涙と懺悔

 自分の中で、恐怖が爆発的に密度を増していくのを感じる。



 さっきまでの蒸し暑さは一転、今は凍えるような寒さが全身をさいなんでいた。

 指先が冷たく冷え切って、微かに震えている。



 背後にどんな景色が広がっているのか。

 見なくても分かる。

 だからこそ、振り向くことができなかった。



 頭が痛くてたまらない。



(嫌だ……嫌だ……)



 感情が全力で嫌がる。

 後ろを振り向くことを、その先に広がっている景色を見てしまうことを、徹底的に拒絶していた。





 ―――でも、この現実から目を背けてはいけない。





 どこからか湧き上がってきた、使命感にも似た思い。

 それを拒絶する間はなかった。



 あんなに嫌がっていたくせに、すんなりと首が回った。

 自分の行動を理解するより前に視界がくるりと回転して、窓の外の景色が鮮やかに飛び込んでくる。



「―――……」



 絶望を伴った脱力感が、足元から這い上がってくる。





 そこでは、花びらが舞っていた。





 雪のように白い花びらは、遥か上空から降ってきて、窓を通過すると幻のように空気に溶けていく。

 まるで、見るのは自分だけでいいとでも言うように。



「ははは……」



 感情のこもらない乾いた笑い声を漏らしながら、実はへなへなとその場に座り込んだ。

 異常に重たく感じる手を伸ばし、カーテンを掴む。



 そしてひどく悲しそうな表情を浮かべ、カーテンを閉めた。

 今度はわずかな隙間も作らないほど、きっちりと。



 カーテンに作られたしわが、カーテンを握る手にどれほどの力が込められているのかを物語っていた。



 部屋の中が、また暗闇に包まれる。

 その闇の中で、実はゆっくりと立ち上がった。



 カーテンを見つめるその顔は、何の感情も映してはいない。

 ふらついた歩調で、実はカーテンの前を離れてクローゼットまで移動する。



 クローゼットの取っ手には、もう着慣れた制服がかかっている。

 それをしばらくじっと見つめていた実は、制服のポケットに手を伸ばした。



 そこから取り出したのは、小さな黒い手帳。

 それをゆっくりと開く。



 開いた表紙裏には、一枚の写真が挟まっていた。

 実はそれを、無表情のまま見つめる。



 古い写真だ。

 ずっと持ち歩いているせいで写真の端は黄色く変色し、すぐ破れてしまいそうなほどに劣化している。



 しかし、よほど大切に保管されていたのか、劣化しているのは端だけで、写真自体は比較的綺麗なものだった。



 写真に写っているのは、幼い頃の自分だ。



 幼稚園の制服に身を包んだ自分は、無表情でカメラを見つめている。

 人によっては、カメラを睨んでいるようにも見えるかもしれない。



 周囲で駆け回る園児たちや、園庭を彩る木々や花たち。

 そんな明るい幼稚園の風景にはそぐわない表情で、幼い自分は写真の中に立っている。



 カメラを見つめる表情には、感情の欠片も映っていない。

 幼く大きな瞳に広がっているのは、果てしない虚無だけだった。



 そして、もう一人。



 人形のような自分に抱きついて、その子は満面の笑みを浮かべていた。





 少しくせのついたふわふわな黒髪に、さらに深い闇色の瞳の少女。





 少女は自分とは正反対の笑顔で、カメラに笑いかけていた。

 いかにも幼稚園児らしい、無垢な笑顔だ。



 幼稚園の背景は、彼女のために用意されたもののようだった。

 全てが彼女のために存在し、彼女を飾り、彼女の可愛らしさを際立たせている。



 この写真の中では、少女の隣に立つ自分の方が明らかに異分子だった。

 何もかもが自分とは違う少女が、そこには立っている。



 実は、写真の中で笑う少女を見つめた。

 ずっとずっと、飽きることなく、何も考えず、ただじっと見つめていた。

 やがて。





「――――桜理おうり……」





 囁くように、その名を呼ぶ。

 その瞬間、写真の上に一粒の雫が落ちた。



「あ…」



 急に流れて落ちた涙に、少し驚いてしまった。



 慌てて目頭を拭う。

 しかし、一度流れ出した涙は拭っても拭っても止まらなかった。



「―――っ」



 とうとう耐えきれなくなって、実はその場にしゃがみ込んだ。

 写真を大切そうに抱え込んだ実の口から、静かな嗚咽おえつが零れ始める。



「桜理…っ」



 嗚咽の間に、消え入りそうな声が混じる。

 もう、何も考えられなかった。



 悲しい。

 苦しい。

 つらい。

 悔しい。

 憎い。



 そんな感情が涙と共にあふれ出しては流れ、どんどん心を壊していく。



 すでに、涙を止める意志さえも奪い去られていた。

 様々な感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて、頭の中があっという間に真っ白になっていく。



 感情の奔流に流されるがまま、泣くしかなかった。

 ただただ泣いた。

 泣いて、泣き続けて、意識が朦朧もうろうとしてきてもなお、涙は止まらなかった。



 泣き疲れて、体が重くなっていく。

 しゃがんでいるのにも疲れて、とうとう座り込んだ。



 涙がフローリングの床に何粒も落ちていく。

 その度にぽつり、ぽつりと小さな音が立った。



「……桜理 、桜理。」



 泣きながら、名を呼んだ。



 呼び声に応える者はいない。

 自分自身も、応える声がないことは知っていた。



 しかしその名を呼ぶ声は、無意識の内に自分の口から零れ落ちてしまう。



「―――ごめん。」



 呟く。



「ごめん、桜理。」



 無機質な暗闇の中に力なく座り込んで、泣きながら謝り続けた。



「ごめん……ごめん…っ」



 いつの間にか、空は白み始めていた。

 実の声はカーテン越しに明るくなり始めた部屋の中にひっそりと響き、静かな空気に吸い込まれて消えていく。





「ごめん……桜理……」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る