第11話 2022年 読む人、読まれる人
青柳さくらは理想的な読者だった。
批判がましいことは言わず、ごく控えめだが、いざ感想を述べるとなると率直かつ明確だった。「この言葉にはどんな意味があったのかしら」と読み手の立場から疑問をあげ、「この人はもっと臆病な人だったわ。こういう行動はとらなかったと思うの」と記憶に基づいてアドバイスをする。彼女のちょっとした肉付けで、人物がみずみずしくリアリティをおびる。些細な行動に大きな意味があったり、突飛な行動がごくつまらない理由のためだったり、およそ論理的ではない動機づけが妙に真実味をおびてくる。人間とは理屈の通りには動かないものなのだと、つくづく思い知らされた。
ある程度書き溜めてはメールで送付し、面会の予約を取り付ける。
順調だ。おおよその骨組みは完成した。あとは最終章を残すのみだ。それが一番難しいというところでもあるが――
レモンの輪切りを浮かべた、良い香りのする紅茶をすする。
港町のホテルのティールーム、屋敷街の喫茶店、老舗デパートのレストラン。指定されるのはひっそりとした「都会の隠れ家」的高級店ばかりで、最初のうちは落ち着かなかったが、慣れると抜群に居心地が良かった。
聞くのが遅すぎるようだけど、と原稿の束を繰りながら青柳は言った。
「小宮山さんは、どうしてこの事件を元に書こうと思ったの? ――もっと大きな事件、もっと注目されるような事件はたくさんあったでしょう。あなたは特にこの辺りにゆかりがあるというわけでもなさそうだし」
「あ、いいえ? 言っていませんでしたっけ。私、しばらくこの辺りに勤めていたことがあるんです。3年くらいですけど」
「そうだったのね。知らなかったわ。その頃から、編集をされていたの?」
「いいえ、全く畑違いで。個別指導の塾講師をしていました。大学時代からやっていたんですけど、就職浪人しちゃって、勤め先が決まるまで雇ってもらったんです」
本が好きだった私は、大学卒業の時点で出版社を志望していた。
しかし今も昔もこの業界は狭き門で、どこにも引っかかることのないまま卒業してしまった。あきらめきれず、編集技術が学べるカルチャースクールに通うことにした。
ありがたいことに、学生時代ずっとバイトをしていた塾講師として雇い続けてもらえることになり、金銭的な心配はなかった。私は生徒の成績を上げるのがうまかったのだ。子供の資質をよく見て、辛抱強く教えてやれば何も難しいことはないと思うが、普通はそううまくいかないらしい。評判を聞いて、私にぜひ教えてほしいと頼んでくる親がかなりいた。カルチャースクールを修了して、運よく編集の仕事にありつけなかったら、あのまま教育関係の仕事をしていたかもしれない。
「私も姪が個人指導を受けているわ。まだ小学生だから、早すぎるような気もするけれど。あなたも小さい子を教えていらしたの? それとも大学受するような歳の子?」
「中学生から、高校生が多かったですね。難関校を受験するタイプじゃなくて、クラスでもビリに近いくらいの成績の子をどうにか平均点くらいに持っていくような」
「そうなの。なんだか難しそうね。――印象に残っている子はいるかしら?」
メモをとる手を止め、顔を上げた。
ぎょっとするような近さに、完璧に化粧された青柳さくらの顔があった。
唇を突き出せばキスできそうな距離で、濃いマスカラとアイラインで縁取られた瞳が黒い穴のようにまばたきひとつしない。
「――あなた、そこで彼女と出会ったんでしょう」
ようやく尻尾を出したわね、と言う。吐息からレモンティーの匂いがする。
世間知らずの奥さま、とさもおかしそうに言い放つ金山晶子の顔が浮かんだ。
この女はそんなかわいいものではない。話の通じない異常者だ。
「あなた、柚野優希子を殺したわね」
答えられない私の手を青柳が捕まえた。骨まで凍っているようなその冷たさに、ピンクベージュのネイルが肌に食い込む感触に、我に返って、私は悲鳴を上げた。
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