第3話
⒊ ちりぢりおーたむ
二学期が始まっても学校は何も変わらなかった。変わらなかったのは学校だけではない。私の身長もほとんど伸びていなかった。ハルナちゃんも急に成長が止まったらしい。マリカちゃんがチビガキと馬鹿にしたので、またハルナちゃんと喧嘩になった。そのことをパパに話すと次の日、学校が終わってすぐ病院に連れていかれた。お医者さんと話しをした後、触られたり血を抜かれたり変な機械に寝かされたりした。検査が終わって十分くらいして、またお医者さんに呼ばれる。
「えっと、有野マキちゃんね、それでこっちがファルザリオン」
「はい。そうです」
「おめでとうございます。お子さんの成長は止まっていますよ」
「本当ですか」
パパが嬉しそうに声をあげる。
「初潮はまだでしたよね」
「ええ、恐らく」
「生殖能力もほとんど完全に失われています。あと数か月様子を見て身長に変化がなければ大丈夫でしょう」
「よかったなマキ」
パパが私に抱き着いて頭をわしゃわしゃ撫でる。汗臭いからいやだったけど、お医者さんの前だしされるがままにした。
帰りの車でもパパは上機嫌だった。
「夜、何か食べにいこうか。寿司?焼肉?」
「えー、うどん」
「何でもいいんだぞ、お祝いなんだから」
「マキの体に何が起こったのだ」
ファルザリオンの口調はパパと違って全然明るくない。むしろ怒りを抑えているような感じだ。
「背が止まったんだよ。だからもう上は近いぞ。いや、もしかしたらもう上にいるのかも」
「私、ずっとこのままってこと」
「そう」
私が一生このまま?何を言っているのかわからない。それが本当なら泣き出したいくらいだ。だけど涙は出ない。とてもショックを受けているはずなのに。やっぱり焼肉が食べたいかもしれない。
「……私のせいなのか、マキがこうなったのは」
「そうなんじゃない。ファル君のおかげだし、ファル君も何かお祝いというかお礼しないとね」
「ふざけるな」
急にファルザリオンが怒鳴り声をあげる。こんな風に怒るところを初めて見た。
「どうしたの急に、怖いよ」
「すまない、マキ。私が、」
「いや、まあ、仕方がないよ。いいんじゃない」
「マキ、何を言っているんだ」
「パパ、やっぱり焼肉がいいかも」
「了解」
「マキ。大事なことなんだぞ。君の体がずっと子供のままかもしれないんだぞ」
「でもそれってそういうものなんでしょ。泣いても怒っても仕方がないじゃん」
なぜファルザリオンはこの程度のことでうろたえているんだろう。もしかして、身長が変わらなければずっと三年三組のままになってしまうと思ったのだろうか。ファルザリオンもけっこうかわいい。焼肉の間、ファルザリオンは一度も話さなかった。そのあとも、寝る前に一言、すまないと言うと何もしゃべらなかった。
「僕もそんな感じのこと言われたよ」
また次の日の給食中、ハルナちゃんと宮本君に身長が止まったことを話した。どうやら宮本君もそうだったらしい。
「ようやくこれで上が近づいたというわけね」
「すまない、君たち。私にもどうしたらいいのか」
「何謝ってんのよ。おめでとうじゃないの」
「上とは何なんだ。なぜ成長が止まる」
ハルナちゃんと宮本君が顔を見合わせて溜息を吐く。
「上ってのは上よ。成長が止まるってことは上が近いってこと」
「……それは誰から聞いたんだ」
「わからないけど、それはそういうものなんだよ」
「しかし」
「ファルザリオン、昨日から変じゃない。大丈夫?」
その時、教室が揺れる。私には何が起こったのかすぐにわかった。
「ファルザリオン。有野マキ。出てこい。出てこなければこの校舎を破壊する」
「え、女子の声?」
窓の外を見る。黒い頭が見える。しかし怪物とは違う。黒い金属の奥に二つの赤い光が見える。
「何なんだ、こいつ」
宮本君も困惑の声をあげる。一方でクラスの人はまたかよとかいつもよりかっこいいとかとぼけた反応をしていた。
「どうしたファルザリオン。これでもか」
黒い巨体が一歩引くと、激しく目が光る。その瞬間、下から爆発音がした。
「誰だろうと一緒よ。ぶっ倒すのみ。メルティングフェーズ」
私たちもハルナちゃんのあとに続いて叫ぶ。ファルザリオンに入り込み、謎の黒い巨人を見る。やはり怪物とは似ていない。黒いマントをたなびかせて大きな鎌を持っている。
「ようやく出たな。んじゃ、交渉。私も暴れるのはいやなの」
「交渉だと、君は誰なんだ」
「まさかネクロコメット」
「あ、私のこと知ってたんだ。なら都合がいい。あなたたち、ファルザリオンを壊しなさい」
「な、何言ってんのよ。怪物が来たらどうすんのよ。馬鹿じゃないの」
「ファルザリオンは仲間だ。そんなことはできない」
「あっそ、じゃあ死になさい」
再び強く目が発光する。私はとっさにジャンプして転がると、もといた場所が抉れている。
「何でなの、教えてよ。何でファルザリオンを壊すの」
「侵略者と戦うためよ」
「侵略者だと」
起き上がって黒い巨人に回り込むように走って近づく。ファルザリオンの少し後ろを追いかけるように爆発が続く。
「ファルソード」
「ネクロサイズ」
ファルソードを振り下ろした右腕を大鎌の柄ではたき落とし、そのまま脇腹に刃を差し込もうとする。
「ファルバレット」
巨人の腕に弾丸を叩きこむ。しかし、巨人はすぐに手を引っ込め、弾丸は滑り台を破壊しただけだった。
「あんたたちもわかっているはず。こんなものに乗っているから苦しむだけだって」
「でもやんなきゃだめなんじゃん。ファルレーザー」
膝から光を放ち、巨人を狙う。しかし光は巨人の近くで屈折し、空にまで飛んで行ってしまう。
「納得できたらファルザリオンを破壊する。約束しよう」
「宮本、何言ってんのよ」
「私も構わない」
「あっそ。じゃあ一応解説してあげる。まったくガキね」
巨人が大鎌の柄を地面に突き刺し仁王立ちする。話をしてくれるのだろうか。
「まず、君は何者なんだ。僕たちは浮川小学校三年三組」
「宮本ユウ、神田ハルナ、有野マキ。乗っているのはファルザリオン」
「ふん、よく知ってるわね」
「私は原上小学校三年三組の來野ナナ。本当は三年生じゃないんだけど。で、こいつがネクロコメット」
「何でファルザリオンを壊さないといけないの」
「だから侵略者と戦うためだってば。わからないやつだな」
ナナと名乗った子供の声が苛立たしげに答える。
「侵略者というのは」
「あんたらも知ってるでしょ。ネクロコメットを与えたあいつ」
「あれが侵略者?」
「だっておかしいでしょ。三年三組のみんなが巨人に乗って戦わされて」
「でもそれはそういうもの」
「にされたんだよ。あいつに。こんな巨人なんて現実には存在しなかったはずなのに押し付けられたんだよ」
「私が存在しない?」
「待って、なぜ君にそれがわかるんだ」
「私、本当は三年生じゃないの。半年前に破邪帝国に負けて、一年意識がなくて、もう一回三年三組になったの。だからわかるの。上なんてないって。私は何も変わらなかった。学校も。だからわかったの。世界はあいつが生み出した幻。怪物たちはね、異物である巨人を排除するための抗体なんだよ」
「馬鹿じゃないの。全部妄想じゃん」
「……仮にそうだとして、なぜ私を生み出したと考える」
「狂ってんのよ。ガキを戦わせて喜んでんのよ。だから全部壊すの。思い通りには絶対させない」
めちゃくちゃな理屈だ。全部妄想じゃないか。だけどこの子の中では理屈が通っているのだろう。自分の考えを疑うそぶりさえ見せない。
「……よくわかったよ。この子が言っているのはあれだ、この地球は生物にとって都合がよすぎる。だから天地を創造した神様はいるに違いない。なのにこの世は苦しみに満ちている。だから神様は狂っているに違いない」
「よーするに馬鹿ってことね」
「すまない、ナナ。私たちは破壊されるわけにはいかない。この学校を、町を守らなくてはならない」
「そうですか」
と言うが早いかネクロコメットが鎌を持ってタックルしてくる。ファルソードで受け止め、右足で蹴り上げる。ネクロコメットが轟音を立てて校庭に倒れ、その背中にファルソードを突き付ける。
「ここまでよネクロコメット。そこから降りなさい」
「負けたわ」
巨人の胸が開いて、女子が下りてくる。極彩色のぎらぎらした服にサンダルを履いている、ごく普通の少女に見えた。
「ってやば、給食の時間終わっちゃう」
「私、全然食べてないのに」
「マキが食べてないのはいつものことでしょうが。來野ナナも来なさい」
「え?私」
「給食余ってんのよ。どうせ食べてないでしょ。食べちゃえ」
「で、でも」
「ナナ、君の言いたいことはわかった。だけど受け入れるには互いを知る必要があると思うんだ」
「……仕方がないな」
こうしてナナちゃんが教室にやってきた。倉科先生は驚いていたけど、ナナちゃんにも給食を分けてくれた。やっぱり柔軟だ。急いでガーっと食べて、休み時間にナナちゃんとお話した。とってもいい子だった。今度遊ぶ約束をして帰った。宮本君とハルナちゃんが笑った。ファルザリオンも笑った。その日を最後にして、怪物もネクロコメットも学校には来なかった。私は四年生になり、五年生になり、六年生になり、卒業して中学生になった。私ももうすっかり受験生だ。背も大きくなった。息抜きに駄菓子屋さんに向かう。一人の小さな女の子がスナック菓子をかじってこっちを見た。
「……ネクロみたい」
私ははにかんで、マックスマカーブルの?と尋ねる。女の子がはしゃぐ。
そしてそれからも、私とファルザリオンはずっと幸せに暮らした。
⒈ ぐったりすぷりんぐ
