ep 7. 不適な微笑

 「それじゃ、ヘッドギアとグローブをつけてください」



 体験に来た女性、琴鈴は嬉しそうに指示通りの装備をつけてリングに上がった。その様子を呉羽は心配そうに眺めていた。


 相手は宮田。女性がスパーリングをしたいと言うと、それなら日本チャンピオンの俺がやると意気揚々に出て来たのだが、この状況は非常に不安だ。


 彼は調子に乗って怪我をさせたり、余計なことをする可能性がある。


 言い出すと聞かない性格なので、森も半ば呆れて止めようとしなかった。



 「時間は一分。宮田くん、くれぐれも怪我をさせないように頼むよ」


 「わかってますよ。こんな綺麗な女性本気で殴るわけないっしょ」



 呉羽は容姿を基準にしていなかったが、宮田はヘッドギアをつけずに琴鈴を見て微笑んだ。下心が見え見えだ。



 「じゃあ、はじめ」



 呉羽の合図で練習生がゴングを鳴らした。



 「まずはお互いのグローブをタッチして挨拶から」


 「こうですか?」



 宮田が差し出したグローブに琴鈴は自らのそれを軽く当てて、スパーリングを開始した。


 宮田はジャブやストレート、フックなど基本的な動きを事前に教えていた。普段通りのインファイトで琴鈴と距離を詰めて、彼女の打撃を受け流す。



 「本気で殴ってもいいですか?」


 「もちろん。プロが相手なんだから遠慮しなくていいよ」



 その刹那、琴鈴の目が変わったことを呉羽は見逃さなかった。素早い動きで左のボディを鳩尾に突き刺し、返す刀で右のフックが宮田の顎を掠めた。


 宮田は全身から力が抜けたように床に膝をついた。


 見ていた練習生は宮田がパフォーマンスとして琴鈴を喜ばせようとしていると思い込んでおり、「やられてるじゃん」などとふざけながらリングに野次を飛ばした。


 あの一瞬の動き、その目で確認できたのは会長の森と呉羽のふたりだけ。



 「これは、ダウンですかね? 立てますか? あと三十秒ありますよ」



 琴鈴が優しく宮田に問いかけるも、彼は怯えた表情をして琴鈴の目を見た。


 宮田はそんなはずがないと頭を振って立ち上がったが、脚が震えている。


 あの一撃で琴鈴に対する恐怖心が脳内に刷り込まれた。さらに、顎を掠めた打撃は、確実に神経を蝕んでいる。


 彼女は何者だ?


 初心者である可能性はゼロに等しい。



 「ふざけるな。そんなわけないだろ!」


 「駄目だ! 宮田!」



 呉羽の言葉も気に留めずプライドを傷つけられた宮田は実践さながらの身のこなしで琴鈴に右ストレートを放った。


 琴鈴はその拳を冷静に見切って頭を左に振り、相手の体重と自らの勢いをぶつける右のカウンターが再び顎を掠めた。


 宮田は勢いのまま前方へとリングに倒れ、同時に一分を告げるゴングが鳴った。


 この様子にはさすがに練習生たちも黙ってしまった。宮田の動きは他の誰よりも素早くキレがあり、さらにそれを上回ったカウンターで琴鈴がこのジムのスーパースターを倒してしまったからだ。



 「私の勝ちですね。プロになっちゃおうかな」


 「何もんだよ、お前!」


 「体験に来た客、しかも女性に向かってお前とは失礼じゃないですか? そうやって鼻を伸ばして傲慢な態度だから、少し痛い目に遭ってもらおうと思いまして。私も大人気ないですよね。まあでも、華奢な女性に負けた混乱もおありでしょうから、多めに見ます」



 静まり返るジムで、琴鈴は上品に微笑んで呉羽を見た。



 「できれば、あなたと手合わせがしたいのですが」


 「俺、ですか?」


 「ええ、だってこのジムで一番強いのはあなたでしょう?」


 「何言ってんだよ。そいつはプロになる才能もない趣味でやってるトレーナーじゃねえか。日本チャンピオンになる俺より強いわけねえだろ」



 宮田は立ち上がって負けた悔しさを呉羽にぶつけるように言い放ったが、それでも琴鈴はただ微笑んでいた。



 「宮田さん、でしたっけ? 僭越せんえつながら、あなたと手合わせをしている阿藤さんは、自信を持たせるために手加減をしていましたよ。いつも相手をしてもらっていたのに、気がつかなかったんですか? あと、あなたの実力ではチャンピオンになれたとしても先はないでしょう」


 「そんなわけねえだろ! 俺だって手加減してやってたんだ! てめえに何がわかるんだよ。俺はいつか世界を獲るんだ」



 琴鈴は見苦しく反論を繰り返す宮田に嫌気がさしたようにため息をついた。



 「では、証明しましょう。阿藤さん、リングに上がってください。私はもう手加減しません。本気でスパーリングをしましょう」



 琴鈴はそう言って頭に被っているヘッドギアを脱いでコーナーにいた練習生に渡した。


 その雰囲気は先ほどまでいた上品で柔らかい雰囲気の女性とはまるで別人だった。

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