若紅安


 冰遥ヒョウヨウの耳に、皇帝が暗殺されかけたという伝えが入った。


 それは、冰遥が文琵ウェンビとともに、買ってきた品を棚や厨子ずしにしまっている最中だった。


 冰遥をまっさきに訪ねたのは、なんと朱氏の女たちだった。


「物騒ですわね」

「冰遥さまも、お気をつけてねぇ」

「あ、はい……感謝いたします……」


 取ってつけたような笑顔をうかべる杷雅パヤ爛美ランメイ


 目が笑っていない。――冰遥は、螺鈿らでんの箱を膝にのせて、作り笑いをうかべる。


 おほほほほ、と朱氏の女たちの笑声しょうせいを聞きながら、冰遥の思考はちがう話題へとうつっている。


 それは、ヤン夫人にたのまれたについてだ。


 ひとりで何もかもを抱えこんでしまう躘のことだ。


 明日から看病をするという予定ではあったが、父が暗殺されかけたと聞けば、もしや――と、ひとり顔を青くする。


 急いで荷物を片づけている冰遥に、ある人からの伝言が届いた。


「ヤン夫人? わたくしに?」

「分かりかねますが、急ぎの用だと」


 文琵から伝えられた伝言に、首をかしげながら翡翠宮を去る冰遥。



 部屋に残ったのは朱氏の女二人と、文琵。


 二人は冰遥が去ったのを確認すると、冰遥の寝台に遠慮なく腰を下ろした。


 そっくりな美しい顔立ちが、額をつきあわせる。


「本当に鼻につくわ、あの女」

「えぇ。自分の立場がどこにあるのか、分かっていない」


 堂々と話す二人に、文琵は居ごこちの悪そうに顔をゆがめると、すぐに礼をして、去っていく。


 杷雅は、おもむろに香囊においぶくろを見つめると、なにかを思いたったように、今しがた去った文琵を呼ぶ。


 他の家の使用人であろうと、自分よりも高位な方に逆らってはいけないのが、世の条理だ。


 文琵が、扉をひらき、再び礼をする。


「何のご用でしょうか」


 困惑している文琵に、爛美が笑い、手まねきをした。


 文琵は警戒しながら、二人の前に移動する。


「あなた、簪は持っているけれど香囊は持っていないでしょう?」


 爛美が、文琵の髪にしてある、使用人に与えるには上等な簪を見て笑う。


「……何のお話でしょうか」


 警戒の色をうかべる文琵に、剣呑けんのうに笑う二人。


「こちら側につかないか、ということよ。察しが悪いわね」


 ひらひらと香囊を揺らしながら、杷雅が笑う。


 香囊からは、お香としても重宝される高級な白檀びゃくだん桂皮けいひ龍脳りゅうのうの香りに交じって妙な香りがした。


 鼻の利く彼女だからこそ、感じとれる不穏な香りに、かすかに眉に力が入る。


「この香り」


 冰遥の前では聞いたことのない低い声と、不敵な笑みに、二人が少しだけおじけづく。


薫衣草ラベンダーですね、珍しい」


 常人では嗅ぎわけることが困難な香りを、一瞬にして見ぬいた文琵に、杷雅が動揺をかくせず、香囊をにぎりしめる。


 二人をちらりと見やり、文琵はおもむろに話はじめた。「この国には、薫衣草が厄除けとなるとの古伝こでんがあります」


「……へぇ」

「『それで、その話をしたところで何か関係があるのか』。……とでも言いたそうですね」


 対して興味をそそられず、無難な返事をした杷雅に、障子を――その奥を見つめたまま、文琵が笑う。


 ひぃーひぃーと引きつったような声を出し、奇妙にも愉快そうに笑う。


 その不気味さに、腹の奥でぐるるとまわる邪推じゃすいが、空気のぬけた風船のようにしぼんでいくのを感じた。


 その途端、笑声がぴたりとやんだ。


 文琵は真顔でこちらを見ている。――視線は障子のまま。


 背筋をとおる寒気に、爛美は杷雅に目配せをした。


 彼女は言いたいことがすぐに分かったかのように、文琵の背、つまり二人の正面にある扉を見つめた。


 言葉を発することなく、ただ障子を睨みつけている文琵と、この空間にいることが耐えられなかった。


 爛美は身震いをする。


 立ちあがり走りだせば、きっと逃げきれる。――二人はそう思い、手を握る。


