7 さよならムーン
朝、目を覚まして歯を磨いていると、なにやら表からキューンキューンと犬の泣き声が聞こえます。
僕は歯ブラシを咥えたまま寝ぼけ眼で表のドアを開けると、ムーンは僕に気づいたらしく犬小屋から鳴きながら出てきました。
「あ……!!」
僕はその光景に目を疑いました。
いつものボロボロの犬小屋、そこら辺から拾ってきた木の板にムーンと書いた表札。
その犬小屋の中から泥だらけの真っ黒のムーンが出てきたのです。
しかも寒そうに震えているではありませんか!
僕は咥えた歯ブラシを落として慌ててムーンの側に駆け寄りました。
「ムーン! ムーン!!」
どうやらムーンは泥水を誰かからかけられたようでした、夕べは雨だったのでそこらあたりの水たまりから汲んできた水でも掛けられたのでしょう。
僕は一番綺麗なタオルを必死でムーンにかけてその湿った身体を包みました。
背中に何かガムテープのようなものをべたべたつけられてそこに紙切れがついていました。
そこには ”借金返せ”
という文字が書かれていました。
あうううう、あいつら~!!
昨日は撮りが深夜にまで及んで、隆二さんの車で送ってもらった僕はそのまま倒れこむようにして寝てしまいました。朝方くらいに借金取りでも来たのでしょうか?
中からチェーンをかけていたので、彼等が来たのを僕は気づきもしない位熟睡してしまったようです。
僕はムーンにすまない気持ちでいっぱいになりました。
お前は関係ないのに、ごめんな……ごめん、ムーン。
僕は慌てて水分だけムーンの体から取り去ると、それでも泥と、ガムテープ、それになんだか糊のようなべたべたのものがムーンの体についていたのでそれを洗ってやろうとスタジオまですぐにムーンを連れて行きました。
僕の家の台所では狭すぎてムーンを洗ってやる事もできません。
廊下でいつもより早めに来ていた瑠璃さんが、その様子を見て驚きの声をあげました。
「守さんっ、ムーンどうしたの?!」
「あ、あははは、近所に悪い人がいて、ムーンいたずらされちゃって……」
流石に言えませんでした、借金取りの嫌がらせとは。
そのままスタジオにあるシャワールームへ向かうと、心配して瑠璃さんも一緒に来てくれました。
僕らは2人でムーンの体についた泥やねばつく糊を取りました。
ムーンは最初は寂しそうに鳴いていましたが、暖かなお湯で綺麗に流されていくうちにいつもの呑気な顔に戻り気持ちよさそうにお湯に当っていました。
「こんなことするなんて信じられないよ」
瑠璃さんは少し怒っていました。
「はぁ……本当ですよね……でも……やっぱりあそこで飼うにはもう限界なのかな……」
「どうして?」
「あ、実はムーンは僕のアパートの玄関先で無理矢理犬小屋つけて、管理人さんに無理言って飼わせてもらっているんです、本来はアパートで飼っちゃいけないんですよね。でも、僕、こいつが保健所送りになるのだけは避けたいんです」
「そうだったんだ……」
瑠璃さんは眉をひそめました。
いつものスタジオ、元気になったムーンはスタッフと戯れていました。
はぁ、一安心です。
なんだかそれが当たり前の景色になっていて……。
それが今日のちょっとした事件で、当たり前だなんて思っちゃいけないんだなと思いました。
僕がスタジオ入りすると瑠璃さんから話を聞いたのでしょうか、少し顔をしかめた隆二さんがこちらに歩いてきます。
「おはよう守くん、犬、もう大丈夫みたいだね。災難だったね」
「あ、おはようございます、すみません、はい……」
「しかし、関係ない人の家の飼い犬に悪戯する悪い連中がいるんだね、ムーン外で飼わない方がいいのかもよ?」
はぁ……関係なくはないんですけどね。
「おはようございま~す!」
