『喫茶店と過去と』

二〇二三年 八月一二日


 じめじめとした湿気と夏の陽気にさらされた身体はあちこちから汗が噴き出ている。家を出る前にしっかりと制汗スプレーを吹きかけたはずだが、すでに汗で流れ落ちたのだろう。もう既にその、冷涼感は微塵も感じられない。

 こんな日にはクーラーの利いた部屋でダラダラと過ごしたいというのは人類共通の願望のはずで、夏休み真っただ中だからといって外で遊ぶ小学生たちはおそらく我々と体のつくりが違うのだろう。

 僕、雨宮あめみや幸人ゆきとは大学生という人生のモラトリアム期間を謳歌おうかするはずなのに、夏休みは海やプールで遊ぶか、クーラーの利いた室内にいようと思っていたのに。どうしてアスファルトの照り返しにじりじりと身体を侵食されているのか。


「早く涼みたい…こんなとこにいたらそろそろ体が溶けるぞ?」


 流れ落ちる汗はもしかしたら僕の体が溶けている証拠なのかもしれない。

 なんとか早く家に行こうと気合いを入れなおし顔を上げると、視界の左にはレトロな雰囲気を漂わせるカフェが、涼しげな顔をしてそこに立っていた。じわじわと僕の体を蝕んでいく熱気と湿気には、入れ直したばかりの僕の気合は霧散してしまう。クーラーの効いた部屋を想像すると、もう歩けない。僕の体は吸い寄せられるようにふらふらと動き、そのカフェの扉を開けていた。






 カランカランと音を鳴らし店に入ると、外観の予想通りのレトロな喫茶店。客の姿は僕以外見えないものだから、遠慮せずに一番奥の席に座り、ふっと一息つく。しっかりとクーラーの利いた室内は僕の心からだんだんと冷やしていっているのがわかる。


「あああ、しあわせだぁぁぁ」


 コーヒーはいつもホットの方が美味しいと思っている僕だが、この季節くらいはカランと音を立てる氷にも頼らせていただきたい。

 左手に持つ鞄には、僕の実家が大切に保管していた原稿用紙が入っている。これがとある名著の自筆原稿らしいのだ。普通なら心躍る展開かもしれないが、わざわざこれを持ってきたのが自分のためではなく、サークルやバイトでお世話になっている先輩の卒論用だというのだから全くもって気が乗らない。


『ゆ~き~と?いつも世話してやってる先輩の誕生日にな~んの言葉もないんだもんな~?一つくらいお願い聞いてくれるよな~?』


 だめだ、あのにやけた面殴りたくなってきた。祝いの言葉がなかったってなんだよ、彼女かよ、細かいんだよ!

 とはいっても先輩にはいつも良くしてもらっている恩みたいなものは一応ある。頼み事くらいならいつでも聞くが…なんか腹立ってくるな。やっぱやめた。


「こんな炎天下にわざわざ取りに行ってやってんだ。ちょっと読んだって罰はあらないだろ、減るものでもないし」


 あのちゃらんぽらんな先輩が、卒業論文に何を選んだのか。つい興味をそそられてしまうのは別に不思議なことではないだろう。汗をかき始めたグラスを手に取って黒い液体を口に流し込み、黒い鞄の中から厳重に守られている、色褪せた原稿用紙を取り出す。本のタイトルは『運命うんめい』。生まれてこの方活字だけの本を読んだことのない、読書家ではない僕もタイトルくらいは聞いたことのある名著だ。大正時代の女流作家が発表した恋愛小説、なんでもこの女流作家さんの発表作はこの一作だけだというのだから日本最高の一発屋といってもいいくらいだ。


 気を抜くとぼろぼろと崩れ落ちそうなほどに時代の流れを感じる原稿を、ぱらりとめくる。日ごろから読書をしていない僕にとっては文字そのものが慣れたものではなく、面倒くささから少し手が止まりそうになる。しかしこの炎天下、カフェから出る訳にもいかず、かといってすることもない僕に選択肢はなかった。目の前にはひたすらに文字、文字、文字。物語に慣れ親しんでいない者を弾かんとばかりに並ぶ黒い文字に圧倒されながらも、意を決して瞳を向ける。