まずいし、一人だし、私は泣かないつもりだったけど我慢できなかった。つーっと流れた涙がかじりついていたパサパサのパンについてしまって、ますます食欲が失せた。どうして倉科先生は、全部食べ終わらないと帰っちゃだめなんていじわるを言うんだろう。いつもは優しいし、楽しいし、この前なんて算数と総合の時間を潰して映画も見せてくれたのに。
校庭で(たぶん)野球部が必死に番号を叫んでいる。野球部の人たちはうるさいから嫌いだった。べちゃべちゃで冷め切った野菜のあんかけをお箸でかき混ぜてみる。これを牛乳で流し込まないといけないなんて、考えるだけで吐き気がした。しかもお腹いっぱいになってきちゃったし、先生もキョウコちゃんもどっか行っちゃうし、みんな私のことを笑うだけ笑ってすぐ帰っちゃうし。ついに声を上げて泣いてしまった。聞かれたらどうしよう、恥ずかしいと思うたびにもっと止まらなくなった。
足音が教室の外から聞こえてくる。どうしよう、先生だ。絶対怒られる。足音がどんどん近づいてくる。やだ、怖い。やだ。扉がガッと開いて肩がびくっと震える。
「あれ、マキってばまだ食べ終わってなかったの」
「キョウコちゃんー」
キョウコちゃんだ。帰ってなかったんだ。私はキョウコちゃんに駆け寄る。
「あはは、食べるの遅いと大変だね」
と言って抱き着いた私の頭を撫でる。
「ひどいよ。他人事だと思って。私だって帰りたいのに」
「まぁ、待っててあげるからちゃっちゃと食べちゃいなよ」
私は時々えずきながらも頑張って完食して、食器を返しに行く。教室に戻るとキョウコちゃんがランドセルを背負って待っていてくれた。
「お勤めご苦労さん。じゃあ帰るか」
二人で並んで学校を出る。まだ春なのに少し汗ばむ。
「でさ、読んだ?今月のマックスマカーブル」
「読んだよ。ネクロかっこいいよね」
「って、おぬし、前は読んだことないって言ってなかったかね」
「実は、えへへ、ごめんめっちゃ読んでた」
「わっかるわ。エロいもんね。あれ」
私はキョウコちゃんと顔を見合わせると少し下品に笑い声をあげる。
「そういえば知ってた?マックスマカーブルって元ネタあるんだよ」
「何それ」
キョウコちゃんが内緒話をするみたいに、ニヤッとして顔を耳に近づける。
「ネットで言ってたんだけど、オペラがストーリーの元らしいのね。それでマックスマカーブルの元ネタってことは絶対エロいやつじゃん」
「もーやだー」
「で、その元ネタのオペラのDVDがあったんだけど、一緒にこっそり買わない」
「いくらくらい」
「一人三千円しないくらい」
確かにそのオペラには興味があった。だけど私には三千円は大金すぎる。お小遣い十か月分だ。うきうきのキョウコちゃんをがっかりさせて申し訳ないけど、ごめんね。
「しょうがないか。じゃ、大人になったら二人で見ようね。約束」
「うん約束」
キョウコちゃんと指切りをすると、キョウコちゃんは浮川荘の八棟に帰っていく。私は団地を抜けた先の一軒家に住んでいる。今みたいな日中はいいけど夕方になると団地は薄暗くて少し一人で歩くのは怖い。たまにコウモリも飛ぶし。オペラのこと、ママに話したら買ってもらえるだろうか。誕生日プレゼントというのもありかもしれない。そう考えながら鍵を回す。あれ、おかしい。鍵が開いている。つい癖で閉めてしまった。もう一度鍵を開け直して中に入る。
「おかえりなさい。マキ」
「ぎゃあああああああ」
知らない男の人が家にいる。泥棒だ。逃げないと。
「ってマキ。早く入りなさいよ」
「ママ、逃げなきゃ」
と言ったところで腰が抜けて立てなくなってしまう。どうしよう殺されちゃう。
「初めまして。サアヤさんとお付き合いさせていただいているリオンです」
「え、リオンさん」
ママの話によく出てくる人だ。確か仕事先の上司とかなんとか。
「今日から一緒に住むことになったから」
「マキに話していなかったのか。サアヤ」
「ちょっと、急に言われても」
「すまない。てっきり話はしているものだと」
「ごめんごめん。話すの忘れてたわ。でもリオンの荷物もう運んじゃったからね。しょうがない。じゃ、おやつにでもしようか。紅茶淹れよ」
ママは勝手なことを言ってリビングに消えていった。リオンは倒れている私を見て、真面目そうな顔にあいまいな笑みを浮かべておずおずと手を差し伸べた。ママが決めちゃったことならもう仕方がない。私はリオンの手を取って立ち上がる。家の中には廊下にも段ボールの箱がいくつか置かれていた。キッチンでママが鼻歌を歌っている。もういいやお菓子食べよ、と思ってリビングに入ろうとするとリオンが呼び止める。
「マキ、帰ったらまず手を洗おう」
うるさいやつ。この時、この人とは絶対仲良くできないってはっきりした。
リオンは優しいし面白い人だった。しかもイケメン。物知りなのに威張ったりしないし、真面目そうなのにママに何か言われると困ったような照れたようなはにかみを見せた。だから、遊びに行くつもりだったけど、リオンの荷ほどきも手伝ってあげる。荷物の半分くらいは本だった。何か難しそうなタイトルが並んでいる。日本語じゃないものもいくつかあった。
「興味があったら何か貸そうか」
とリオンは言った。正直、全然興味なかったけど、仲良くなるチャンスかもしれない。どうせ一緒に生活しないといけないなら早く仲良くなった方が気が楽だ。リオンにおすすめを聞くと、嬉しそうにまだ明けていない段ボールのガムテープをはがしだした。
「これならきっと楽しめると思う」
そう言って小首をかしげて一冊の文庫本を渡した。それは抄訳版のドン・キホーテだった。
お風呂からあがるとリビングから話し声がした。テレビの音だろうかと思ったけど、違う。ママとリオンの声だ。リビングの扉を開ける。二人が楽しそうに話していた。
「あがったか。なら私も入ろうかな」
とリオンは腕を上に伸ばす。シャツがめくれてつるつるで筋肉質のお腹が見えた。
「じゃあ、私部屋にいるから」
テレビでも見るつもりだったけど自分の部屋にこもってしまう。何にむかついたんだろう。知らない人が家でリラックスしているからだろうか。何度も読み返したマンガを手に取ろうとしたところで、リオンに借りた本を思い出した。パラパラとページをめくる。ドン・キホーテなんてお店の名前でしか知らない。読もうと思ったが、二三ページ読んで閉じてしまう。今日はもう疲れてしまった。ゆっくりと目を閉じてベッドに横になる。しばらくして二人の足音が聞こえる。ノックされるが、返事する気力がない。扉が開いたけど寝たふりを続ける。電気が消されて布団をかけられた。扉が閉まる。今のはママだろうか。リオンだろうか。リオンは悪い人ではないけど部屋には入らないでほしい。いや、さすがのママもリオンを私の部屋に入れないだろう。私は寝たふりを続けていると、いつの間にか眠っていた。
次の日の学校は最悪だった。私が教室で本を読んでいるとハルナちゃんが近づいてきた。
「マキさあ、調子乗ってない。こんなもの読んじゃってさ」
ハルナちゃんが本を取り上げる。返してと言うが、それが面白いみたいだ。ひらひらと本を見せびらかして掴もうとすると背中に隠す。私は馬鹿にされてしまうことがわかっているのに涙が出てきてしまう。もうやだ。帰りたい。でも帰ったらリオンがいる。私の家なのに。
「あーあ泣いちゃった」
ハルナちゃんが嬉しそうに笑うと馬場君が机を叩いた。
「やめなさい神田さん。有野さんがかわいそうでしょ」
クラスのみんながこちらを見ている。キョウコちゃんと宮本君だけが顔を伏せている。
「初めから返すつもりでしたけど」
ハルナちゃんが適当に本を放り投げ、机からすべって床に落ちる。拾うために床に手を伸ばす私を、ハルナちゃんが何もせずに見ている。先生が入ってくる。泣いていたのがばれないように涙をぬぐう。どうして私ばっかりこんな目に。こんな学校壊れちゃえばいいのに。
学校が終わって家に帰る。私の住む家は学校から見て浮川荘を抜けた先にある。だからこはいいけど、冬になると薄暗くて少し怖い。鍵を回して家に入る。
「おかえり、マキ」
リオンがパソコンをいじりながらリビングにいた。家でできる仕事らしい。
「ただいま」
私はただいま、と言うが、やはり急に知らない人が家族だなんて心の準備ができない。いつもならリビングにランドセルを放り投げてお菓子を食べているところだ。だけどリビングにはリオンがいる。いや、遠慮しても仕方がない。ここは私の家だもん。ランドセルを置いて(さすがに投げるのはやめた)お菓子入れに近づく。
「マキ、手を洗わないといけないよ」
「わかってる」
やっぱりうるさい。洗面所から戻ると、リオンがキッチンに立っている。
「今、紅茶を淹れているから少し待ってくれ」
リオンがシンクに体重を預けて、茶葉が踊るのを腕組みして眺めている。リオンがキッチンに入って抵抗がないわけじゃなかったけど、あまりに真剣に紅茶を淹れるのが少し間抜けで、許してあげることにした。お菓子入れからクッキーを取り出す。いつもは箱から食べちゃうけど、やっぱお皿に出した方がいいよね。リオンってそういうのうるさそうだもん。リオンの前を通りすぎてお皿を取る。
「ねえ、リオンって、紅茶好きなの」
「どうして?」
「いや、何かこだわりありそうかなって」
リオンが眉をひそめる。まずい。何か失言しただろうか。
「……実は味音痴でね、正直紅茶もコーヒーも違いが全然わからないんだ」
「へ?」
「インスタントとかフレーバーが違うとかならさすがにわかるんだが」
リオンが癌の報告でもするみたいに真剣に言うので、思わず笑ってしまった。私がお腹を抱えているのを見て、恥ずかしげに口を曲げると、ティーカップに紅茶を注いだ。
テレビをつけながらクッキーを食べる。昔のドラマの再放送だ。時代劇の侍が言い争いになると、時々無音になって口をパクパクさせた。そういう演出なんだろうか。変なの。