 なぜ、文琵から逃げようとしているのかも分からない。


 ただ、早く去りたいともがく心音だけが頭に響き、正常な判断などできなかった。


 恐怖しか感じられず、ここから逃げなくてはいけないという謎の使命感だけに駆られていた。


 二人が、立ちあがり一斉に駆けだした。


 長い回廊を、滑るようにして駆け、左に曲がり、そこにいる侍女に助けを求めようか。


 いや、早く外にでたほうがいい。


 侍女は気にしないで、ただ一目散に外へと通じる扉を――



「伝承には、天をも越える力が宿る」


 珊瑚さんご色の唇が、しずかに両端をあげる。


 ずっと障子に向いていた目が、がくがくと左右に揺れながら、二人へと向く。


 そして、いつも冰遥に向けているようなあたたかい笑みをたたえた。



 ――なぜだ。


 たらりと冷や汗が流れるのを感じながら、杷雅はように震えつづける顎を、両手でおさえた。


 二人は


 立ちあがり、一目散に駆けたはずなのに。


 外へ通じる扉を、この手で、開けたはずなのに。


 さきほどと全く同じ位置で、冰遥の寝台に腰かけていた。


 震えが止まらず、姉に声をかけようとした爛美を遮るように、甲高い声で叫ぶ。



「わたくしが育った国では!」


 爛美が、文琵の耳を見て、はっと目をみはる。


 さきほどは耳飾りなどつけていなかったのに、今はつけている。


 耳飾りはその上――黒色に燃えている。


「薫衣草は、ザッソウにしかすぎない! 賤民せんみんに踏みつぶされ、野良犬が噛みちぎり、牛の寝床になり根から滅されてしまうような、ただの! ザッソウだ!」


 喉から絞りだすように笑いつづける文琵を、見てはいけないものを見たような奇妙な顔で二人が見る。


「薫衣草を神からのお守りだと言う、この国の愚かな民どもが、わたくしは大嫌いだ! この国中の薫衣草を全て燃やしてしまいたいと! 毎晩、わきあがる怒りを噛みしめて!」


 二人の脳裏に、毎晩訪ねては、運命を予見よけんする女性がうかぶ。


「……わたくしが何者か、ご存知ないようですね」


 そう言いながら、髪に挿していた簪をするりと引きぬき、髪を胸のほうへと流す文琵。


 すると、先ほどの姿とは違い、優艶ゆうえんな色をまとい口端をあげてみせる女性に、二人は青ざめてがたがたと震えだす。



 そして、優雅な身ぶりで蠟燭ろうそくを手にとると、滑らかに灯へと手を翳す。


ひしとご覧になって?」


 からだを支配する畏怖に、動けない二人。


 文琵が慣れた手つきで二人に指先を向けると、そっと蠟燭の方へと動かす。



 二人の目がガクガクと蠟燭の方に向き、その灯に釘付けになる。


 文琵は満足げに笑うと、手を翳した蠟燭に息を吹きかけた。


 蝋燭の灯は、瞬く間に色を変化させ、青、緑、桃、黄、紫……と、さまざまな色に変化する。


 文琵は、蠟燭の火を、手のひらにのせる。


 ――否、文琵の顔ではない。


 いつの間にか、まったく別人の顔になっている。


「これで、気づいたかい? ……?」


 恭順きょうじゅんせざるをえない笑みに、二人は自分たちの行く末をおそれて一層震えをはげしくさせる。


 文琵はさらに笑みをふかめると、手を握りしめ、火を消す。


 ひとつ灯を失ったせいで、薄暗くなった室で冷や汗をぬぐう。


 ようやく話せるようになった爛美が、震える声で言った。


「まさか、あなたさまが、あのお方だとは……」

「しー」


 人差し指を唇にあて、薄ら笑いをうかべる。

 爛美が消え入りそうな声で弱々しい謝罪を口にする。


「約束は守っているのだろうね、杷雅?」


 持ち主の許可をえないまま、小皿から紅をとり、目元へと小筆で彩を与えていく。


 名を呼ばれた杷雅は、顔を強張らせてひきつった声を出した。



「もちろんでございます、若紅安ルォーフォンアンさま」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る