ep 8. 手練れの素人

 体験で森ボクシングジムにやって来た琴鈴と、トレーナーの呉羽がリング上で向かい合う。


 手加減して相手のレベルに合わせることは難しくないが、問題は彼女がこのジムでもっとも実力がある宮田を簡単にノックアウトしたことだ。



 「阿藤さん、本気で来てくださいね。あなたが私より強ければレベルを合わせてもらってもいいですけど、そんな余裕はないでしょうから」


 「どこかでボクシングを?」


 「いえ、はじめてです。ルールがある格闘技は経験がありません」



 ルールがない喧嘩には慣れているという意味か?


 琴鈴のあまりにも自信に満ち溢れた表情から少なくとも経験者であることを期待したのだが、どうやら彼女はあらゆる意味でアウトローな存在のようだ。


 リングから離れた壁際のベンチで宮田がこちらを睨みつけている。このジムの王様だった彼が体験に来た初心者と自称する女性に負けたのだ。


 気持ちは理解できるが、呉羽の本心はスカッとした。


 最近の宮田は以前に増して天狗の鼻が伸びきっていた。それでも呉羽が何も言わなかったのは、彼のモチベーションを保つため。天狗は鼻を折られると、次の木へと跳び移る脚に力が入らなくなる。



 「阿藤さん、はじめますよ」



 呉羽もヘッドギアはつけなかった。


 森はふたりを黙って見ているだけで何も言わない。琴鈴の実力が宮田より圧倒的に高いことはわかっているはずだ。


 そして、呉羽がいつも手加減をして本気の拳は封印していることも森は知っている。


 体験の女性と本気でヘッドギアなしのスパーリングなど責任者としては禁止すべきところだが、元ボクサーとしての好奇心が優っているらしい。


 呉羽はまず琴鈴の真の実力を測るために得意のアウトボックススタイルで距離を取り、琴鈴のジャブをかわす。


 確実に人の弱点を突き刺すように鋭いジャブが次々と飛んで来る。それだけで彼女が宮田より上であることはわかった。


 あまり手加減をすることもできないようだ。であれば、彼女に怪我をさせないようにして時間一杯逃げ切るしかない。



 「逃げてばかりで時間を使うつもりでしょうが、それはできませんよ?」



 琴鈴はこの状況に嫌気がさして低くした体勢のまま呉羽の懐に入り、左のボディを放った。それを右の肘でガードして、顔に向かって来る右ストレートを左の拳で弾いた。


 これで防げたはずだった。しかし、右の脇腹を鈍痛が貫いた。


 琴鈴は左のボディを囮に使ってガードが下がったところに右のストレートを放ったが、そのストレートすらも囮に使って左のリバーを突き刺したのだ。


 呉羽は痛みに顔を歪めるが、さらに眼前に突きつけられる拳から上体を後方に逸らすスウェイバックで避け、バランスを保つことすら難しい体勢で足を踏ん張って右のアッパーを打ち込んだ。


 確かに手応えはあったが、そこで呉羽は我に帰った。相手は体験に来た女性だ。ヘッドギアなしで顔に打撃を加えることなど許されない。



 「大丈夫ですか⁉︎」



 焦る呉羽をよそに琴鈴は両手で顔をガードした状態で立っていた。


 信じられない。あの速度のカウンターに反応するなど。


 あのアッパーは呉羽が今までこのジムで宮田にすら見せたことがないほど鋭いものだった。


 初見で、しかも女性の力で完璧にガードするなど、どう考えてもありえない。


 琴鈴が再び構えたところで、外から見ていた森がゴングを叩いた。



 「そこまで。お嬢さん、素晴らしい才能だった。しかし、これだけは言っておく。阿藤には勝てない。このジムで大怪我をさせるわけにはいかないんだ」



 森は琴鈴を見て真剣な眼差しを向けた。


 琴鈴は決着をつけたかったようだが、すべてを察してリングを降りた。



 「元世界チャンピオンがそう言うなら正しいのでしょう。それに、手合わせをしてわかりました。阿藤さんはまだまだ私を気遣っていましたから、本気になったら私では敵わないです」


 「いや、今まで手合わせした誰よりも強かったです。それがさらに女性だというのが信じられませんよ」


 「ありがとうございます。突然お邪魔しました。入会は少し考えさせてもらいますね」


 「よければシャワーを使ってください。誰も入らないようにしますので」


 「いえ、着替えもないですし、帰ってシャワーを浴びます」



 琴鈴は深くお辞儀をしてジムを出て行った。


 時計を見ると、午後三時十五分を指していた。


 まずい。アリアと買い物の約束があるから、早く帰らなければ。



 「会長、これで失礼します」


 「ああ、お疲れさん」



 茫然としている宮田を一瞥して呉羽はシャワー室に向かった。

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