「マキは時代劇が好きなのか」
「いや、全然。今の時間って何もやってないから」
「別に無理矢理テレビをつけなくてもいいんじゃないか」
とリオンがティーカップに口をつけると、熱っと言って片目を閉じた。
「もう、ふーふーして飲まないと」
私はくすくす笑いながらクッキーをつまむ。リオンはまた恥ずかしそうにはにかんだ。
私はテレビをつけながら、リビングで宿題を始める。リオンもパソコンを広げて仕事に戻った。さっさと終わらせてマンガを描かないと。私はキョウコちゃんに誘われて、マンガを描く約束をしていた。だけどまだ何も描けていない。白紙の隅に鉛筆でぐるぐると線を書く。私が描きたいものはわかっている。怪物が町も学校もめちゃくちゃにしちゃう話だ。だけど怪物が暴れるだけじゃつまらない。ヒーローと戦わないと。怪物。侵略者。ヒーロー。私はちらりとリオンを見る。。
私は考えてみた。もしもリオンが怪物だったらって。それが侵略者なのかヒーローなのか、そういうのかわからないけど、リオンが家も学校も破壊しちゃうのだ。リオンは悪い人じゃなさそうだし、ちょっと申し訳ないなって思ったけど、けっこういいアイディアじゃないだろうか。そうだ、リオンが私のパートナーになって悪い怪物をやっつける。いいんじゃないか。妄想にしても都合がいい気がするけど、そうせ怪物なんて現実にいないんだ。好きに描いてしまおう。ノートに巨大ロボットの絵を描いてみる。かっこいい方がいいよね。白を基調に赤と青のラインをアクセントに。全身が武器になっていて、必殺技は、とその時、テレビでは悪い悪代官が主人公に切り殺されていた。そうだ、必殺技は剣で真っ二つ。かっこよさそうだ。私はリオンに見られないようにこっそりとにやつく。あとは私以外のキャラクター。どうしよう。私はいろいろ悩んでみる。だけどどれもマックスマカーブルのパクリみたいになってしまって、描いては消して、描いては消してを繰り返す。やっぱりパクリじゃだめだよね。今日はもう思いつかなかったから、明日考えよう。とっくに夕方になってしまって、リオンがキッチンで何かを作っていた。手伝おうか、と言ったけど、危ないから大丈夫だと答えた。子供扱いされてむっとしたが、ママも私に火を使っちゃだめって言うから、仕方がないことだとは思う。でもやっぱりむかつくから、リオンは私のマンガでうんとひどい目に合わせることに決めた。私がにやつくと、リオンがすぐに出来上がるから待ってるんだぞと言った。小気味よく野菜を刻む音が聞こえた。
次の日、私は休み時間も教室に残って私のマンガのキャラを考えていた。キョウコちゃんが私に近づく。
「あれ、ありっち外いかないの」
「うん。言われてたマンガのこと考えてた」
「え、本当に。見せ合いっこしようって言ったけど、全然何も思いついてないよ。絵の練習はしてるんだけど」
そう言って自由帳をパラパラめくってみせる。
「わー上手。かわいいー」
すごい。私よりも何倍も上手だ。キョウコちゃんは得意げな顔で描いた絵を指さす。
「これがマジクロのアンナね。フリルが大変だったんだけど、腰が上手く描けた感じ。下のがなかハラのキョンシー先生ね。あ、なかよしハラスメントって読んだことあった?そのキャラね。んでこっちはマクマカのネクロ」
「ネクロ上手っ」
「ふっふっふ。ほめても何も出ないぞよ」
「え、そんなに人気なんだ、マックスマカーブル」
同じく教室に残っていた宮本君が口を挟む。聞き耳立てていたのか。
「宮本君も読んでるの」
「まあね、ネットで有名なんだよ。すごくとんがった少女マンガだって」
「気持ち悪」
つい私は口走ってしまった。男子なのにがっつり少女マンガ読むなんて。
「ちょっと、ありっち。人の趣味を馬鹿にするのはよくないって」
「う、うん。ごめんね、宮本君。全然私気にしないから。いいと思うよ、そういうの」
「別にどうでもいいよ。まあ、事実だし」
そう言って宮本君はまた背を向けて読書に戻ってしまった。気まずい沈黙が流れる。
「そうだ、マンガってどういう話にするつもりなの。気になる」
「えっと、怪物が学校に出てきて、それと巨大ロボットが戦うの」
「何それ面白そう。怪物って何。どうして学校を襲うの」
「えっと、そこまでは考えてないんだけど、とにかく悪い怪物が来て、私とロボットのチームがやっつけるの」
「チームって」
「ロボットがね、話すの。で、みんなを守るために戦ってくれるの」
「めっちゃ面白そうじゃん。ストーリーとかキャラはもう思いついた?」
キョウコちゃんが鼻息を荒くして矢継ぎ早に質問する。こうして聞かれると自分が何も考えていなかったことがよくわかってしまう。すこしみじめというか申し訳ない気持ちになる。
「ストーリーは、マックスマカーブルを参考にしようかなって。やっぱり面白いもん。面白いものを参考にしたらもっと面白くなりそうじゃない」
「でもまだまだ最終回じゃないよ」
「そう。だからどうしようかなって、考え中。でも終わらないでほしいなぁ。マックスマカーブル」
「そう?早く続きがどうなるか知りたくない」
「それはそうだけど、でもさ、連載が終わっちゃったらもうおしまいじゃん。ネクロたちとも会えなくなっちゃうじゃん。そういうのってさみしいものだと思わない?」
「うーん。そうかも」
「僕はそうは思わない」
宮本君がこちらを向いて、ぱたんと本を閉じる。
「読み終わったら、もう一度読み直せばいいんだよ。読み終えたら終わりではない。ずいぶんと浅い感受性だね」
私は何も言えず、がつんとショックを受けたように口をあんぐり開けているとチャイムが鳴った。私はぼんやりとしたまま自分の席に戻る。宮本君はやっぱりまだ怒っていたんだ。あの怖くて冷たい目つき。声。次の休み時間にもう一度謝ろう。
でも、私がショックだったのは宮本君が怖かったことだけではない気がする。もう一度読み直す。終わりは終わりではない。私にはよくわからなかった。だって終わっちゃうかもしれないけど、本当は終わらない方がいいに決まってるじゃん。好きなものならなおさらだ。
次の休み時間にあらためて宮本君に謝った。気にしてないからもういいよ、と言ってくれたけど、やっぱり少しむっとしているようだった。マックスマカーブルの感想を聞いてみたい気がしたが、あまり今日は刺激しない方がよさそうだ。宮本君はいつも本を読んでいるから、マンガのアドバイスがもらえるかもしれないと思った。もしかしたら友達にだってなれるかもしれない。
私はそれ以来、リオンの観察に努めた。面白いマンガを描くためだ。今晩はリオンがミートパイを焼いてくれた。ママは相変わらず遅いから、ママの分だけよけといて二人だけの夕食だ。もっとも、それも慣れてしまった。いつもママと二人だったし、ママが遅い時は冷食をチンして一人で食べていたから。リオンはちょっとドジなところがあったけど、頭はいいし優しかった。宿題も見てくれたし、ニュースの海外のよくわからない情勢とかなんとかを解説してくれたりもした。厳しい人だと思っていたけど、ママが仕事で帰って来れない時は、こっそり夜更かしすることを許してくれた。内緒だからね、といたずらっぽい笑みを浮かべて、お菓子やジュースでパーティーしながら一緒にドラマや映画を見た。リオンは感性がちょっぴり変で、好きとか嫌いとかオーバーアクトでうにうにやっているドラマを見て泣いていた。そういうしょうもないものも見る一方で、私には難しくてよくわからない映画を見ることもあった。私が一回見ただけで意味わかるの、と聞くと、
「わからないことも多い。それが面白いし、それにもう一度見返せばいいんだ」
と言った。そういう映画は退屈で、私は何度もいつの間にかリオンの膝枕で寝てしまった。映画を見終わるとリオンが私の肩を叩いて名前を呼ぶ。起きていると、もう一度歯を磨くように言われてしまうから寝たふりを続けていると、リオンは私をお姫様抱っこしてベッドまで連れていき、布団をかけておやすみを言ってくれた。私はこの時間が好きだった。リオンは仲のいいお手伝いさんというか優しいお兄ちゃんみたいに受け止めていたけど、少しずつ新しいママみたいなものだと考えてもいいかな、と思うようになった。
「ごめん、仕事になっちゃった。二人で行って来て」
ピクニックの前日になって突然ママが言いだした。ママが久しぶりに休みをとれるって聞いていたからずっと楽しみにしていたのに。まだお弁当を作る前だったからよかったけど。リオンはそうか、と言うだけだった。リオンと行きたくないわけじゃないけど、ママと一緒に出掛けたかった。だからふてくされて当日の朝もだらだらしてしまう。
「マキ、朝ごはんできてるぞ。サアヤも仕事に行ったぞ」
そう言ってリオンが部屋をノックする。鍵を閉めた音が聞こえたからママがもう行っちゃったのは知っている。こんな日曜日なら雨でも降っちゃえと思ったけど、恨めしいくらいの快晴だった。
「うー。起こしてよ」
「起きてるじゃないか」
「腕引っ張って起こして」
一瞬間があって、部屋の扉が開く。目を閉じて両手をだらりと上に上げる。ゆっくりと足音が近づいてくる。あったかくてごつごつした手が私の手を掴む。
「仕方がないな」
私は片目を開ける。少し困ったような、喜んでいるような表情をしてリオンが布団もはがす。ママが悪いんだしこれくらい甘えてもいいよね。
「早くしないと冷めるぞ」