 文字が織りなす世界が、大口を開けて僕を待っていた。




















____なにかおかしい


 脳が違和感を受け取り、文字の世界から目線がふっと上がる。

 客は僕しかおらず、店員も裏に下がっているのか見当たらない。そのはずなのに、僕の耳は異音を受け取っていた。ありえない。妙に気になった僕は耳をすませて音の発生源を探る。入口か、カウンターか、外か、他の席か、どこにもなにかおかしなものはない。ありえない。


 目線を下げる。そんなはずはないのだ。ありえない。

 目の前にあるのは何の変哲もない、色褪せた原稿用紙だ。


 心臓の音が大きくなるのを感じる。ドクン、ドクンと、大きく心臓がうなりを上げる。聴覚に神経を研ぎ澄ませ、紙に耳を近づける。静まり返っている店内に薄く聞こえる音。徐々に、徐々に大きく、はっきりと耳に届きはじめる。






『も~! そないなこと言われたって、わたしも頑張ってるんよ?』


『だ~か~ら~!うぅ……そないなこと言いはるんなら、ともさんが書きはったらいいんと…ああ出ていかんとって!!』


 なんとも情けない女性の声は、僕の目の前に開かれた原稿の中から聞こえていた。




『ああ、また怒らせてしもうた。智さんはへそ曲げたら一週間まともに話してくれへんのに…』


 どうしよう。本から声が聞こえるという異常事態よりも、この人のことが心配になってしまう。


 あまりにも落ち込んでいる声色を聞いて、僕はつい声を出した。。そんなこと、わかりきってるのに。


「あ、あの、大丈夫、ですか?」


 本に向かって話しかけるという人生初の奇妙な行動に少し気恥ずかしさを覚えながら、周りに誰もいないことを確認して声を発する。




 一秒、二秒。沈黙の時が流れる。

 聞こえないのかと不安になり、僕は意を決してもう一度。先ほどよりも少し声を張った。


「あの、大丈夫ですか?『紙が言葉を話しよった…これはとかなんやろか』あああ、違います違います!」


 とんでもない勘違いをされそうになり、慌てて否定する。確かに本から声が聞こえるなど異常事態であり、彼女の反応の方が正しいのではないかと今になって思えてきた。


『ちゃうんか? でも紙が話すなんて私はじめてのことやし、そんなこともあるんやね~』

「い、いや、僕は紙じゃなくて、ただの人です…むしろ僕も紙から声が聞こえてきて驚いてるところなんですけど」

『ほ~、あんさんも紙から。えらい奇妙なこともあるもんやね』


 とんでもない勘違いをしそうになっていた割には彼女の声はかなり落ち着いており、むしろ僕が焦りすぎていたのかと錯覚するほどであった。


「それで、大丈夫ですか? ああいや、急に知らない人から聞かれても困りますよね!立ち入ったこと聞いてすみません」

『まあ、うちからすると人かどうかもわからんわけやけど。とりあえず、自己紹介やね!まず、うちは小山内おさない静子しずこっていいます。高等女学校の四回生で、16歳!生まれは京都なんよ。だから話し口が変わってるかもやけど。あ、誕生日は明治40年の…っていきなり話しすぎたな、うちの悪い癖や…」


 本で会話するという、おそらく人類初の試みに挑戦しているであろう僕は遠慮がちに口を開いたのだが、本の向こう側はそんなことは毛ほども気にしていない様子だった。小山内静子、と名乗った女性は早口で自己紹介をまくし立てると、途端に落ち込んで声のトーンが下がってしまう。


 _ん、明治?


 あ、あまりの早口に脳の処理が追いつかず、正直何もおぼえていないのだが。その数字だけ、僕の脳みそは違和感をキャッチしていた。


「…明治、って言いました?」

『ん? ああ、うちの誕生年やね! どうしはったん?でも今は』

「…あの、今は、令和5年…西暦でいうと2023年です」



『____へぁ?』




 これは、ひょんなことから始まってしまった。僕と彼女の、時空を超えた出会いの、一部始終の物語だ。

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