世界の十字路3~封じられた秘めたる想い~

時雨青葉

プロローグ

黒に舞う白

 ……雪が降っている。



 白い、白い雪。

 それが、真っ暗で何もないこの空間に唯一の色彩を与えていた。



 ひらひらと舞ってきた雪が、ふと頬に触れる。



 冷たくはなかった。

 それで、これが雪ではないことに気付く。



 これは、花びらだ。



 ぐるりと辺りを見回す。

 花びらは、遥か遠くまで一面に降り注いでいた。



 しかし、それらが地面に積もることはない。

 花びらはどこからともなく降ってきて、地面に落ちる前に幻のように消えていく。



 手のひらをすっと差し出すと、すぐに数枚の花びらが落ちてきた。

 地面へ落ちる花びらは消えていくのに、手に乗る花びらはその存在を訴えるかのように消えることはなかった。



 よく見ると、白く見える花びらは淡く桃色に色づいている。

 思わず眉根を寄せた。





 ――――――この花は、嫌いだ。





 この花を見るだけで、いや頭の隅で思い浮かべるだけで、胸が潰れたかと錯覚するほどに苦しくて仕方なくなる。

 この小さな花たちに、責められている気がしてならないのだ。



 この花は、できるだけ見たくない。

 それなのにこの花は、見たくないと願う自分を嘲笑あざわらうかのように、ある時期になると一斉に花を咲かせる。

 世界の全てを、この花の一色に染め上げてしまうのだ。



 視界に入る景色の至る所でこの花が舞い踊り、まるで世界の全てから責められているような気分。



 それはもう、いっそ逃げ出してしまいたくなるくらいの苦しさで……



 だが、なんと皮肉なことだろう。



 この花を嫌がる自分とは逆に、周囲は満開の花を見て頬を緩める。

 綺麗だと言って、その花が咲き乱れるのを喜ぶのだ。



 どうしてそんなに喜ぶことができるのか。

 理解できなかった。



 自分は、こんなにも苦しいのに……



 花たちに責められているような圧迫感。

 素直に花の存在を喜べる人々への嫉妬と羨望。

 けれど、自分を偽ってまで周囲の輪に入れない孤独感。



 そんな思いがぐちゃぐちゃになって、自分が分からなくなる。



 いっそのこと、こんな花なんてなくなってしまえばいいのに。

 そう思いながらも、それはできなかった。



 決して、力がないわけではない。

 やろうと思えば、あの忌々しい花を全て消すことは可能だった。



 それでもそうすることができないのは、自分がその花に傷一つつけることができないから。



 消えてほしい。

 しかし、花を傷つけることは他でもない己が許さない。



 自分の手で花を傷つけてしまうよりも、この花に責められているのを感じながらも、ひたすら苦しみに耐える方が何倍も楽だった。



 情けない。

 今だって、手のひらに乗る無力で小さいこの花びらを、握り潰すことすらできないのだから。



 自分の不甲斐なさに、ぐっと唇を噛み締めた。

 その時、ふと強い風が空間を吹き抜けていった。



 手のひらに乗っていた花びらが、その風に流されていく。

 視界から花びらが消えたことに気が抜けて、無意識に大きく息をついた。



 その刹那、風が一気に勢いを増した。

 嵐でも来たかのような強風に目を閉じ、顔を背けた。



 視界が闇に染まる。

 たったそれだけのことで、気持ちが一気に楽になる。



 風は、すぐに柔らかいものになった。



 このまま、目を閉じていられたら……



 そう思うのに目は自然と開いて、花びらが散る光景を鮮明に映し出してしまう。



「………っ」



 息を飲んだ。



 景色が少し変わっていた。

 少し離れた場所に、大きな木が立っていた。

 枝という枝に、あの花を咲かせた木だ。



 そして、その木の根元に小さな子供が立っていた。

 子供はこちらに背を向けて、頭上で咲き誇る花を見上げている。



「―――っ!!」



 自分の中から、恐怖にも似た気持ちが噴き出してくるのを感じた。

 今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。