と言ってリオンが部屋から出ていく。私も後に続く。味噌汁の匂いがする。ダイニングまで行くとキッチンにご飯と味噌汁ができている。リオンがレトルトのミートボールをチンしている。なぜリオンは電子レンジが動くたびに真剣に見守っているのだろう。爆発するのかな。ママが食べた分はもう流しに食器が置かれていた。私はテレビをつけて椅子に座る。なんとなくアニメ番組を流す。リオンが自分と私の分の朝ごはんをテーブルに置いて斜め前に座る。私はちゃんといただきますを言ってから食べ始める。言わないとリオンがうるさいからね。
「早く準備しないと遊ぶ時間がなくなるぞ」
「はいはーい」
アニメでは男の子たちがカードゲームで戦っていた。ヒロインらしき女の子が謎の怪人との勝負に負けてしまい、悲鳴をあげながらカードの中に封印されてしまった。ゲームなんかで死んだり封印されたりするなんてかわいそうに。私だったら絶対そんなのやらないな。アニメは途中だったけど、食べ終わったので歯を磨く。顔を洗う。髪を結ぶ。隣で準備していたリオンが、私が顔を拭いたタオルを使わず新しいタオルを使って洗濯籠に入れた。別に気にしなくていいのに。
私が着替え終わった時には、もうリオンは水筒も準備してお弁当も車に積んでいた。私も早速後部座席に乗り込む。助手席は早く感じるから怖くて苦手だった。リオンがゆっくりと車を出す。ママと違って運転が丁寧で助かる。次からもママじゃなくてリオンに運転してほしい。怖いんだもん。
目当ての公園にたどり着くのは苦労した。大きい道路は混雑していてなかなか進まない。日曜日だし仕方がないかもしれない。車からはずっとクラシックが流れている。リオンの趣味だ。
「なんて曲?」
「シューマンの子供の情景の第十二曲、眠りに入る子供」
「そうなんだ」
全然知らないから会話が続かない。聞けば解説してくれるんだろうけど、興味もわかなかった。テレビ見せてくれたらいいのに。
二時間かけて到着した公園も人でいっぱいだった。私が滑り台の順番待ちをしている間、リオンがレジャーシートやお弁当の入った大きなリュックサックを背負ってじっとこちらを見ている。アスレチックによじ登ったりしたけど、人が多すぎてうまく動けないから少しいやになってしまった。それにリオンはいるけど一人だし。
「ねえ、まだ早いけどお昼にしようよ」
「なんだ、もうお腹空いたのか」
「ばれちゃった?」
お腹が空いていたのは本当だったけど、本当は公園があまり面白くなかったからだ。だけどリオンに気を遣わせたくないから楽しそうにやってみせる。
芝生の上も人は多かったけど、流石にレジャーシートを広げるだけのスペースは確保できた。リオンがお弁当のサンドイッチをリュックから取り出す、前に私にウェットティッシュを渡す。わかってるってば、もう。
今日二回目のいただきますを二人で言う。
「おいしいー」
これも本当ではあったが、少し大げさに言ってみる。
「そうか、よかった」
と言ってリオンも食べだす。
「ねえ」
「何だ?」
「楽しい?」
「勿論」
「私も」
リオンにこう聞けばこう返事するだろうことはわかっていた。ずるい気がしたがこれくらいいいだろう。リオンの口の端についたマヨネーズをウェットティッシュで拭ってあげると、恥ずかしそうにごしごしと口をこすった。
お昼を食べ終わってボートに乗る。
「あのボート抜かして」
「仕方がないな」
リオンはにやっと笑うと全力でボートを漕ぎ始める。ぐんぐんスピードが上がっていくのと同時にリオンが歯を食いしばって息を切らして苦しむからゲラゲラ笑ってしまった。私が喜んだのを見て、リオンも満足そうだ。三隻のボートを抜かしたところで限界を迎え、リオンが肩を上下させて休憩する。汗で前髪が張り付いている。こめかみから流れた汗がゆっくりと頬を伝い、顎から雫が落ちた時、私も頬に水滴を感じる。私は手のひらを広げてみる。目に見えないが、たまにぽつぽつと雨が降っているのを感じた。薄曇りくらいなのに。リオンも空を見上げる。
「一度戻ろうか」
そう言ってまたボートが動き始めた。
私たちはびしょぬれになりながら車に戻った。天気予報じゃ晴れだったのに。車内に逃げ込み、あーあ、と二人でくすくす笑う。リオンがリュックからタオルを取り出して渡した。
「今日はもう帰ろっか」
「すまない、マキ。まさかこんな土砂降りになるとは」
「いーの。天気ってどうしようもないし、十分楽しかったし。それにまた来ればいいんだから」
「それもそうだな」
リオンも頭を拭くと、車を出した。またクラシック音楽が流れだす。帰り道は比較的空いていた。心地よい車の振動で少しずつ眠たくなってくる。バックミラーごしにリオンが私を見て目を細めた気がした。意識が遠のいていく。それなりに楽しかったし、また来てあげてもいいかもしれない。なんならママ抜きで二人でもいいくらいだ。でもやっぱり次はママも一緒がいい。あんなに必死な顔でボートを漕ぐ面白い顔のリオンが見られたのに、仕事なんてかわいそうなママ。音楽とワイパーの周期的な動きでどんどん私の意識がぼやけてくる。夢と想像と記憶と現実があいまいになっていく。車の屋根に当たる雨音。私の体がふわふわしてくる。
そしてその瞬間、車が激しく揺れた。
⒉ しょんぼりさまー
私はネクロコメットに乗って学校も家もぶっ壊した。
⒊ ちりぢりおーたむ
私は中学生になった。今はとっても幸せだ。
⒈ ぐったりすぷりんぐ
まずいし、一人だし、私は泣かないつもりだったけど我慢できなかった。つーっと流れた涙がかじりついていたパサパサのパンについてしまって、ますます食欲が失せた。どうして倉科先生は、全部食べ終わらないと帰っちゃだめなんていじわるを言うんだろう。いつもは優しいし、楽しいし、この前なんて算数と総合の時間を潰して映画も見せてくれたのに。
校庭で(たぶん)野球部が必死に番号を叫んでいる。野球部の人たちはうるさいから嫌いだった。べちゃべちゃで冷め切った野菜のあんかけをお箸でかき混ぜてみる。これを牛乳で流し込まないといけないなんて、考えるだけで吐き気がした。しかもお腹いっぱいになってきちゃったし、先生はどっか行っちゃうし、みんな私のことを笑うだけ笑ってすぐ帰っちゃうし。ついに声を上げて泣いてしまった。聞かれたらどうしよう、恥ずかしいと思うたびにもっと止まらなくなった。
待っていても誰も来ない。
⒉ しょんぼりさまー
私は幸せな小学校生活を送った。
⒊ ちりぢりおーたむ
私は中学生になった。とても幸せだ。
制服で歩いていると未だにじろじろと見られる。それは私の身長が小学生の頃のから止まっているからだ。校門を抜け、教室に入り高すぎる椅子に足をぶらぶらさせながら座る。今日は英語の小テストがある日だ。私はカバンから単語帳を取り出す。教室の隅で赤坂たちが騒いでいる。どうやら女性器の形状について大いに興味があるらしい。発達段階に沿った関心をお持ちのようで実にほほえましい。私の近くでは馬場が俺ばかり頼りにされてしまって辛い、部長をやるのは大変だ、好きな人は有能な人だ、などと愚痴風の自慢話をしている。その横の女はアイドルグループについて飽きもせず同じ話題を繰り返している。うるさい。全員うるさい。ガキどもが。私は単語帳に集中する。誰の声も聴きたくなかった。幸い私に話しかける人は誰もいない。
私たちと違って三倉は普通に身長が伸びた。私も神田も宮本もアクセプターがネクロコメットに破壊されてから一切変わらなかったのに。三倉は一年生の頃から野球部のレギュラーに選ばれていたが、噂では部室でタバコ吸って退部になったらしい。あんなに背を伸ばしておきながらタバコ程度で大人ぶるなんていじらしいやつだ。三倉は小学生の頃何度か遊んだ記憶があるが、同じ中学校になっても数回挨拶したことしかない。宮本や神田ともそうだ。神田は五年生の時にまた同じクラスになっていたが、その頃にはお互いに別のグループに属していた。宮本は何度か同じクラスになって、今も同じクラスだが話していない。というより、宮本が誰かと話すところをほとんど見たことがない。
「あの、有野さん。えっとその強制ってわけじゃないんだけど、藤原先生が、ほら、産休でしょ。それで、クラスのみんなで寄せ書きしようってことになって。いや、本当に無理矢理じゃなくてよかったらなんだけど、お願いできたりしないかな」
休み時間、一人で本を読んでいるとクラスの女が二人組で話しかけてきた。ここまで露骨に腫物扱いされると少し笑ってしまう。
「いいよ」
私はなるべく笑顔で答えてあげる。二人のこわばった表情が緩む。
「本当に。ありがとう。助かった。それであの、ついでって言ったらあれだけど」
「ちょっとやめなよ。有野さん困ってるでしょ」
「あの、有野さんって宮本君と仲良かったりしない」
「だから、やめなよ。ごめんね有野さん。邪魔しちゃって」
「宮本がなに」
「それ書き終わったら、宮本にも書くようお願いしてほしいんだ。お願い」
「いいよ」
「だよねって、え、いいの」
二人が目を丸くして驚いている。いちいち大げさげで癇に障る。
「ありがとう。有野さん超神。だから言ったじゃん、有野さん大丈夫だって」
「うるさいなあ。有野さん、本当にごめんね。もーこいつうざいでしょ」
「うざいとはなんだよ失礼なやつだなー」
「あーはいはい。かわいいかわいい。じゃあ、有野さん、ありがとう。よろしくね」
二人が私から逃げるように立ち去る。藤原先生というのがどの先生なのか思い出せなかったが、当たり障りのない言葉を書き連ねる。他の人の寄せ書きも同じようなものだ。頑張ってください。体に気をつけてください。おめでとうございます。私にはどうでもいい。ふと、昔好きだったサーヤを思い出した。ドラッグとプロデューサーとの不倫と中絶が発覚して引退してしまったアイドル。当時はそれなりにショックだったはずだが、今ではスキャンダルのフルコースぶりに笑ってしまうだけだ。ネットのバッシングも今ではほとんどない。むしろバッシングなどなかったと言いだす人まで出てきたくらいだ。馬鹿馬鹿しい。
