第21話
二十一
中国 腊水村 七時五十分
パンパンに詰まった車内で洋洋はシートを愛おしそうに撫でた。
十年前
あれからというもの洋洋は生きる気力を無くしていた。それを心配したママは元気が出ますようにと願いを込めて料理を振る舞った。しかし初めの数年は洋洋は何も手を付けなかった。
『洋洋。大丈夫?相談に乗るよ?』
娘を愛おしく思う母は気掛かりだった。
『……』
応答が無い。そういう年頃なのだろうと思っていてももう八年だ。不思議でたまらない。あの日を境に元気がなくなっていった。乱れた髪や人に怯える仕草、何故か察しがついた。女の勘とでもいうのだろうか。友人か夫に相談しようとしても娘の悲しむ顔が想像できて声が出なくなった。もし夫に知られてしまえば実際に人が死ぬ可能性があった。
以前、洋洋が友達と戯れあっていた時に転んでしまい、膝を擦りむいてしまった時には一緒に遊んでいた子供に殴る蹴るなどの暴行を加えたことがあった。それから一週間は酒をやめず癇癪を起こしていた。それを見かねた友達の親がなけなしの金銭を持ち寄って謝罪に来たことがあった。それからというものその友達と洋洋は会って話すこともぱったり止んでしまった。しかしその噂は周りには流れなかった。憶測だが、夫の影響だと思う。昔からここら一帯で悪としてとても有名だった。彼の娘に手を出せばどうなるか想像がついたので子供達に言い聞かせていたのだろう。
数日後
けたたましい悲鳴で目が覚めた。洋洋の声だ。急いで洋洋の部屋まで行くと血の海だった。
『洋洋どうしたの?』
怯えながらも訪ねた。自分の悲鳴に掻き消されて聞こえないのか応答がなかった。洋洋は両耳を押さえている。よく見るとあたりには血塗れの耳かきとペンが転がっている。まさかと思い洋洋の肩に手をかけた。
今日は寝ることができなかった。寝ずに一夜を過ごした洋洋は小腹が空いていた。昔の記憶は殆どなくなっていた。半記憶喪失といったところか。と今ではジョークを言える自分に驚いていた。台所を見ると大きめの握り飯が二つ皿に乗っている。ママの手の大きさからは想像できないほど大きい。そのうちの一つを手に取ると自室に戻った。最近はママが色々な料理に挑戦しているのでこういう昔ながらのママの料理を見ると心を何かが埋め尽くした。
冷めた米はパラパラと口の中で解けていった。最後の一口まで食べ終わると本棚から小説を取り出した。洋洋は小説によって色々な情報を得ていた。一項、また一項とめくっていき内容を噛み締めていく。五分ほど読んでいると耳に違和感を感じた。耳鳴りとは違うリズム感のある音だ。いつか止むだろうと再び小説に意識を戻した。だが一向に止む気配が無い。それどころがさらに耳鳴りは大きくなっていった。心臓の鼓動の様なその耳鳴りは洋洋に不快感をもたらした。
『うるさい』
精一杯耳を塞ぐも案の定、音は止む気配を見せない。鼓動音は長い間洋洋を苦しめた。その音を聞いていると倦怠感に襲われ、眩暈がしてくる。このままじゃダメだと思い洋洋は立ち上がり近くに置いてあった耳掻きを取り出して耳に差し込み鼓膜に触れた。その状態のまま固まってしまった。このままいけば耳が聞こえなくなる可能性がある。でもこの音を止めたい、と葛藤を続けた末に鼓膜を突き破った。
『っ!』
内耳まで入ってきた異物を認識し、吐き気と痛みを感じた。右側の音が消えて一瞬安堵したが、その後すぐに恐怖が襲ってきた。仕方ないんだ、と自分に言い聞かせて耳掻きを引き抜いた。左手に持ち替え同じ要領で鼓膜を突き破った。完全とまでは言い切れないものの洋洋がこれまで経験したことのない無音の世界が洋洋を包み込んだ。
『これで、終わった』
心の中で思ったのか、それとも口に出したのかわからないが言葉を発した。安心しきったため椅子に全体重をかけてため息をついた。
『アグっ!』
突然胸や鼻、耳にとてつもない痛みを感じ、手で押さえた。千切れそうな痛みはますます強くなり叫びをあげた。
ボトン
鈍い音と共に体が軽くなった。サーッと血の気が引いていくのを感じ、自分の足元に目をやった。そこには血塗れの本が落ちている。何が何だか訳がわからなくなった。恐る恐る自分の胸を触ってみると今まであったはずの胸がなくなっている。更に叫び声をあげた。頭を押さえて只々震えていた。
空港前に着くと母に目配せもせず空港内に入っていった。複雑な気持ちのまま別れるのはとても辛かった。チケット販売所では制服姿の女性と男性が笑顔で待ち受けていた。
(アメリカシカゴいきの便チケットを取りたいんだけど)
手話を見て女性は手でお待ちくださいと伝えるとどこかに電話をかけ始めた。数分すると別の女性が現れて手話で話しかけてきた。
(如何されましたか?)
もう一度同じ動きを繰り返した。
(承知いたしました。次の便でございますと、一時間後に離陸となります)
(その便のチケットを買うわ)
女性はキーボードを打って画面を目の前の液晶に表示した。
(こちらで宜しいでしょうか)
液晶を一瞥して頷いた。
(料金は一万千四百四元です)
洋洋は持ってきた空の鞄に手を入れて探すふりをした。そして、少しの痛みを伴いながら鞄の中から紙幣の束を取り出した。しかし女性たちはそこに驚かず、一瞬で手が痩せ細ったことに驚いた。先ほどまではブクブクと脂が詰まっていた手が美女の手のそれになったからだ。紙幣の束を受け取り紙幣カウンターにセットし、スイッチを押す。すると枚数がデジタルフォントで表示されていく。カウンターは百十五を示し止まった。
(百十五角ですので九十六元のお返しです)
お釣りと一緒にチケットも受け取り、鞄にしまい販売所を離れた。
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