『手を取り合って』

 少し、言い過ぎただろうか。


 柳智子が気にしているのは、数日前、カフェーでけちょんけちょんに言い負かした若き小説家志望の女の子であった。彼女は私の書いた小説が大好きだ、私のように心動かす物を書きたいと家の門を叩いてきてくれたのだ。離縁した次の日という複雑な私の心中も知らず、少し気恥ずかしそうに原稿を差し出す彼女のことを今まで色々と面倒を見てきた。

 それ以来、彼女の小説を見てきた。はっきり言って彼女の才能は化け物だ。あの、宝物のような才能を磨くのが、いつしか私の夢になっていた。


 必ず、後世に名を残す作家になる。そして今書き上げているのは、間違いなく鮮烈な彼女、シズの処女作となるに違いないのだ。


 だから、私も熱が入ってしまって…





「シズ、どうしてあれから一文字も変わっていないのですか?」


 キレていいだろうか。


「ご、ごめんなさいごめんなさい!別に智さんに反抗しているわけではなくて」

「ではどういうことでしょう?あれから何日経ちましたか?」

「…三日、です」





一九二三年八月一五日


 どうしよう、智さんブチギレモードや。まあ当たり前なんやけど…

 雨宮幸人に相談して二日。つまりあの言い争い、というには日常的な諍いからは三日が経過した日の午後。幸人との逢引を早々に(三時間ほど)打ち切って、小山内静子は柳智子の自宅に謝罪をせんと赴いていた。

 

「ユキの言う通り、ちょっとええきんつばも買った。まずはちゃんと謝って、また見てくださいって言う!智さんおらんと、うち書ける気せえへん」


『まずなにより菓子折り。他人の家にお邪魔して、しかも謝るんだから相手の好きなものくらいは必要!それで、誠心誠意謝る、これ大事』


 何も知らない他人に対しての謝罪では大したアドバイスもできず、幸人が言えたのはこの一つだけであった。つまりこの二日間、二人はただ朝から周囲のことを愚痴ったり、自分のことを伝え合ったりして仲を深めあっていただけなのだ。

 まあ、人間関係においては大事な時間だったのだが。こと小説、または智子との関係においては無為な時間の過ごし方というに他ならず…こうなったのだ。



「いつも即日謝罪のシズが三日間空けて、うん、シズにしては珍しく菓子折りまで用意して、謝意を示して」

「そう!ほんっまに反省してんねん!今回ばっかりはうちが悪…」

「今回ばかり?シズが悪いのは今回だけなの?」

「…いつもです」


 ちゃぶ台を挟んで対峙する二人の間にはいつも通り淹れられたお茶ときんつば。(その隣に空っぽになった一升瓶があるのは見なかったことに…)

 額に青筋を立てながら口を動かす智子に対して、静子は視線を少し下げる。もう用はないと言わんばかりに置かれた原稿用紙はあの日言い争ったまま、一文字の変更も加えられていない状態で再び智子の前に姿を表してしまった。


「これで書き直していれば、シズも気持ちよ~くここで会話できていたのに…」

「ち、ちょっと時間がなかったんよ!ほら、女学校でそろそろ試験があって、ね?」

「ほう、科目は?」

「…さ、裁縫」

「しばきまわすで、こんの小娘が」


 『誠心誠意で謝罪』という幸人からのありがたいアドバイスも忘れ、とっさに出た言い訳は最悪のものだった。いや、裁縫の試験があるのにはあるのだが、そこが問題なのではなく、小説よりも女学校を優先したと口走ってしまったのが問題であったのだ。


「シズ、あんた自力で生きたいって言ったでしょう?女学校出たら見合いさせられるから、それまでに小説家として生きられる算段をつけて親元離れたいって。な~んで花嫁修業の方に精出してんねん!」

「あ~、始まってもうた…智さんから関西弁が出たら終わりや、まともに話が通じやんくなる…」

「話通じやんってなによ!私のこと知ってるやろ?小説書いてんの主人にバレて、喧嘩して、挙句の果てに離縁や!見合いやったから親の顔にも泥塗って…」


 こういうときは何も考えやんことや。耳に入る音は左から右へ、右から左へ。


 柳智子のこういった場面は何度か遭遇していた。基本お酒が入ったときに泣きながらを巻いているのだ。そしてそういうときは別の部屋や、いっそ家の外に出るのが得策なのだが…今回は謝罪に伺っている手前逃げ出すことはできなかった。


 にしても、なんでユキくんのことすらっと言えんかったんやろ…確かに、原稿が喋りよったとかは信じられへんやろうけど、でも話したほうが智さん怒らんかったやろうに。あぁ明日も話せるかなぁ


「なに顔赤くしてんねん…恋か!恋してんのか!私も恋したいわぁ」


 こ、恋なんやろうか…そりゃ、うちの話よう聞いてくれたし、ええ人そうやけど。ま、まだ話して三日やよ?そんな、うちははしたない女じゃありません!