授業が終わって、帰り支度をしている宮本に近づく。
「これ、藤原先生の寄せ書き。産休らしいから書いてよ」
「藤原先生って誰だっけ」
「えー、産休の人だから女」
私たちは顔を見合わせるとくすくす笑った。
「了解。やっておくよ。お互い大変だね」
「お互いひどいの間違いでしょ」
久しぶりに会話したはずなのにそんな気がしない。宮本も椅子が高すぎて足をぶらぶらさせている。
「……ファルザリオンの声、聞こえた?」
「アクセプターなんてとっくに燃えないゴミに出したよ」
「そう」
沈黙。私は耐えきれずに、じゃ、と言うとカバンを持って教室から出ていく。本当はアクセプターはまだ机の引き出しに入っている。だけど一度も反応を示したことはない。わかっている。あの時ファルザリオンは死んだのだ。もうすべては終わって、私はもう三年三組の子供じゃない。
私は学校から出て、すぐに駄菓子屋に向かった。家には帰りたくなかったし、とにかく一人になりたかった。駄菓子屋は相変わらず人がいない。真夏や真冬以外はそこのベンチでぼんやりすることが多い。が、今日は先客がいた。身長は私と同じくらいだろうか。小学生らしき少女が棒アイスを吸っている。足音に気が付いた少女がぱっとこちらを見る。
「……ネクロ?」
「え?」
「あ、あ、その、ごめんなさい。知ってる……マンガのキャラに似てるなって」
少女はあたふたと手を振って釈明する。私はくすりと笑う。
「それってマックスマカーブル?」
「あ、そ、そう。そうで、す」
少女の顔は困惑していたが、その声色は嬉し気だった。それにしてもマックスマカーブルとは懐かしい。昔、盗作疑惑で打ち切られてしまってからすっかり忘れていた。
「好きなんだ、そのマンガ」
私はアイスの冷凍庫を物色しながら横目で話しかける。
「う、うん。かわいいしかっこいいし」
「どこまで読んだ?」
「えっと、ネクロが世界を終わらせようとして、でもネクロは酔っぱらっちゃって、みんな生きているのか死後の世界にいるのかわからなくなっちゃうところ」
「懐かしいなぁ。流行ってたもん、世界の終わり」
「え、ネク、お姉さんのクラスも流行ってたんですか。世界の終わりの噂」
「私のことはネクロでいいよ。もっとも女子だけど」
私は片眉をあげて微笑むが、少女はまだ萎縮しているようだ。まあ、五歳近く年上であろう人に急に話しかけられたら誰だってそうか。
「小学生はみんな好きだよそういう話。私も好きだったもん。学校も家も壊れちゃえばいいのにって」
「わかるかも。私も嘘だって、知ってるけど、やっぱりめちゃくちゃになって、でも別にクラスの人もリオンも死んでほしいわけじゃなくて」
「リオン?」
「あ、その、ごめんなさい。リオンって新しいパパで、悪い人じゃないし、だけどやっぱり家に帰りたくないなって」
「お互い大変だね」
私はアイスを買うと少女の横に座る。
「そういえばどうしてここを知ったの。この辺、団地からも学校からも遠いのに」
「それは、図書館の帰りに偶然見つけて。通り道なの」
「そうなんだ」
ちらと見ると近くに自転車が留めてある。それは昔の私の自転車に似ている気がした。
「マックスマカーブルのオチって知ってる?」
「あー言わないで」
少女が耳をふさいで叫ぶ。
「もう少しで読み終わりそうなの。でも、読み終わっちゃったら全部終わっちゃう気がして」
「終わっちゃう?」
「だってそうでしょ、ネクロたちのこと好きなのに、終わったらいなくなっちゃう気がして。怖いの」
「そんなの簡単だよ」
少女がまっすぐに私を見つめる。期待と不安の入り混じった口元。
「もう一度読み直せばいいんだよ。初めから。そしたら帰ってくる」
「帰るって何が」
「私たちが」
馬鹿馬鹿しくていやになった。マックスマカーブルの話ができるミステリアスな年上のお姉さんだなんて。キョウコちゃんに誘われてマンガを描くことにしたけど、さっぱり描けない。特にリオンなんて、真面目だけどちょっぴり天然で優しくて賢くて頭を撫でてくれるお腹つるつるでムキムキの義理のパパ。恥ずかしすぎる。しかもそれ、ネクロのパクリだし。
さっさと給食を食べ終えて、自由帳にいろいろ描いてみる。同じ班の子たちは何かおしゃべりしているが興味ない。でも近くで赤坂君たちの班がずっとゲームをして騒いでいる。
「クジラ。サンハイっ」
「らっきょう。サンハイっ」
「浮き輪。サンハイっ」
うるさいなぁ。だけどそんなこと気にしてられない。早くこのマンガを完成させないと。
「ポンプ。サンハイっ」
「ぷ、ぷっちゅ……」
「罰ゲーム」
大声で赤坂君が叫んで、牛乳を山本君にぶっかけた。山本君の机ががたっと動く。
「熱っ」
と山本君が驚いて、たぶん手に味噌汁がかかったんだと思う、手を振り上げると山本君の生姜焼きが吹き飛び、エリちゃんに直撃した。胸元がべちゃべちゃになったエリちゃんが、
「何すんだよ」
と怒って席を立つ。エリちゃんグループのみんなも山本君を睨みつける。
「ご、ごめ」
と山本君が近寄ると、
「謝りなさいよこのデブ」
エリちゃんが山本君を突き飛ばす。他の子もそうだ、謝れ、と言い出すと同時に、山本君がバランスを崩し、給食の配膳机に頭を思い切りぶつけてうずくまり、その上に余っていた熱々の味噌汁が降り注いだ。山本君の悲鳴で教室が沈まる。
「お前が悪いんだよ。これでおあい」
とエリちゃんが言う前に山本君がクラウチングスタートみたいにエリちゃんに飛び掛かった。エリちゃんも倒れてもつれ、洋服が味噌汁まみれになる。山本君がビービー泣きながらエリちゃんの髪の毛を引っ張る。ぐわんぐわんとエリちゃんは振り回されて、泣きながらポカポカと山本君を殴りだした。
「あーあ泣いちゃった」
と赤坂君がからかうと、だいたいあんたのせいでしょ、いつもうるさいんだよ、臭いし、キモイし、食べ物を粗末にするな、謝れ、謝れ、謝れ、とエリちゃんグループの子たちが取り囲んでキックしだした。
「こら、全員やめなさい」
と先生は言うが、泣きながらうずくまって女子にリンチされている赤坂君と味噌汁と生姜焼きと牛乳で汚れながら取っ組み合うエリちゃんと山本君を指さして、ハルナちゃんとマリカちゃんが肩を組んでげひゃひゃひゃと笑った。馬場君が机をバンっと叩いて叫ぶ。
「みなさん静かにしてください」
机を叩いた衝撃で牛乳瓶がくるくると揺れ、床に落ちて砕け散る。それからはめちゃくちゃだった。あー先生、馬場君が瓶割りました。いけないんだ。山本君が唸り声をあげて配膳用のご飯の容器を投げつける。エリちゃんにぶつかり、よろけて加藤君と衝突する。なんだよ汚いな、やめろや。エリちゃんが加藤君の味噌汁を加藤君にぶっかける。このころには先生の声なんて誰も聞いていない。食器が飛び交う。ゲロを吐く。泣く。叫ぶ。笑う(主に二名)。殴り、引っ張り、服をちぎる。喚く。煽る。逃げる。悲鳴。怒声。宮本君は頬杖をついてあくびをしながらページをめくっている。私も無視する。こんなの現実じゃない。嘘なんだ。だから私には関係ない。
校内放送があと五分で給食の時間が終わることを伝える。そして教室が揺れる。
ネクロコメットの大鎌が、私の胸に突き刺さる。
アクセプターがひび割れていく。私は叫ぶ。私はどうしたらよかったんだろう。ファルザリオンは何のために生まれてきたんだろう。こうしてネクロコメットに倒されるため?私は叫ぶ。私には何もできない。
読み終わったら、もう一度読み直せばいいんだよ。読み終えたら終わりではない。
⒈ ぐったりすぷりんぐ
まずいし、一人だし、私は泣かないつもりだったけど我慢できなかった。
「もういいんだ、マキ」
ファルザリオンの声がする。
「君には、私には使命がある。みんなを守ってほしい」
これは私の声だ。私の声にパンを投げつける。
「どうして、どうして私なんだよ。私はどうしたらいい」
「マキ、ありがとう。私のために、私を守ってくれて。でもいいんだ」
「ファルザリオンのためなんかじゃない。私のためだよ。だってこの世界は侵略されてるんだよ。戦わないといけないんだ」
「すまない。地球の子供たち」
「うるさい」
私は椅子を窓に叩きつける。ガラスが割れて椅子が落ちていく。まるで青空にヒビが入ったような。
「私にはわかるの。ネクロコメットの言う通りだった。上なんて、現実なんてどこにもない。ファルザリオンも嘘なの。嘘に私たちの世界が侵略されている。全部私の妄想なの」
「ならどうして泣くんだ」
私が泣いている?口の端に水滴がつく。痛くも苦しくもないのに。
「マキは私のことを、マキの現実に入り込んだ侵略者だって言うかもしれない。それでもいいんだ。私はマキがどれだけ私のために傷つき、戦ってきたか知っている。私はマキを助けたかった。マキも私を助けてくれた。それでいいんだ」
「いいわけないだろ」
私は泣きながら怒鳴りつける。何が悲しいのか、何に怒っているのか自分でもわからない。
私の肩に貼っていた絆創膏がはがれる。
「何をすればいい。どうしたらファルザリオンは幸せだったの。私にはわからない」
「私は君たちを受け入れるためのスペースを持って生まれてきた。それだけで私には十分だ」
「そんなの絶対に認めない」
「すまない。地球の子供たち。私たちは侵略されている。だから戦わなくてはならない」
「黙れって言ってるんだよ」
その時、教室が揺れる。
「有野マキ。出てきなさい」
黒い巨人。ネクロコメットが校庭にクレーターを作り着地する。嘘だ。嘘。こんなの認めない。全部私の妄想なんだ。私が私を苦しめて喜んでいるんだ。
「マキ、最後にもう一つだけ、私の願いを聞いてくれ。この学校を、町を、世界を一緒に守ってくれ」