元気に桐香くんが入ってきました。
「おはよう!」
そうこうしている内に他の出演者さんもスタジオ入りします。
「……あつっ」
僕はテーブルの上のスープで舌をやけどしてしまいました。
凄く猫舌なわけじゃなく中途半端なやや猫舌です。
「大丈夫? 守くん?」
向かいのテーブルに座っていた隆二さんが、心配してくれました。
「今入れたばかりだから、熱いんだなこれは。水飲んだほうがいいよ」
陣作役の陣作さんが僕に水を渡してくれました。
「ほんとだ、ちょっと熱いねこれ」
僕の様子を見て少しスプーンですくって冷ましてから口にした桐香くんが目を丸くしました。
今は朝のシーンです。
まだシーンを撮る前で、いい香のスープに釣られてつい口に運んだのが間違いでした。
この後に料理ついでに、魅来さん達が来るシーンもみんなが揃っているので、このままテーブルクロスを替えて、料理も替え、続けて撮ります。
充人さんは面白い人で現場のムードメーカーです、最近手品に凝っているらしくて、みんなに見せると桐香さんなんて大笑いで見ています。
笑ってもらえるのが、充人さんにはたまらなく嬉しいらしいです。
今もテーブルでスタンバッテいる僕らの目の前で、ボールを増やしたり減らしたりして、みんなの関心を集めていました。
なんだかみんな凄く和んでいるので、とても不仲な家族とは思えませんねぇ。
でも僕はまだ緊張しています。慣れているつもりでも相変わらずリテイクが多いし、みなさんほどベテランでないので、プレッシャーがあります。
凄いのが今の料理全部実際食堂の厨房で作っているんですよね。
そこをちゃっかりシーンとして撮ってしまいます。シェフのみなさんもやる気満々で凄いです。
瑠璃さんは台所で大きなお皿を抱えてニコニコしていました。
翌日、早朝から悲しいシーンを撮りました。瑠璃さんとお別れのシーンです。
瑠璃さんは泣いているのですが、僕まで泣きそうになりました。
辛いですとても辛い……。
その後は遺伝子研究の権威の先生とのシーンです。セットもこれのために作ったらしく後ろは張りぼてなんですけど見事な出来栄えで感動しました。真面目なシーンで僕は真剣に撮りました。
ミスが少なかったので監督に誉められました! 感動。
ムーンがちょこまかとスタジオ内をうろうろしています。僕のほうにとてとて歩いてきて甘えてきました。
昨日からずっとムーンは僕が家に入ろうとすると不安そうな目をするので、昨日はこっそりと家に入れてしまいました。
そして何故だが僕の側から離れようとしません。
なんだ、なんだお前、昨日からやけに僕に甘えるな。
昨日の事があったから急に寂しくなったんだろうか。
緊張したシーンの後だったので、僕はムーンの甘えぶりが嬉しかったです。
ムーンの事……これからどうしようか……。
大家さんには申し訳ないけど、家の中で飼わせてもらうしかないな……。
帰りに瑠璃さんが僕に話があると、控え室に呼びました。
部屋に入るととても綺麗な女性が瑠璃さんと一緒にいました。
一目見て瑠璃さんのお母さんだとわかったのは、瑠璃さんがお母さん似だからでしょうか。
「初めまして、瑠璃の母です」
「あ、初めまして、守といいます」
「ええ、いつも瑠璃から話を聞かされて存じておりますわ」
そう言いお母さんは笑いました。
笑うと花が周りに咲き乱れそうなとても美しい人だと思いました。
「ところで話って……」
僕が尋ねると、瑠璃さんが話し始めました。
「ん、あ、そうだ、うん。あの、あのね、守さん、お願いがあるんだけど……」
「はい」
「守さんの所、アパートでムーン飼いにくいって、昨日言ってたよね? 外でいつまた昨日みたいな悪戯されるかわからないんだよね?」