 ____多分



 


「はぁ、まあいいわ。こんな無駄な時間の使い方、若い女には似合わんからな。はい!この話終わり!」

「若い女…」

「ん?もっかい話すか?」

「ごめんなさい!」


 日頃からよっぽど溜まっていたのであろう愚痴を含め吐ききった柳智子は、ため息交じりにパンっと一度手を叩いて場の空気を変える。

 うちは、この、小説の話をするとき特有の、智さんのピリッとした空気や表情が好きやったりしたり。


「何回も言ってて耳にタコができてるかもしれないけど、シズにこういうドロドロした恋愛話はまだ難しいと思う。そりゃまあ前にもらった構成はいい感じだとは思ったけど」

「…構成は良かったのに、今はあかんってこと?」


 そう、この話を智さんのところに持っていったときから、言われていることだった。向いてない。でも、それでも書きたい。


「文体、進行、というよりも感情表現が薄い。ここは作者の独自性が出るところだから、わたしからあんまり詳しい助言はできないんだけど…」

「やっぱり、恋愛経験って必要?」

「…なくても書ける人は書ける。でも経験はあるにこしたことはない、もちろん」


 向いてない、下手くそ、私に教えられるところじゃない。それでも見せたら何かしらの言葉はくれるし、諦めろとか絶対に言わへん。智さんの常套手段や、いろんなこと言うだけ言って、さあシズはどうする?って後ろで腕組みしてるんや。


 シズがうつむいて考え込んだことで、静まり返ってしまった場。もう一度柳智子は口を開く。これは、合作ではない。すべては静子が決めることであり、考えることであり、悩むことなのだ。


「シズ」

「はい」

「頑張って」


「書くときの熱量を大切に。書きたいことを書きなさい。書かなきゃ私も判断できないし、なによりあなたが楽しくないでしょう?」


 優しげな笑みを浮かべながら、智子は一つ助言を残して立ち上がる。

 この助言で物語が面白くなるわけではない。ただ一つ、自分の妹のような、夢を追う一人の女の子へ向けたメッセージ。


「智さん」

「お茶、おかわり淹れようか」

「恋愛したことある?」


 こんの小娘はさっきの私の話ちゃんと聞いとったんか?一つ前の恋愛経験の話からぜんっぜん前に進んで無いやないの!それになによ、私に恋愛経験があるかですってあるに決まってるでしょ何歳やと思ってるんや。結婚してたって話したやろ!それかあれか、独り身で寂しくないですかって煽ってんのかこんの小娘はァ!!


「あ、ごめん、だいじょぶ。背中がべらべらと喋ってくれたわ。うん、だいじょぶ、ありがとう。だからそんなに血走った目でこっちみんといて~~!」


 ゆっくりと振り向いた智子は、髷がほどけ、長くきれいな黒髪をおろしながらゆっくりと振り向くと、鬼のような形相で静子を見つめていた。その視線の先では

「智さん今日はありがとう!また来ます~!」

 そそくさと帰り支度をして、静子は脱兎のごとく玄関へと走り去ろうとしていた。


「シズっ!!!!」

「はいっ!!!!」


「ハッピーエンド」

「へ?」


 突然の横文字が耳に引っ掛かり、焦る足が止まり振り向く。

 


「ヒロインでも、敵役でも、読者でも、シズでもいい。誰かが幸せになる話を書きんさい。それがどろどろとした話ならなおさらや。

 世界のだれかを、幸せにする話を書きんさい」


 そう言った柳智子の姿は、あまりに美しく、強く、母性にあふれていたと、私の眼には映っていた。

 

「お母さん...」

「そんな歳じゃないッ!!!」


 東京の街は、今日も悲鳴がよく響く。

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