 しかし、意に反して体は一ミリも動かなかった。



 逃げたいのに、逃げられない。

 それでも必死にもがいていると、子供の肩がピクリと揺れた。



 ゆっくりと、子供が振り向いてくる。



「―――っ!?」



 恐怖が爆発した。

 表現しようのない戦慄が全身を駆け巡り、ざあっと血の気が引いていく。

 硬直した背筋を冷や汗が伝っていく。



 嫌だ。

 こっちを見ないで……



 そんな切願が通じるはずもなく、子供が完全にこちらを向いてしまった。



 五、六歳ほどの少女だ。

 少しくせがついたショートカットの黒髪はふわふわと風に揺れ、その髪よりも深い闇色の瞳はまんまると愛らしい。



 少女はこちらに気付くと嬉しそうに笑って、手を大きく振ってきた。



 無邪気で、なんの裏表もない嬉しそうな笑顔。

 その笑顔が嘘偽りのない純粋なものだからこそ、―――深く、本当に深く心をえぐられた。



 見たくない……見たくないんだ……もう……



 心が必死にそう訴えてくる。

 それなのに、言うことを聞かない目は、視界の中心に少女を据えたまま。



 手を振り続ける少女と動けない自分の間で、花びらたちだけが舞い続ける。

 どれほどそんな時間が流れただろうか。



 急に、少女の顔から笑顔が消えた。

 振られていた手が徐々に勢いをなくし、静かに下がっていく。





 そして―――大きくつぶらな目から、一筋の涙が零れ落ちた。





 その涙を見た瞬間、逃げ出したい気持ちを遥かにしのぐ別の衝動が、胸の奥から突き上げてくる。



 湧き上がった衝動に急かされるままに、少女の元へと駆け寄ろうと走った。

 走ろうと、した。



 しかし、相変わらず体は動かないまま。



 ぎり、と。

 奥歯がきしんだ音を立てた。



 意識と行動の矛盾。

 何一つ自分の思い通りにならない苛立ち。

 その中で、確実に理性を失っていく心。



 自分が何を望んでいるのか、何をしたいのかが分からなくなる。



 逃げたいのか。

 涙を流す少女の元へ行きたいのか。

 あるいは、その両方なのか。



 何もできない自分の前で、少女は泣きじゃくっている。

 こちらの気持ちなどお構いなしに、少女は泣いて泣いて、泣き続けた。

 そして。





「―――実。」





 名前を、呼んだ。



 すがるように。

 悲しそうに。

 苦しそうに。



 ただひたすらに、名を呼んだ。



「実……実……実………」



 純粋過ぎて、透明な声。



 頭が痛い。

 純粋な呼び声が鋭いやいばごとく、容赦なく心をずたずたに切り裂いていく。



 耳を塞ぎたかった。

 両目をきつく閉じて、外界の全てから自分を隔離してしまいたかった。

 そうできたら、どんなに幸せだろう。



 しかし、少女の声は意識の隅々にまで浸透し、逃避願望をどんどん削ぎ落としていく。

 逃げ出したい衝動が少女の悲痛な声に抑え込まれて、拒絶反応を起こした感覚が徐々ににぶくなっていく。

 それでもなお、声のもたらす苦痛はとてつもないものだった。



 お願い……やめて……



 心が悲鳴をあげた。

 この声は、自分が決して踏み込まれたくない心の奥をめちゃくちゃに掻き乱して、そして壊していく。





 嫌だ。嫌だ。―――思い出したくない。





 何もできず、ただ立ち尽くすしかなかった。

 もう、何も考えたくない。

 しかし、そんな頭の隅では理解していた。



 そう。

 自分は何もできない。

 何もできなかった。

 これは、変えることができない過去。





 魂に深く刻まれた―――己の罪。





「実……実……」



 少女が必死に呼んでいる。



「実……実……」



 けれど、自分は見ているだけ。

 何もできない。



「実……実、実……」



 全身から力が抜けた。

 これ以上の地獄なんて、ありはしない。

 深い絶望の中、懇願するしかなかった。






 ―――――…………もう、許して……





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