「どうして。全部嘘なのに」
「誰かが目の前で苦しもうとしている。もしも私にそんな現実と戦う力があるなら、あきらめたくない。頼む、マキ」
⒉ しょんぼりさまー
「メルティングフェーズ」
私はアクセプターにメダルをはめ込み叫ぶ。大声を出しすぎて喉が痛い。私の体が光になっていく。少しずつ景色が溶けていく。そして何も見えなくなった。
⒊ ちりぢりおーたむ
「遅いわよっ。マキののろまっ。さっさとこいつぶっ倒すよ」
「うん。ハルナちゃん、宮本君、ファルザリオン」
私は何のために戦うんだろう。このネクロコメットを倒してどうなるんだろう。ネクロコメットは何のために私たちと戦うんだろう。ネクロコメットが大鎌を構えて走り寄る。
「ファルソード」
大鎌とファルソードが何度も衝突する。
「答えて、ネクロコメット。どうして私たちが戦うの」
「私の現実が侵略されてるからじゃん」
ネクロコメットが足払いを仕掛ける。私は体勢を崩してしまい、その隙を突いて大鎌の柄が私の肩にぶつける。
「ファルレーザー」
とっさに肘からファルレーザーを放つが当たらない。ネクロコメットが腕を取り、そのまま投げ飛ばすようにして地面に押し伏される。
「私もずっと思ってた。こんな風に戦ったりしないで、普通の小学生だったらって。本当の私は今も病院で眠っていて、これは悪い夢なんじゃないかって。でも違うじゃん。痛いじゃん。全部現実じゃん。だからそんなの認めない。全部嘘なの。帰らないといけない。だから頼むから消えてよ。ファルザリオン」
「ファルサンダー」
周囲一帯をバチバチと光らせる。しかし、叫んだ時にはネクロコメットはすでに飛びのいていた。急いで起き上がる。
そして、ネクロコメットの大鎌が、私の胸に突き刺さる。
「今だっ」
ファルザリオンが叫ぶ。
「コラプスフェーズ」
アクセプターに黒いメダルをはめ込み、私が、ハルナちゃんが、宮本君が叫ぶ。
「何、何なの」
ネクロコメットの動きが止まり、手が、足がもがれていく。私もそうだ。頭が落ち、胸は分解し、膝が逆に曲がる。私が壊れていく。ネクロコメットがファルザリオンに、ファルザリオンがネクロコメットに埋め込まれていく。私とそうでないものの区別があいまいになって、すべてが私になっていく。私が溶けていく。痛みもなくつぎはぎされていく私は、すべてが嘘のように感じた。私は思い出す。私の夢を。私の現実を。私も來野ナナと同じだ。もしかしたら、私が、ファルザリオンが戦わない世界があるんじゃないかって。そっちの方が本当で、今の私は出来の悪いフィクションなんじゃないかって。そんなの確かめようがない。でも私には私の痛みは私のものだと感じられた。きっとその先には何もないんだ。私の体がなくなっていく。そしてすべてが私になった時、叫んだ。
「合体!ネクロファルザリオン」
「こ、これは一体」
來野ナナが動揺している。
「残念だったわね。これでもう戦えないわ」
「來野ナナ、君の妄想は勝手だけど、それに付き合うことはできない」
「じゃあ、どうしたらいいのか教えてよ。ネクロコメットは、私は何のためにあるの。なぜ苦しまないといけないの。助けてよ」
「私だってわからないよ」
私は力の限り叫ぶ。さっき貫かれた胸が激しく痛むのも気にしない。
「これしかなかったんだよ。私たちには。意味なんてないんだよ。そういうものってだけでしょ。私たちだってそうなんだよ」
「ナナ、君は」
「もういい。下して。痛い。痛いよ。何で私が」
來野ナナが泣き叫ぶ。ネクロファルザリオンを床に寝ころばせ、ファルザリオンから這い出る。ネクロコメットの胸だった部分に近づくとゆっくり開いた。中に泣いている一人の女の子がいた。極彩色のぎらぎらした服にサンダルを履いているどこにでもいるような小学生。
「帰ろうよ。一緒に」
私は手を差し伸べる。來野ナナもゆっくりと手を伸ばす。太陽に照らされてアクセプターがきらめく。
そして私は中学生になった。この前入学したと思ったら、もう受験生だ。
「おはよー」
キョウコちゃんが単語帳を眺める私に抱き着いてくる。
「おはよう。もう、朝から元気なんだから」
「だって、面白かったもん。あんたの小説」
「って読んだの」
私の頬が赤くなる。キョウコちゃんがぐりぐりと私の頭を撫でる。
「ありっちが読まさせたんでしょ。というか私が読まささせてって言ったんだけど」
「でも」
「小三であれ書いたのすごいと思うよ」
「別に引き出しに入れっぱなしだっただけで」
「ああ、私もマキはすごいと思う」
アクセプターがピカピカ光る。
「もう、ファルザリオンもうるさい」
「ところで、リオンって、やっぱりそういうのが趣味系?義理のパパとはインモラルですな」
「インモラルとは何だ」
「もーう、うるさいってば」
私は真っ赤になってキョウコちゃんを振り払う。
「あんたらほんとうるさいわね」
ハルナちゃんが呆れたように目を細めて鼻から息を漏らす。
「いや、あれは読んだ方がいいよ。ありっち渾身の」
「わー聞こえない聞こえない」
私が叫ぶとチャイムが鳴る。ハルナちゃんは本当に馬鹿ね、と言って席に戻る。どうしよう。全然勉強できなかったよ。今日小テストなのに。教室の扉がガラガラと開いて先生が入ってくる。そしてもう一人。知らない女の子。
「えー今日の連絡だが、クラスに一人増えることになった。じゃあ、とりあえず自己紹介を」
女の子は小さく、はいと言うとチョークを取って名前を書きだす。なんだろう。私はこの声を知っているような。
來、野、ナ、ナ、と大きく黒板に書きだされる。思わず私は大声をあげてしまう。クラスの視線が私に集まる。少女もきょとんとしていたが、私の腕につけられたアクセプターを発見し、目を見開く。私は立ち上がる。
「有野、マキ……ファルザリオン……」
「そう、そうだよ。有野マキだよ。ファルザリオンだよ」
あー、有野、と先生が咳払いをする。私は興奮を抑えて席に座る。クラスの人がざわざわしだしたけどもう気にならない。
「來野ナナです。父の仕事の都合で急に転校することになりました。卒業までの短い間ですがよろしくお願いします」
ナナちゃんが私を見て笑みを浮かべた後、お辞儀をする。拍手が巻き起こる。
私の知り合いだから隣の席で、ってことはなく、ナナちゃんは一番後ろに付け足された机に座る。いつの間に運ばれていたんだろう。気が付かなかった。
「久しぶり、だね。來野ナナちゃん」
「久しぶり。有野マキ。ファルザリオン」
私は休み時間になってすぐナナちゃんに話しかける。
「本当に仕事の都合?」
ハルナちゃんが高圧的に話しかける。ハルナちゃんは背が高いから威圧すると迫力がある。宮本君も珍しく本を読むのをやめて、ナナちゃんの机に近づく。
「本当よ。もう襲うつもりなんてないから」
「信じていいのか」
ファルザリオンが尋ねる。
「今、そうして話しているのが証拠でしょ。本気だったら、シャーペンを突き刺したりネクロコメットで学校壊してるから」
「私は信じるよ」
ナナちゃんとハルナちゃんが驚く。
「どういう心変わりなのか聞いてもいいかな」
宮本君が聞くと、ナナちゃんがゆっくりとため息を吐く。
「私もいつまでも小学三年生の子供じゃないってこと」
私たち三人は顔を見合わせる。私はナナちゃんに手を差し伸べる。
「これからよろしくね。ナナちゃん」
「こちらこそ。よろしく」
ナナちゃんが私の手を取る。私たちはもう小学三年生じゃない。変わってしまった。だけどそんなに悪いことじゃない。こうしてナナちゃんと会うことができた。中学三年生もまだ終わっていない。これからナナちゃんと仲良くなれるかはわからない。だけど、私たちはこれから始まるんだ。私はこの先の未来がもっといいものになると信じている。
そう。きっとこれでよかったんだ。そうだよね。ファルザリオン。
「ちょっとパパ。早く起きないと」
マキが布団を引きはがしベッドに飛び乗る。そうだ、今日はピクニックに行く約束だった。目をこすりながらカーテンを開ける。面倒だったから雨が降っていてくれたらと思ったが、恨めしいくらいに快晴だ。体をよじって伸びをする。
「うーん。じゃあ、朝ごはん作るか」
「もうやった。もう、遅いんだから」
寝室から出ると焼けたパンの匂いがした。先に階段を下りて行ったマキを追うようにリビングに入る。コーヒーとクロワッサンとサラダが用意されていた。準備万端というわけだ。
「ありがとう、マキ」
と言ってマキの頭を撫でまわす。マキはうっとうしいと言って私のお腹を叩くと食卓に座る。
「早く食べちゃって、早く行こうよ」
私は苦笑しながら席に座る。最近コーヒー豆を変えてみたのだが、正直違いがわからない。我ながら馬鹿舌で泣けてくる。
「……コーヒーっておいしいの」
マキが身を乗り出してコーヒーカップを見つめている。コーヒーカップを差し出すとマキは両手で受け取っておずおずと一口飲む。
「うええー何これ、苦っ。まずっ。こんなのがおいしいの」
「子供には早かったかな」
そう言って私が笑うとマキが頬を膨らませて私の脛を蹴った。
「こら、暴力をふるってはだめだと言っているだろ。もう連れていかないぞ」
「だーごめんなさいー」
そう言ってマキがコーヒーをごくごくと飲み干す。罰のつもりだろうが。ちゃんと怒らないといけないが、つい笑ってしまう。
食べ終えて食器を流しに置いた頃には、マキはもう着替えていた。水筒も先に準備してしまってテレビを見ている。私も早く着替えないと。歯を磨いて顔を洗い、髪をとかして髭を剃る。
弁当やレジャーシートを詰め込んで車を出す。マキは機嫌よさそうにずっと話続けている。
