第1章 思い出したくない記憶

恐怖の夜

「うわあああああぁぁっ!!」



 自分の耳を、自分の絶叫がつんざく。

 それに驚いて、慌てて身を起こした。



 しかし、これだけの絶叫をあげておきながら、意識はまだ判然としていない。

 夢から覚めたばかりの時特有の現実感のなさが、意識を支配している。



 そんな意識とは逆に、体の方は活発に動いていた。

 肩が荒い呼吸に合わせて大きく上下に動き、心臓がうるさく、とても速いテンポで脈を打っている。



 聴覚いっぱいに響くのは、自分の呼吸と鼓動の音。



 今視界に広がっている光景が夢なのか現実なのか、すぐには判断がつかなかった。



 興奮している体に急かされるように、おぼろげな意識が瞬く間に覚醒していく。

 徐々にではあるが、暴れる呼吸と鼓動を鎮めようと理性が働く。

 その理性に応えて、体は長い時間をかけて落ち着きを取り戻していった。



 それでようやく、今が現実なのだと理解するに至る。



「―――……」



 その瞬間に全身から力が抜けて、実はベッドに倒れ込んでしまった。



 柔らかい枕が、力なく落ちてきた頭を受け止める。

 見慣れた天井が視界に広がって、無意識のうちに安堵して息を吐いた。



 目の前に広がるのは、灰色の闇。

 まだ、夜は明ける気配を漂わせていない。



 夜目がいた青ざめた世界の中で聞こえるのは、規則正しくなった己の呼吸音だけ。

 それ以外には、音らしい音は聞こえない。



 無機質な闇と異常なまでの静寂が、意識をより明瞭に、より敏感にしていた。



「………」



 ほんの少しだけ気持ちに余裕が生まれたので、実は首を巡らせて部屋を見渡した。



 闇の中に沈んでいる室内は、特に異常もなく、いつもどおりの姿をさらしている。

 閉め切られたカーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、床に細い線を作っていた。



 そんな部屋の中を見回して動いていると、冷たいものが頬を流れ落ちてくる。



 今さらながらに顔に手をやると、顔中が汗でぐっしょりと濡れていて、同じように濡れた前髪が額に張りついていた。



 おそらく、かなり長い間うなされていたのだろう。



 ふと、さっきの夢のことを考える。

 瞬間、脳裏にものすごい鮮明さで花びらが、木が、少女が、少女の笑顔が、泣き顔が、声が―――



「―――っ!!」



 一気に突き上げてきた恐怖とそれに対する拒絶に、また勢いよく起き上がる。

 再び乱れかけた呼吸を、必死に押しとどめた。



 胸が苦しい。

 両手で胸を押さえて、滾々こんこんと湧き出してくる恐怖にひたすら耐えた。



 この一線を越えたら、きっと叫び出してしまう。

 恐怖に飲み込まれそうになることにさらなる恐怖を覚えて、全神経を使って恐怖に耐えた。



 今はまだ夜中だ。

 こんな時間に騒ぎ出しては、近所迷惑になってしまう。



 恐怖に真正面から向き合ってしまわないように、夢とは関係のないことを自己暗示のように言い聞かせる。



 気が遠くなるような静寂の中、実は静止画のようにピクリとも動かなかった。

 しばらくして。



「……ふう…」



 実の口から細く、深い息が吐き出された。

 胸を押さえていたその手がベッドに落ちる。



 実は膝を折って、その膝に自分の額を乗せた。



 疲れが体をどっと重くする。

 前髪を伝った汗が、何粒も布団の上に落ちていった。



 膝と額にぬめりとした汗の感触がして、なんとも気持ち悪い。

 額だけではなく全身にかいた汗が、じっとりと服を濡らしている。

 風もない室内では服に染み込んだ汗が乾くわけもなく、服の中が蒸れて気持ち悪さを倍増させる。



 あまりの気持ち悪さと蒸し暑さに、着替えようとベッドを降りた。

 自然と下を向いた視線の先に、部屋を横切る光の線がその存在を訴えてくる。



 じっと。

 部屋の中にある唯一の光を、食い入るように見つめた。

 その光に吸い寄せられるように、自然と目が光の線を追う。



 こんなこと、しなくてもいいのに……



 そうは思っても、すでに意識の支配下を離れている目はただ光の元を辿るだけ。



 その先には、微かに隙間の開いたカーテン。

 実はそれを、じっと凝視する。



 胸に広がるのは、恐怖と嫌な予感。



 実はカーテンの前に立ち、布の端に手をかける。

 少しの逡巡しゅんじゅんの後、ぐっと手に力を込めて一気にカーテンを引き開けた。



「………」



 言葉もなく立ち尽くす。



 夜の街を優しく照らす月。

 月の背後を彩る宵闇の空。

 空に模様を作る灰色の雲。

 そんな空の芸術に包まれて、ひっそりとたたずむ家々。



 いつもと何一つ変わらない風景が、そこには広がっていた。



 拍子抜けして茫然としていた実はハッと我に返り、ずっと詰めていた息を一気に吐き出した。



「何やってんだろ、俺……」



 自虐的に笑う。

 窓に背を預けて、そこから部屋全体を見渡した。



 カーテンを開いたことで、部屋の中はほのかに明るくなっていた。

 薄暗い部屋の中に伸びるのは、窓と自分の影。



 緊張の連続で疲れてしまい、実は疲労に浸食されている意識もそのままに、自分の影をぼうっと見つめていた。





 ―――ひらっ





「!!」



 実の目が、驚愕に見開かれる。



 部屋の床に映る自分と窓の影。

 そこに、新たな影が舞い込んできた。

 その影は窓の上方から現れて自分の影をひらりと横切り、窓の下方へと消えていく。



 背筋に、ぞわりと怖気おぞけがうねっていった。



 小さな影。

 それはまるで、雪のような、花びらのような。



「………」



 無意識に、組んでいた腕に力がこもる。

 首筋に、ひやりとした汗が流れていった。



 窓に背を預けたまま、実の体は硬直したように動けなくなる。



 ひらりと横切った小さな影。

 その影の存在は脳裏にしっかりと刻み込まれ、一切の思考を奪ってしまう。

 振り向くこともできず、目は窓と自分の影に据えられたまま、凍りついて動かない。



 ―――ひらり、ひらり。



 時間が経過するほどに、舞い散る影の数が増えていく。

 気のせいだと言い聞かせようとしていた自分を、嘲笑あざわらうかのように。



 さっきまでなら、気のせいで済ませられた。

 夢のせいで幻影を見たのだと、きっと何かを見間違えただけだと、そう思いたかった。

 そう納得したかった。



 だが、今はどうだろう。



 小さな影は、その存在を自分に知らしめるように舞う。

 尽きることのない無数の影が、窓枠の中で踊っている。



 まるで、窓の外でさんさんと雪が降っているようだ。

 降り続ける雪。



 ―――違う。



 実の中には、悲しいほどの確信があった。



 これが雪であるはずがない。

 季節を考えたら、それは明白だ。



 それに、知っているではないか。





 ―――




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