「あ、う、うん、でも、狭いけど家の中に入れることにしたよ」
「そ、そうなの?」
瑠璃さんはなんとなく言いにくそうにもじもじしています。横でお母さんもじっと僕のことを見つめていました。
僕がなんのことだろうと首をかしげると、瑠璃さんは何かを決意したように言葉を吐き出しました。
「あのっ、昨日の話聞いてね……考えたんだけど、ムーンを俺の家にくれないかな?」
「え?!」
「お願い! 一生大事にするからさ!」
瑠璃さんは必死な顔になり手を前に合わせて僕に目配せします。
「ママがね、つい先日大事にしていた愛犬を失って寂しそうにしてて、ムーンの写真を見せながらムーンの話してたらすっごく会いたがって。実は今日こっそり守さんが撮影中に会ってたんだ。そうしたらムーンって人懐っこいだろ? ママすっごく気に入って欲しがっちゃって……」
「よろしくお願いします、守さん、ムーンちゃんを幸せにしますわ」
お母さんもとても潤んだ目で僕を見つめて頼み込んで来ました。
「俺の家の庭先で放し飼いにしたり、寝る時は家の中の暖かいところで寝かすから。決して不自由な生活はさせないよ、お願い、守さん」
その日の帰り僕はムーンを引っ張り家路につきました。
明日まで考えてくるなんて言ったけど、もう僕の気持ちは決まっていました。
このまま借金を抱えている僕の、暗くじめじめした一月2万円にも満たない家賃のアパートの1階の端っこで、拾ってきた臭い犬小屋に押し込まれて食うや食わずで生活させられたり、昨日のように僕の身代わりで酷い目にあわされるより、瑠璃さんの恐らく広くて綺麗なお家の庭で、好きなだけ駆け回って美味しいご馳走をたらふく食べて、綺麗なママさんに可愛がられて、幸せに暮らした方がムーンのためだと……。
その方がムーンは幸せだと思いました。
ムーンとの出会いはほんの1年前でした、おそらくどこかから捨てられた犬なのでしょう。
首輪もつけておらずに、危うく保健所送りになる所を僕が嘘をついて、飼い主だなんて言って……。
それから彼とは苦楽を共にして来ました。最初の半年はお気楽な生活をしていた僕らでした。
そしてムーンの、動物の暖かさはなによりもかけがえのないものでした。
けれど半年ほど前に僕が借金をしてからというもの、本当にムーンには辛い思いをさせて来たと思います。
食費も僕と半分こで全然足りなかったと思います。
それなのに天性の呑気者なのか、僕より愛想を振り撒くのが上手くて、なんだかのらりくらりと生きている様は微笑ましかったです。
大家さんに貰い手が見つかりそうだと言うと、案の定安堵の表情を見せました。
やはり今まで迷惑だったようです。
その夜僕は再びそっとムーンを自分の部屋に入れて、一人と一匹で最後の夜を過ごしました。
お前は幸せになるんだぞ、凄い出世じゃないか! ムーン。
よかったなぁ……。本当によかった!
僕がムーンの頭を撫でるとムーンは目を細めました。
呑気なもので、僕がずっと頭を撫でつづけているとそのまま気持ちよさそうに寝てしまいました。
さよならムーン……。元気で。幸せに暮らすんだぞ。
NEXT ばっさりと切られた髪
*『月灯りの絆君と永遠に』(原作)の方との緊張感の差が激しい……。(;´Д`)
昨日と今日のご飯
撮影用の朝ご飯、ディナーを本当に頂きました。
トマトスープ、トースト、スクランブルエッグ、コーヒー
食前酒、シーザサラダ、かぼちゃのスープ、カモ肉のソテー
カマンベールのチーズのフライ、スモークサーモン、ライス
レモンシャーベット、ショコラケーキ。
コーヒー。
今日のご飯
ちらし寿司弁当。
緑茶。
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