目当ての公園には一時間もせずに到着した。休日だから道路も公園ももっと混雑していると思っていたから意外だ。一通りアスレチックをめぐる。マキは楽しそうに駆け回り、よじ登る。
「そろそろお昼にしようか」
芝生の上にレジャーシートを広げる。マキにウェットティッシュで手を拭かせ、昨日作っておいたサンドイッチを取り出す。あまり料理上手ではないが、サンドイッチには自信がある。と言ってもほとんど挟むだけだが。
「おいしい?」
「うん、おいしいよパパ」
「よかった」
「ねえパパ」
「何かな」
「これがファルザリオンの幸せ?」
「そうだよ」
嘘だ。
ネクロコメットの大鎌が私の胸に突き刺さる。
義理の娘がどうにもなついてくれないので、私はどうしたものかと考えていた。娘(と言っても戸籍上はまだ他人だ)の名前はマキ。
だからさぁ、そういうのもうやめようよ。
ネクロコメットの大鎌が私の胸に突き刺さる。
壊れていく。溶けていく。私の体が。感覚が。ファルザリオンとネクロコメットがバラバラになって一つになっていく。私の現実がなくなっていく。違う。私の現実は初めからここにしかなかった。私が私じゃなくなっていく。だけどどこまで行っても自分しかいない。痛い。胸に突き刺さった痛み。アクセプターにヒビが入っていく。いやだ。痛い。いやだ。
「合体!ネクロファルザリオン」
私たちは叫ぶ。アクセプターが壊れていく。まるで役目を果たしたように。ネクロファルザリオンが少しずつ光となって溶けていく。私は叫ぶ。誰の声も聞こえない。私が何を言っているのかもわからない。私を支えるものがなくなってゆっくりと地面に落ちていく。高い。怖い。みんなも光に包まれて落ちていく。ハルナちゃんが、宮本君が、そしてナナちゃんが。
地面に落ち切って光が薄れていき、アクセプターも光の粒となって消える。
そこにはもう何も残っていなかった。來野ナナがこちらを見つめている。その顔からは何の感情を読み取れなかった。私は泣くことも叫ぶこともせず、その場に立ち尽くしていた。
⒋ わくわくうぃんたー
三学期になった。アクセプターが消えてから、ファルザリオンは声も姿も見せない。そしてファルザリオンが消えてから怪物は一度も出なかった。
「それにしても上にいるって実感が全然ないわね」
給食中、おもむろにハルナちゃんが口を開いた。私たちはあれからも机をくっつけて給食を食べていた。先生は自由席は終わらせようとしたけど、クラスの大半の反対を受けてしぶしぶ、騒ぎを起こしたらやめにするという約束で続けられた。それ以来、みんな落ち着いて給食を食べている。赤坂君が騒ごうとするとまわりが一斉ににらみだすから少しかわいそうだ。
「まあ、でもそんなものかもね。ぱっと見、わからなくても変化していることってよくあるよ」
アクセプターが壊れてから、私たちの身長はまた伸び始めた。実質、成長が止まったのは一学期の途中からと夏休みの間だけだ。ハルナちゃんは身長が高い方だったから差がわかりやすいけど、宮本君と私は小さい方だからあまり気にならない。
「目に見えないけど変わっているものねぇ」
「チン毛」
赤坂君が大声で叫んで周りの男子がひっぱたく。またしりとりゲームをしていたらしい。
「こういうのはどう。実はネクロコメットとの闘いでみんな死んでいるの。上とは死後の世界のことだったのだ」
「來野ナナの創造主説の方がまともじゃないか」
ハルナちゃんと宮本君が笑う。だけど私には笑う気分になれない。
「でも、そういうの私いやだよ。私たちが上に行くためにファルザリオンが生まれて死んだなんて馬鹿みたいじゃん」
二人は何も言わない。私もこれ以上何も言わずご飯をかきこむ。喉の奥にご飯粒が引っかかってゴホゴホとむせる。
学校が終わって家に帰る。私の住む浮川荘の三棟は学校から見て一番奥にある。だからこの季節は暗くて少し怖い。鍵を回して家に入る。電気をつけて、お菓子を食べる、前に手を洗う。テレビをつけて宿題を出す。昔のドラマの再放送だ。時代劇には興味ないけど、今はどうせ何もやっていない。国語のプリントの穴を埋めながら流し見する。時代劇の侍が言い争いになると、時々無音になって口をパクパクさせた。そういう演出なんだろうか。変なの。
さっさと宿題を終わらせて、チョコレート菓子をつまみながら、ノートを広げる。私は誰にも内緒だけど、小説を書こうとしていた。だけどまだ何も書けていない。白紙の隅に鉛筆でぐるぐると線を書く。私が書きたいものはわかっている。ファルザリオンのことだ。私はファルザリオンがいたことを忘れたくなかった。これは正確ではないかもしれない。私はファルザリオンが誰かのために生まれて、誰かのために死んだのだと考えたくはなかった。
私は考えてみた。もしもファルザリオンが普通の人間だったらって。それが家族なのか友達なのか先生なのか、そういうのかわからないけど、ファルザリオンが幸せになれるような。しかし私は頭を振ってその考えを捨てる。ファルザリオンが人間だったらと思うのは、ファルザリオンを全否定するのと同じじゃないか。ファルザリオンが私のパパ?そんなのファルザリオンの幸せでも何でもない。私に都合がいいだけの妄想だ。雫が垂れて、白いノートに染みを作る。声は出さない。だけど涙が止まらなかった。ファルザリオンはもういないんだ。すべてはもう終わったことなのだ。私はファルザリオンが意味があったとも無意味だったとも思いたくない。ただファルザリオンともう一度会いたかった。
「だからさ、あげっちゃたよ。プロヴィデンスカイザー」
久しぶりに三倉君と宮本君とハルナちゃんと私の四人で遊んだ。今日も三倉君の家。ハルナちゃんがえーっと叫ぶ。
「あんた馬鹿じゃいの。何やってのよ。マジありえないし。それでまた侵略されたらどうすんのよ」
「だってさ、シュミラク星人が侵略してたのってプロヴィデンスカイザーをコピーするためだったんだぜ。じゃああげちゃえば丸く収まるじゃん」
「それ言ったのって、シュミラク星人の大統領なんだよね。信用できるの」
「大丈夫。だってほら」
三倉君が押し入れからエナメルバッグを取り出してファスナーを開ける。中にはぎっしりと札束が入っていた。それも世界中のいろんな種類のお金だ。
「な、なによこれ」
「大統領がお詫びとお礼になにかさせてくれって言うからさ、不老不死は無理って言われたからお金って言ったらくれた」
「ありえないっての」
宮本君がじろじろと札束を見る。
「せっかく合体したよしみだし、何枚かあげようか」
「……これ、偽札じゃないか」
「え?」
「番号が全部同じになってるよ、これ」
私も何枚か取り出して確認してみる。
「あ、本当だ」
ハルナちゃんがお腹をよじり、床をバンバン叩いて笑い転げる。
「ぎゃはははは、世界を守って偽札つかまされてやんの。かわいそーげひょひょひょひょ」
「どうしよう、何枚かもう使っちゃったよ」
「燃やしちゃえ」
「やだ、勲章にするんだ、これは」
「何枚か使ったのに?」
三人が一緒になって笑う。
「シュミラク星人がだましたってこと」
私は不安げに尋ねる。もしまた侵略してきたら。それにプロヴィデンスカイザーを使って。そう考えると笑う気にはならない。
「大丈夫じゃね」
三倉君はあっけらかんと答える。
「なんかあいつら、全然話が通じないっていうか、価値観が違うって感じだったんだよ。だから町を壊したらいやだよ、って言ったらそうなんだ、って納得したし、偽札もふつーにマジでお礼のつもりだったと思うね」
「能天気だな」
さすがのハルナちゃんも呆れている。
「まあ、侵略してきたら他の三年三組か次の三年三組がなんとかするでしょ」
「それが能天気だってのよ」
ハルナちゃんががさっと札束を掴んで三倉君にハリセンみたいにビンタする。面白がって三倉君も私に札束でビンタしてきたので、私もつい流れで宮本君を札束ビンタしてしまう。部屋に色とりどりの札束が舞う。投げつけて踏みつけてひっぱたく。私も笑い声をあげて札束をばらまく。
はしゃぎ疲れた私たちが大の字になって札束の上に寝そべる。
「あー私、めっちゃ上にいるって気分だわ」
「ボールプールをお勧めするよ」
と宮本君がくすくす笑い、ハルナちゃんが顔に札束を投げつける。
「それもいいかもな。みんなで遊びに行こうぜ。もうすぐ冬休みだし。てか、四年生になってからも会おうぜ」
「私も行ってみたいかも。ボールプール」
「じゃ、決まりね。宮本も絶対来るのよ」
「仕方がないな」
「……ナナちゃんとも仲良くなれたらよかったんだけど」
私たちが静まると三倉君が困惑してきょろきょろする。
「誰だよそれ」
「ネクロコメットに乗っていた人」
「え、ネクロコメット?」
「倒したの」
「ええ⁉ネクロコメットを」
三倉君が手足をばたばたさせて驚く。
「倒したというか、ファルザリオンと合体したら一緒に消えちゃった」
「お前らすげえな。ネクロコメット倒すとか。全小学生の英雄じゃん。なあ、なあ、そのナナってどんな奴だったんだ」
「普通の女の子だったよ」
私は目を閉じて來野ナナの姿を思いだし、答える。
「ちょっとかわいそうな子だったけど」
「その來野ナナってやつね、自分は神様の操り人形なんだってキレてたのよ。やべぇやつだわ」
「んあ?」
「自分が戦う羽目になったのは狂った神様のせいで、学校を壊していけば神様の操る幻から抜け出して現実に帰れると思ってたんだよ」
「なんかよくわっかんねぇけど、マジやばいな。宗教系?」
「そうだったのかもね」
「でも、私には少しわかるな」
三人がじっと私を見て、先を促す。
「私も何回も思ったもん。何で私が。これは夢なんだって。でも頬をつねったら痛いじゃん。だからどこまで行ってもこれは現実でしかないんだって」
「マトリックス的なあれかもよ。上って」
