパートまで歩いて来てくれた。迷惑どころか、感激しています。それが、偽らざる俺の本心です……!」


 さっきまでは気を付けていたのだが、ここでまた俺は、自分のことを「俺」と言い始めていた。それだけ、松音の涙に動揺していたのだろう。しかもそれは、俺が流させたと言っていい涙だったのだから。



 松音は俯いていた顔をそっと上げ、俺の顔をじっと見つめた。


「……偽らざる、本心。本当ですか? 信じて、いいんですか……?」


 潤んだ瞳で、そう呟いた松音の顔を、間近に見て。俺の中ではもう、探偵とか依頼人とか、そういった「建前」はどこかに消え去りかけていた。偽らざる本心だなんて、松音に告白してるようなものじゃないか。それでも、思わずそれを口にしてしまったのは。それがまごうことなき、俺の「本心」だったからなのだろう。



 松音は、しゃがみこんだ俺の体に、自分の体をピタリと摺り寄せ。ちょうど、俺の左肩の位置にある松音の顔が、俺を見上げ。「勇二、さん……」と、囁くように俺の名を呼ぶと。そのまま、そっと目を閉じた。


 それは俺にとって、とても抗えるものではなかった。もはや、抗おうという気持ちすら、浮かんでこなかった。……そうだ、最初に「勇二さん」と名前で呼ばれたあの時から、こうなることは決まっていたんだ。いや、そのもっと前から。最初に事務所に来て、俺の脳裡に鮮烈な残像を刻み込んだ、あの日から……。



 俺は左腕で、「ぐっ」と松音の体を抱き寄せ。松音の唇に、俺の唇を重ねた。そのとろけるような感触の中で、震えていた松音の体が、次第に温かみを増していくのがわかった。そしてそのまま、俺たちは。探偵と依頼人ではなく、男と女として。お互いを求め、確かめ合った。


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