ep 11. 圧倒的な差

 「おはようございます」



 午前八時四十五分、呉羽は森ボクシングジムの扉を開けた。


 練習生は九時から活動を開始し、一般の会員は営業中ならどの曜日の何時に来ても問題ない。


 ただし、パーソナルトレーニングを行いたい場合は、事前に予約が必要で追加料金が発生する。


 一般の人でそこまで真剣にボクシングに取り組む人はまずいない。彼らの目的は身体を動かして健康でいること、もしくは身体を引き締めることだ。


 ありがたいことに本日は琴鈴が探偵業の予定がないそうで、呉羽が働いている間はアリアを預かってもらえることになった。


 質問をされても対応できるように最低限の打ち合わせはしておいたが、うまくやれるだろうか。


 それだけが心配だ。



 「阿藤さん」



 呉羽がロッカーに荷物を入れてジムに入ると、昨日と同じ壁際のベンチで座っている宮田に声をかけられた。


 琴鈴に一方的に敗北し、自分より弱いと思っていた呉羽は彼女と対等に戦った。さらに、森が呉羽の方が強いと断言して琴鈴がそれを認めたことで、宮田は最弱だと結論づけられたのだ。


 これまで敗戦の経験がない期待のスター、次期日本チャンピオンの呼び声高い彼からすると、これ以上の屈辱はない。



 「宮田くん、昨日のことは気にしなくていい。彼女は初心者のふりをした経験者だ」



 このような慰めも宮田に効果がないことはわかっているが、自信を喪失したままタイトルマッチに挑んでほしくない。



 「今まで偉そうなこと言って、すみませんでした。自分がこのジムで一番強いと思ってて、調子に乗ってたんです」


 「宮田くんに才能があるのは事実だし、プロにならなかった俺に見えない景色を見てる。もっと高みを目指せると思うよ」



 昨日までの厚顔無恥がまるで嘘のように大人しくなった宮田を見ていると、爽快というよりは物足りない感じがする。



 「お願いです。俺と本気でスパーしてください。もっと強くなりたいんです。俺に強くなる方法を教えてください」



 宮田がベンチから立ち上がって呉羽に頭を下げた。その様子を他の練習生がちらちら見ている。



 「阿藤、教えてやれ。お前のすべてを。そして、宮田を世界へ送り出してやってくれ」



 扉を開けてジムに入って来た森が話を聞いていたようだ。


 すでに森は呉羽の実力を知っているのだろう。まだ本気を見せたことはなかったが、彼は世界を獲った男だ。


 見る目も凡人のそれとは違う。



 「わかりました。宮田くん、一ラウンドだけだ。タイトルマッチに影響が出ると困るから」


 「はい!」



 宮田は森の指示でヘッドギアをつけたが、呉羽はつけなかった。これに対して森が何も言わないのは、宮田の拳が呉羽に当たることはないと確信しているからだ。


 ゴングが鳴り、ふたりはコーナーからリングの中央へと歩み、お互いの拳をタッチして戦闘態勢に入った。


 呉羽はフィリーシェルスタイルで適度に距離を保ち、宮田はピーカブースタイルでガードを固めて距離を詰めようと前に出る。


 昨日のカウンターを見ているために、なかなか宮田から手は出さなかった。


 呉羽のジャブが二回宮田のガードに当たり、宮田はジャブを返そうとした。だが、そのときすでに呉羽は上体を沈めて宮田の左拳を下から潜り込み、右のフックを叩いた。


 不意を突かれた宮田はヘッドギアをつけているにもかかわらず、頭を振られて足元がおぼつかなくなった。


 そこからは呉羽の一方的な攻撃が続いた。時折見せた宮田の反撃は一撃もヒットすることなく、呉羽は最後にボディブローを浴びせて三分が終了した。


 一度もダウンすることはなかったが、誰が見ても実力差は歴然だった。



 「駄目だ。全然当たらねえ。阿藤さんがプロになってたら、余裕で世界チャンピオンになってたんじゃないすか?」


 「そんなに簡単じゃないよ」



 それにルールの中での殴り合いなんて俺には向いてないし。



 「俺、もっと強くなります。そんで阿藤さんと一緒に世界のトップに立ちたい」


 「意気込みは素晴らしいけど、その前に日本を獲らないとね」


 「わかってます。絶対にやります」



 宮田は呉羽に完膚なきまでやられた後だったが、素早いジャブを繰り出してステップを踏んだ。


 彼は確かに才能があるが、人格が伴ってこそのアスリートだと呉羽は考えている。


 この日から彼は驚くほどに呉羽の指示に従順になり、さらに高みを目指すのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る