危ういバランス

 ほんの少し冷たく感じる、秋の雰囲気を漂わせた風。

 そしてその風に乗って、何かが首元を通り過ぎていった。



 その何かは、机の上に握り拳を作っていた実の手の甲に落ちる。

 まるで、狙ったかのように。



 肌色の中で、異様な存在を放つ鮮やかな白。



「―――っ!?」



 思考にかかるもやが、一気に晴れた。



 梨央が風に流れてきたものを自分の手に乗せて、怪訝けげんそうに眉を寄せる。



「これ……桜?」



 ドクンッ

 心臓が一際大きく 、重く響く。



 梨央の不思議そうな声に、梨央の手を覗いた拓也が懐疑的な表情を浮かべる。



「……こんなの、近くに咲いてないけど?」



 窓の向こうの景色を見ながら、拓也はそう言う。



「そうよね…。第一、こんな時期に桜なんて咲くわけないし。おかしいなぁ、なんで桜だなんて思ったんだろう…?」



 梨央も首を傾げる。



「ねえ、実……」



 当然のように実へと話を振った梨央は、その直後に大きく目を見開いた。



「ど、どうしたの!? 実、顔真っ青だよ!?」



 梨央が驚くのも無理はなかった。



 手の甲に落ちた花びらを凝視する実は、顔面を蒼白にしていたのだ。

 完全に血の気の引いた表情の実は、今すぐにでも倒れてしまいそうだった。



 さすがの拓也もこれには焦り、思わず実の机に手をついて身を乗り出す。



「おい、実。一体どうしたんだよ。」



 拓也の声に、実がやけに大きく肩を震わせる。

 茫然としたような表情で拓也を見上げたその顔には、〝しまった〟という文字がありありと書いてあった。



 その後唇を噛んだ実が、拓也からは己の失敗を悔やむように見えた一方、つらいことを必死に押し込めているようにも見えた。



 実はのろのろと頭を下げ、手の甲の花びらを反対の手で握り込んだ。



 強く。

 けれど、決して花びらを潰さないように優しく。

 まるで、大切なものを包み込むように。



 拓也が見た、思い詰めたような実の表情は、前髪に隠されてもう見えない。



「……実?」



 拓也が再び声をかけるのと、実が席から立ち上がるのは、ほとんど同じタイミングだった。



 実は固く口を引き結んだまま、一言も発することなく席から離れる。

 そして誰とも目を合わせないまま、足早に教室を出ていってしまった。



「え…? 実、ちょっと待って!」



 梨央が実を追いかけようと走りかける。

 そんな梨央の腕を、拓也はとっさに掴んで引き止めた。



「何よ、村田。」

「あ……いや……」



 梨央にキッと睨まれ、拓也は狼狽うろたえる。



 梨央が実を追いかけようとした瞬間、何故か追いかけさせてはいけないと思ってしまったのだ。

 気付いた時には、手が勝手に動いていた。



 拓也は目を伏せ、実の様子を思い返す。



 最近の実―――特に、今日の実は明らかにおかしかった。



 いつもの実には、誰にも、自身の運命にすらも屈しないという、確固たる意志と自信があった。

 そして、誰にも自分の内を見せない、探らせないという絶対の拒絶も。



 その自信と拒絶は、いつも実を囲む分厚い壁となり、あの仮面めいた表情の数々を作り上げる。

 よほどのことがない限り、あの仮面が剥がれるなどありえない。



 それなのに、今日は―――



 見るからに疲弊しきった顔。

 誰に声をかけられても反応しない、ぼうっとした態度。

 覇気のない声。



 一目見れば、異変はすぐに分かった。

 それをすぐに突っ込んで問いただすことができなかったのは、今日の実があまりにも危うかったからだ。



 触れればすぐに崩れてしまいそうな、そんな危ういバランスの精神で、必死にぎりぎりの一線を保っているように見えた。



 気取られないように隠そうとはしていたが、今日はそれも、あまり意味をなしてはいなかった。



 最近は実の様子がおかしいと思うと共に、彼から漂う香りが変わってきたのを感じていた。

 だから、実を注意深く観察するようにしていたのだ。



 そんな自分にとっては、今日の実の様子は、昨日までとは天と地の差があるようにも思えた。



 ここまでの変わりようは想定外だ。

 もはや、事情を聞くことができる状態を一気に飛び越えていた。



 今の実に必要なのは、落ち着きを取り戻すための時間だろう。

 急いで事情を聞き出すよりも、今はそっとしておいてやるべきだ。

 事情は、落ち着いた後にいくらでも聞ける。



 梨央にその考えを伝えると、彼女は少々不服そうにしながらも同意してくれた。

 梨央の性格上もう少し食い下がられるかとも思ったのだが、ひとまず丸く収まって、拓也はほっとする。



 その時、始業を告げるチャイムが鳴り響いた。



 梨央はハッとしたように時計を見上げ、実が消えていった教室の扉を気遣わしげに見やり、後ろ髪を引かれるような顔をしながらも自分の席に戻っていった。



 教室の喧騒が一層大きくなり、少しずつ静かになっていく。



 空になった実の席を見つめ、拓也は表情を曇らせることしかできなかった。


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