第8話 2022年 それはあなたの腕
この女は、たぶん幽霊のようなものを見ている。
思えば最初から違和感があった。私に向けられた視線や言葉が、ふと逸れる瞬間があった。真正面の私から視線を外し、自分の横に立つ誰かを振り返るように小さく首を動かす。ちらりと視線を誰かと交わし、意味ありげに口元だけで笑ったりする。
外見がまともで、動作がごく小さいから目立たないが、一度気づいてしまうとかなり不気味だ。
「――ほぼ間違いなく、彼女だったって」
私たちは二度目の会合に臨んでいた。
本日の店は、やはり彼女が指定した、百貨店の中の喫茶店だ。
銀行女はカップを口元に運び、ゆっくりとダージリンを飲む。
控えめなベージュのネイルに、左手にはマリッジリング。平日の昼下がり、上等な服に身を包んだ彼女はいかにも優雅な主婦だった。頭のてっぺんから靴のつま先まで手入れが行き届いている。
銀行女の旧姓は児玉で、結婚後の今の姓は青柳という。
名前はさくら。あおやぎさくら。街路樹みたいな姓名だ。
児玉さくらの顔と名前は、当時の卒業アルバムで確認した。
高校生から有閑ミセスへと変貌を遂げてはいたが、基本的な特徴は変わらない。実は別人でしたということはないだろう。
「でも、当時は秋森さんは失踪扱いだったんですよね。普段の素行不良がたたって、まともに捜索はされなかったようですが」
「ええ。家出ということになっていたはず。お金や身の回りのものもなくなっていて、だいぶ前から計画的に持ち出していたんだろうって話だったわ。ご両親はその後すぐ離婚されて、そしてどちらもこの街を出ていったみたい」
「よくご存じですね。とても助かります。ところで、秋森さんの腕の情報は、何で見たのか覚えていらっしゃいますか? 新聞とか、ニュースとか。週刊誌でもずいぶん取り上げられましたからね」
「何だったかしら。たぶん、ニュースだと思います」
正確には、秋森梨花のものと断定されてはいない。
専門的なことはわからないが、劣化がひどかったのだそうだ。DNA判定を行える状態ではなかった。「10代女性のものと思われる」「切断されて8年以上は経過していないものと思われる」「秋森梨花の所持品が付近から見つかった」という状況から、恐らくそうだと判断されているに過ぎない。
「なんだかかわいそうですね。ご遺体が見つかるまで、誰も彼女に注意を払わなかったなんて――」
「あら、どうして遺体なの?」
青柳さくらの声は鞭をふるうように鋭かった。
驚いて顔を上げると、アイラインを引いた目を見開いた彼女の顔があった。
「いや、だって腕の骨が、」
「死んでいるとは限らないわ。そうじゃないかしら? 頭蓋骨が見つかったわけじゃないんだから。確かに腕を切断するとなったら大怪我よ。でも、適切な処置をすれば生きていられるはずでしょう。どうしてあなたは死んでいると思ったの? 何か根拠があるのかしら?」
「……いえ、根拠は特には」
「あら、そう。憶測ということね」
「でも、ふつうはそう考えるのが自然なんじゃないですか? 右腕の骨が見つかった、当人はずっと行方不明、生きていると思う方が不自然ですよ。あなたはなぜ、秋森さんが生きていると考えるんです? それこそ憶測じゃあないですか」
「憶測ではないわ。根拠のある話です」
「伺いたいですね、根拠とやらを」
「それは、まだできません」
はああ?と私はあえて小ばかにしたような声を出した。
荒っぽいが、インタビューにおける簡単なテクニックの一つだ。軽く怒らせて、頭に血を昇らせる。馬鹿にされるのは我慢がならないというタイプにはよく効く。
「おかしなことをおっしゃいますねえ。なるほど、ではいつになったらいいんです?」
「だって、盛り上がらないでしょう。最初から答えが出てしまうと」
はあ?とまた声が出た。意味の分からなさにいらいらしてくる。
「クライマックスを作った方がいいと思うんです。小説にはね。そうでしょう?」
彼女はにっこりと笑い、笑顔を張り付けたまま窓の方を向いた。
この女はたぶん幽霊のようなものを見ている――いったい誰の幽霊を?
「読む人がびっくりするような結末があるといいと思うの」
青柳は優しく知的な調子で言った。
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