三倉君がにやりと口を片方上げる。どうやら冗談を言ったらしい。マトリックスって何だろう。
「あいつ、何小って言ったっけ」
「確か原上小学校って言っていたような」
「原上、知らね」
と言いつつ、三倉君がタブレットを取り出し検索し始める。私たちも画面を覗く。
「けっこう遠いわね」
まるっきり離れているわけではなかった。しかし自転車行ける距離ではなかった。
「また会うのは無理かもね」
宮本君がぼそっと言う。完全に会うのが不可能な距離ではない。相手のクラスも名前も知っている。だけど私にも、また会うのは不可能だと確信していた。
その日は久しぶりにパパが早く帰ってきた。台所から魚を焼く匂いがする。私は焼き魚なんて嫌いだ。
「最近学校どうなの」
「別に普通だよ」
残りの調理をグリルと電子レンジと炊飯器に任せて、テレビを見ていた私の横に座る。
「背伸びた?」
「うん」
「よかったな」
「よかったと思うの」
「当たり前だろ」
「なら」
テレビから爆発音がして意識がそっちに向かってしまう。今度やるアクション映画のコマーシャルだ。登場人物が目まぐるしく叫び、軽快な歌が流れて車やビルが爆発する。私は思い出す。私の痛みを。ハルナちゃんと宮本君の悲鳴。校庭のクレーター。破壊された遊具。炎。瓦礫。胸の痛み。ネクロコメット。ファルザリオン。ぽろぽろと涙がこぼれてくる。怖い。もうすべてが終わったはずなのに。違う。終わってしまったんだ。誰も帰ってこない。もしまた怪物が帰ってきたら。いやだ。怖い。私は声をあげて泣く。
「どうしたの急に」
パパがきょとんとしている。私は座布団に顔をうずめて声をあげて泣く。それ以上パパは何も言わない。しばらくしてご飯が炊けた音がしてパパが私から離れた。
もう一度読み直せばいいんだよ。
何を?ファルザリオンは帰ってこないのに。
パパがご飯ができたから食べるように言う。ご飯。わかめと豆腐の味噌汁。焼きサバ。ゴボウとニンジンのきんぴら。嫌いなものばかりだ。私はしぶしぶ食べ始める。まだ涙は止まらない。まずい。辛い。隣の部屋の夫婦の怒鳴りあう声が聞こえる。テレビは馬鹿みたいな芸人が馬鹿みたいなネタをして馬鹿みたいに笑っていた。全然面白くない。
一時間かけて何とか完食する。パパはもうお風呂に入ってしまって、部屋でゴロゴロしている。自分の部屋が欲しい。一人になりたい。私もお風呂に入る。今でもお風呂やトイレの前にアクセプターを外そうとしてしまう。つけていた期間より消えた後の期間の方がもうずっと長いのに。
服を脱いでゆっくりと湯船につかる。ふわふわして頭が少しぼんやりしてくる。ザバザバとお湯をかき混ぜる。別に意味はない。お湯をかき混ぜ、叩いて、しばらくして息を切らしてやめる。ふと私の手を見る。パパの縮れた毛が一本ついていた。
今日は修了式。校長先生の話を聞いて通知表をもらうために学校にくる一番つまらない日の一つだ。校歌を歌って体育館に体操座りでお尻が痛くなるまで長話を聞く。毎度毎度、よくこんなに話すことがあるものだと感心する。宮本君は
「校長先生とか教頭先生とか、こういう集会用の訓話集みたいなのがあってそれをマネしたりパクったりしているんだよ」
とにやつきながら言っていた。それが本当ならもっと馬鹿らしい。借り物のお話のためのお話を繰り返して、私たちの時間を無駄にするなんて。誰も聞いていないからわからないだけで、同じ話を使いまわしてさえいるかもしれない。誰のために、何のために話しているんだろう。たぶん意味なんてないんだと思う。ただそれはそういうものだからってだけなのだ。
みんながお辞儀をしたので、私もお辞儀する。どうやらやっと終わるらしい。
「では、最後に保険医の南雲先生からお話があります」
何も言わずともみんなの落胆の雰囲気が伝わった。
「あんた、通知表どうだったの」
「うーん、まあまあ」
ハルナちゃんと通知表を見せ合う。やった、ハルナちゃんより成績がいい。
「ま、こんなテンプレートで私の価値など測れやしないわ。ビッグすぎてね」
「そうだね」
ハルナちゃんの言葉を受け流すのにもすっかり慣れてしまった。
「あんたも見せなさいよ」
「まあいいけど」
そう言ってハルナちゃんは宮本君の通知表を返事を聞く前にはぎとる。
「また五ばっかじゃないの、むかつく」
私もひょっこり覗く。音楽と体育以外は全教科五だ。関心・意欲・態度の欄はB評価ばかりなのに。それに二学期は音楽も五になっている。
「まあ、体育は私の勝ちだから許してあげるわ」
「別に勝ち負けとかないと思うけど」
「それが勝者の余裕だってのよ。むかつく」
ハルナちゃんが宮本君の首を絞めるマネをする。宮本君は大げさにぐえーとやられた振りをする。私、体育どころか一教科も勝ててないんだけど。私も腹が立って嫌味ったらしい宮本君の脇腹をくすぐる。三人の笑い声が教室に響いた。
私はランドセルを家に置くとすぐに駄菓子屋に向かった。そろそろ暖かくなってきて、到着した頃には少し汗ばむくらいだった。しかし駄菓子屋にはシャッターが下りていた。張り紙が貼ってある。
「えーと、母カヨコの死去に伴い、駄菓子屋めいげつは二月いっぱいを持ちまして閉店いたします。長らくのご愛顧ありがとうございました」
そうか、つぶれちゃったんだ。シャッターの外のベンチは出しっぱなしのままだった。もしかしたら駄菓子屋のベンチではなかったのかもしれない。私はベンチに腰掛けて溜息を吐く。カヨコというのはあのおばあちゃんのことだろう。あまり好きではなかったけど、死んじゃったんだ。別に悲しくはない。涙も出ない。この駄菓子屋がなくなれば別の一人になれそうな場所を探すだけだ。橋の下、はホームレスがいるし、図書館は遠いからな。マキちゃん、マキちゃんとうるさかったおばあちゃん。もう会えないのか。私はもう一度大きくため息を吐く。怪物を学校の外に出してしまった時、こうやって潰れてしまったお店はどれくらいあったのだろう。物理的に潰れてしまったお店も多いだろう。ファルザリオンはこういう時どう言うだろう。どう言うかなんて、そりゃ私を慰めるだろう。ずるい考え方だ。わかりきっている。私は気がついた。私はファルザリオンなんてどうでもよかった。自分が楽になりたかっただけなんだ。泣くつもりなんてなかったのに、涙がつーっと流れる。
「お、久しぶり」
「……ネクロ」
「何泣いてって、駄菓子屋潰れてんじゃん。マジか」
ネクロが駆け寄って張り紙を見る。
「あーあ死んじゃったか。まあおばあちゃんだったしな。まあそんな泣くなって。たぶん大往生だよ。駄菓子屋がなくなっちゃうのも残念だけど」
「違うの。そんなことじゃないの。私は、私が」
私が望んでいたものって?
「例えば」
私が口にしようとするとネクロが私の肩を抱いた。ネクロの目を見る。
「終わっちゃったことは、もう仕方がないんだよ」
「仕方がないって何。おばあちゃんは駄菓子屋をやるために生まれて死んだってこと。やだ、そんなのやだ」
「え、どうした急に」
「何で、何でネクロは私の前にいるの」
「そりゃ、私も駄菓子屋に来たから」
「何で、何でなの」
「たまたまだよ」
ネクロが自分の胸に私を抱き寄せる。ネクロの顔が見えなくなる。
「私さあ、四月から全寮制のお嬢様学校に行くことになってさ、記念受験だったんだけど。たぶんもう一回受験したら不合格だったと思う。自分でも合格でびっくりしたもん。だから、もう会えないと思う」
ネクロが私の髪を撫でる。
「私、わりと楽しかったよ。駄菓子屋で駄弁るの。でも、会ったり別れたりって別に意味があるとかないとかじゃないじゃん。たまたまそういうものってだけで」
「やだ、やだやだやだ」
私は叫ぶ。何がいやなのかもわからない。
「じゃあ、私行くね。さよなら」
ネクロの体が私から離れていく。ネクロの体温が私から消えていく。
「あ、あ、またね」
「うん。また」
私は声を振り絞ってさよならを言う。ネクロが私に笑顔を向けて消えていく。
再びベンチに一人取り残される。私は一人きりだった。涙は止まってしまった。
「メルティングフェーズ」
私は呟いてみる。何も起こらない。ファルザリオンとは何だったのだろうか。私にはまだ何もわからない。辛くて苦しくて、ファルザリオンと会えてよかったとも思えない。突然現れて、別れも言えずに消えてしまった白い巨人。ファルザリオンは私と会えてよかったと思ってくれていただろうか。その時、ベンチが揺れた気がした。
「当然だ。マキ。私は君も君たちも大切に思っている」
声が聞こえた。わかっている。都合のいい妄想だ。だけどそれでいいと思った。私はファルザリオンの記憶を残さなければならないと、もう一度決意した。どうしてかはわからないが、そうしなければならない気がした。
私は立ち上がって自転車に乗る。漕いで、漕いで、漕いで、ぐんぐんスピードを上げる。雲一つない青空だった。風を切って、私と足と自転車が一つのパーツになったように感じてくる。汗が垂れる。息が切れる。私はもうすぐ四年生になる。先生たちが言うように、高学年になる自覚とかなんて知らない。ただ数字が増えるだけだ。私は疲れても漕ぎ続ける。どこに向かっているのかはわからない。がむしゃらに漕ぎ続ける。
私は妄想した。私のこと。ファルザリオンのこと。もしもの可能性。全部嘘であってくれたら。だけどそんなものでパンパンになった足が癒えるわけでもない。それでも、辛くても自転車を漕いだ。
そして、私がファルザリオンの声を再び聞くことは二度となかった。
鎮魂挽歌ファルザリオン 上雲楽 @dasvir
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