憔悴
授業も三時間目に差しかかった。
拓也はさらさらとペンをノートの紙面に走らせていた手を止めて、教室の後方を振り仰ぐ。
そこには実がいた。
実は退屈そうに頬杖をついて、眠そうな目で黒板を見つめている。
普段と何も変わらない実。
今朝の状況が状況だっただけに、かえって違和感を覚える光景だ。
拓也自身、その違和感の正体に気付いてはいたのだが、あえて放っておいた。
黒板上の時計は、十一時を回ろうとしている。
(もうそろそろ、いいだろう。)
時計を見ながら一つ息をつくと、拓也はおもむろに席から立ち上がった。
そのまま席を離れて、教室の中を歩き出す。
しかし、授業放棄ともいえる拓也の行動を
周囲の生徒も黒板の前に立つ教師も、まるで拓也など見えていないかのように淡々と授業を進めている。
拓也もそれが当然であるかのように堂々としていた。
周囲の無関心さなど歯牙にもかけず、さっさと教室を後にする。
閉めた扉に寄りかかり、拓也は腕を組んだ。
「さて、と。」
ぐるりと周りを見渡す。
誰もいない静かな廊下が、数十メートル奥まで伸びている。
すぐ側にある階段にも
拓也はすん、と鼻を鳴らす。
「……こっちか。」
小さく呟き、拓也は階段を
二階ほど上ると、その先には立ち入り禁止の貼り紙と、ささやかなバリケード代わりの古机が置かれていた。
拓也は
最後まで階段を
ドアノブに手を伸ばして回すと、普段ならかかっているはずの鍵がかかっていなかった。
そのことに疑問を持つことなくドアを開けた直後、高い場所特有の強い風が全身をなぜる。
「やっぱりな。」
捜していた姿を見つけて、拓也はほっと胸をなで下ろした。
その姿は屋上をぐるりと囲うフェンスに腕を置き、空を見上げている。
拓也はその後ろ姿に声をかけた。
「実。」
実の肩が微かに震える。
少し驚いたのか動きを止め、そして長い時間をかけてゆっくりとこちらを振り向いてくる。
拓也の姿を認めた実は、疲れたような微笑みを浮かべた。
やはり、今日の実はおかしい。
拓也は改めて思う。
拓也の不審そうな視線に、実は少し困ったように眉を下げて小首を傾げる。
いつもの仮面のような笑みでも、何かをはぐらかすような笑みでもない笑顔が、そこにはあった。
拓也の中に、違和感を遥かに上回る勢いで不安が広がっていく。
実の中で、自分と他人を隔てる分厚い壁が極限にまで削られている事実。
今すぐにでも目の前にいる実が壊れてしまうのではないかと、そんな危機感さえ覚えた。
「よくここにいるって分かったね。」
実が言う。
無機質な、淡々とした声。
訊いてみたが、さして答えには興味がない。
そんな印象を受ける口調だ。
「まあ、上の方から実のにおいがしたからな。教室に影を置いてるくらいだから、もしかしたら帰ってるかもとも思ったんだけど。」
拓也は正直に答える。
しかし、その先に言葉が続かなかった。
訊ねたいことはたくさんある。
でもそれを実に質問できる状況なのかと言えば、それは違う気がした。
何も訊かないでほしい。
「そう…」
拓也の認識に違わず、実は拓也の答えに興味がなかったようだ。
一言そう
フェンスの上で手を組み、実はまた快晴の空を見上げる。
拓也は少し迷ったが、そっと実へと歩み寄った。
実の隣に並び、実と同じように空を見上げる。
時おり実の表情を横目に見たが、実の無表情からは何も読み取れはしなかった。
「……もう、大丈夫か?」
「うん。」
実の声はあっさりしている。
そう答えるとおり、表面上の実は穏やかなものだ。
「……悪かったな。」
「えっ?」
急に拓也から謝られて、実は間の抜けた声と共に拓也へと目を向けた。
拓也はそんな実の視線が嫌なのか、実と目を合わせないようにして、眼下に広がる街の景色に目を固定している。
「なんで?」
謝られた意味が分からずそう訊ねながら、実は今日初めてまともに意識して拓也のことを見た。
拓也はその問いに顔をしかめて、フェンスの向こうを睨む。
「いや、だからさ……本当は、おれにここまで来てほしくなかっただろ? おれも、それは分かってたんだけどさ……」
口ごもる拓也。
外に向けて視線を固定していた拓也は気付かなかった。
驚いた実の表情が、徐々に意地の悪い笑顔に彩られていくことに。
「まあね。来てほしくなかったのは本音かな。」
「う…」
「だけど拓也のことだから、ここに来るのは想定の範囲内。」
「………」
「でも、すぐに追いかけてこなかったことには感謝してる。」
「……はあ。」
どうやら実には、こちらの心情など全てお見通しらしい。
うなだれる拓也の口からは、ただ溜め息が零れるばかりだ。
「別に、大したことはしてねぇよ。」
投げやりになった拓也が面白かったのか、実は軽やかに笑って、その笑顔を柔らかいものに変えた。
「ありがとう。色々と大変だったんじゃない? 特に、梨央の相手とか。」
「いや、そうでもなかった。意外とあっさり引き下がってくれたよ。」
「そっか。」
それきり、会話が途切れてしまった。
拓也は眼下の景色を、実は空をぼうっと眺めている。
それぞれが、
二人の間に落ちる沈黙を、風の音が掻き乱す。
風がうねる音を聞きながら、淡々と流れる時間を無言のまま過ごした。
やがて授業の終了を告げるチャイムが鳴り、階下の校舎内が生徒たちの喧騒で賑わい始めた。
その微かな喧噪の中、ふいに拓也が口を開く。
「……なあ、実。」
「ん?」
実が穏やかに先を促してくる。
拓也は悩んだ末に、訊くまいとしていた質問の一つを口にした。
「何があったのか……訊いたらだめか?」
「……そう、だね……」
少し言い
ひどく疲れていて、どこか諦めたような。
後ろ向きな覚悟さえ感じさせるような、そんな廃退的な笑みだった。
「取り戻した記憶の中には、思い出さなかった方が幸せだったこともあるんだ。」
実はそう、答えにならない答えを寄越してきた。
納得するにはほど遠い。
しかしそれ以上の詮索は、実の笑顔に阻まれてしまった。
結局、拓也は何も言えなくなってしまう。
しかし、この時の拓也には知る
この後、実が姿を見せなくなってしまうなんて―――
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