「彼女」の事情(2)


 松音の話では、「現在お付き合いしている男性」――笹川一清ささがわ かずきよは、都内で小さな商店を経営していて、野見山家のお家事情はすでに伝えてあり、跡継ぎとなることも「了承済み」ということだった。



 だが、一清の経営する商店は、準備段階から一清がほとんど1人で立ち上げ、苦労を重ねてなんとか軌道に乗せた、一清いわく「自分の分身のように」思い入れの深い店なので、それを捨てて田舎の名家に入るというのは、やはり抵抗があったようだ。


 なので、自分が「跡継ぎ」となる代償に、店を閉店してしまうのはあまりに心残りだと、店の経営を受け継いでくれそうな人を探し。現在、ようやく条件面などの交渉段階に入ったところだという。思い入れが深いだけに、ただ経営を受け継いでくれるだけでなく、今の店の経営方針などもそのまま引き継いで欲しいらしく、交渉はなかなか順調には進んでいないらしい。そんな事情もあり、一清は松音に対し、2人の結婚を発表するのは少し待ってくれと頼んでいた。


 なぜなら、2人の結婚を発表すれば、恐らく一清は野見山家の跡継ぎとして、本家から正式に承認される。それは、例え「田舎の名家」の出来事であっても、多少のニュースとして知れ渡るだろう。そこでまだ、店を引き継ぐ交渉を終えてなければ、ややこしいことになりかねない。なんせ、名家の跡継ぎとなった暁には、一清はその莫大な財産も、自動的に「受け継ぐ」ことになるからだ。


「都内にある小さな商店」の価値を前提とした交渉は、ここでその根幹が揺らぐことになる。一清が提示した金銭的な条件をそのまま飲むわけにはいかないと、交渉相手が言いだしかねない。莫大な財産が手に入るなら、「売値」がもう少し安くてもいいのではないかと先方が考えるのは、当然のことだ。一清としては「そうなる前」に、交渉を終えておきたいというのが本音だった。もちろん交渉を終え、その後に「発表」があったとしても、交渉相手から何か文句を言われるだろうことは予想出来るが。野見山家の事情として、長女の夫となる「予定」であっても、跡継ぎとなることが「確定」ではなかったという言い訳が出来る。



 そのことは松音も理解しており、一清が跡継ぎを確定できるはずの「発表」を、今のところ先延ばしにしていた。財産の継承者という「計り知れない大きな特典」はあっても、その行動は跡継ぎとして、周囲から注視されることになる。名家の様々な伝統も、必須事項として習得しなければならない。「名家の当主になる」とは、そういうことなのだ。これまでのような「独り身の、自由な生活」とも、縁を切ることになる。手塩にかけた店を手放した上で、それを「受け入れる」と言ってくれた恋人の頼みを、松音も無下に断わるわけにはいかなかった。


 だからなおさら松音にとっては、2人の妹の「男性関係」とその進行状況をすぐにでも知ることが、早急に必要だったのである。その状況次第では、どうにか一清を説得して、せめて「婚約発表」くらいまではしておかなければならない。


 ……たぶん、自分でも相当に自信があると思われる、自分の「色香」を使ってまで、俺に「好印象」を与え、依頼を受けさせようとしたのは。そういう事情があるからだろうな。俺は松音の依頼と事務所での行動を、そう捉えていた。……そして。



 依頼の件を話し終え、ソファーから立ち上がった松音は。「想像していた通りの方で、良かったわ。いえ……想像していたより、ずっと”素敵な方”で」と、独り言のように呟き。俺の方に視線を送りながら、サングラスを少しだけ、下にずらした。彼女の「裸眼」と、ほんのひと時、視線が合い。俺は、「いえ……その評価が、調査の報告後も変わらないよう、努めます」と、事務的な言葉を返すのが精いっぱいだった。


「宜しくお願いします」と深く頭を下げ、松音が事務所を出て行ったあと。俺は松音が座っていたソファーの上に、彼女の「残像」がまだ、残っているような気がした。それはあたかも、鼻をくすぐるかぐわしい香りの、残り香のように。彼女が俺に与えていたイメージが、俺の脳内で自然と再生されていたのだろう。



 それは、恐らく。依頼人と、依頼を受けた探偵という立場として、「タブー」なことではあるが。俺の中で知らぬうち、彼女に「もう一度逢いたい」という想いが、かすかに芽生えていたせいかもしれなかった。


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