とうの昔にその劇は崩壊していた

夢幻残夢

とうの昔にその劇は崩壊していた


俺には幼馴染みが居た。


太陽のように明るく、誰よりも輝いていた男。国語が得意で、生物が苦手。高校生にもなってピーマンが食べられなくて、無理に食べようとするとくしゃっと心底嫌そうに顔をしかめて食べるのだ。一体その様に何度笑っただろうか。高校の時は少ない小遣いで必死におしゃれをしていて、彼女が欲しいって内心があまりにも透けて見えていた。オマエ、気がついてなかったけど孤児院の先生も苦笑いだったからな。服のセンスが無ぇんだよ。センスが。


でもソイツは高2の夏に蒸し暑い教室の中で、自殺した。


第1発見者は俺で、第2発見者はその後に入ってきた友のツツミだった。“何で”だとか、“どうして”だとか。意味の持たない現実逃避のような言葉がぐるぐると巡り巡って脳を支配して、指の1本ですら動かせなかった。それでも五感は真実を俺に否応無く突き付けてくる。視線はアイツに釘付けで、アイツが揺れる度にギシギシと嫌な音が塞ぐことすら出来ない耳に入ってきた。直ぐさま警察に連絡を入れ、現状をどうにかしようと動き出したツツミはただの木偶の坊だった俺とは全然違った。


嫌な記憶がよみがえるのは強い覚悟を持ってアイツを忘れてはならないと思っているからか。俺は今丁度10年目の命日に、アイツの墓へ来ている。ただの現実を知らない幼いガキは既に消え去り、27歳になった俺は立派な警察官になっていた。職場では上からの覚えも良く、キャリア組として日々精進している。


それの全てはかつて、アイツが死んだ理由を探るために。


毎年恒例になったざらざらとした白い墓への報告を済ませれば、どっぷりと暗くなった墓地に冷たい風が吹き、俺の首を撫でた。すっかり夜の帳が下りた真っ暗な世界では月明かりと線香の光だけが俺を照らしている。


上っていく煙を眺めていれば、不意にその奥の大木に止まっているカラスと目が合った。じっと動かずにこちらを見る双眼は黒く、場所も相まってか酷く引き込まれそうな魅力を感じさせる。全身が夜の闇に溶け込むのに適するためだけに、その羽に黒い絵の具を塗られたようなカラスは、暗さ故か存在の境界でさえ朧気に見えた。


ぼぉっとそれをただ眺めていれば、不意に背後から硬質な靴がコンクリートを打つ音が聞こえる。俺はその存在に特に何かを思うこと無く、隣にしゃがみ込んだことに違和感を覚えることすら無い。そこへ来たのは、先の思い出よりも10年分歳を重ねたツツミだった。


「あれ?快晴かいせいもこの時間に墓参り?」

「まぁな。一年ぶりだし、報告したいことは山ほどあんだよ。夕方頃に来たんだが…そう考えると大分長く居たな。」

「えぇ!?今かれこれ22時だぜ?いくら何でも話したがりすぎだろ!」

「ツツミ、いくら他に人が居なくてもここは墓場だ。静かにするべきだ。」

「ははっ、成人なりとが死んでから一気に引き締まった性格は緩まないねぇ…。昔は俺の事もまことって呼んでくれたのに、今は名字で呼ぶようになっちゃったし。いくらなんでもお前固すぎだって。同僚だから仕事場以外は別に真で良いんだけど…。」


死んだナリトの墓の前で大声を上げるツツミに注意を飛ばせば、俺がツツミを名字で呼んでいることが不服だと毎度のことながら言い始めた。


10年目という節目だからだろうか。口が少し軽くなっているツツミを面倒臭く思いながらも、こいつの名前だけは絶対に呼んでやろうとは思わない。一度こういったことで緩めば芋づる式に色々と許してしまうためだ。特にツツミはそういうことにつけ込むことが非常に上手い事を俺は身を以て知っていた。


「…成人はさ、良い奴だったよな。映画が好きで、演劇が得意で…将来の夢は舞台俳優だったっけ?」

「あぁ。お前、ナリトの夢、覚えてたんだな。じゃあナリトの好きだった演劇の名前、覚えてるか?」

「…えーっと、そんな話してたっけ?」

「散々言ってただろ。」


心底呆れながら俺は久しぶりにツツミをまともに見た。いつもは忙しすぎていちいち顔なんて見ていられないし、部署も違うから話すこともあまりない。それにしてもあんなに再三話されていたことを忘れているところから、本当に興味無かったのだろうと少し悲しくなる。


「“ハムレット”だ。ウィリアム・シェークスピアの有名な劇の1つ。」

「あー…俺あんまり劇とかわからねーんだよなぁ。」

「そうか…簡単に言えば喜劇だ。…あぁ、喜劇だ。」


キャラクターがストーリーテラーの掌の上で転がされて作られた悲劇など、喜劇と呼ばずになんと呼ぶのか。そんなものは愚かで観客に笑われる為だけに存在する話だ。それでも、成人はそれが好きだった。


「にしても…なんで自殺したんだろうな。成人が自殺したなんて、俺は信じられなかったよ。」

「だから、それを知るために警官になったんだろ。アイツを追い詰めた物を見つけるために。」


俺はそれに人生全てを賭けている。幼馴染みを、親友を、死に追いやった悪を探す事に。その為だったら何でもすると、決めていたのだ。あの日、あの時、目の前で揺れるアイツを見てから、それが揺らいだことは一度も無い。過去の臆病な自分自身を殺したあの時からずっと、ずっと。


「なぁ、もういいんじゃないか?」


力強く言い切った俺を心配そうに、気遣わしげに窺いながらツツミはポツリと言葉を溢した。スッと並び座るその目を見れば、色濃い不安が渦巻いている。


「お前が成人に縛られ続けて、もう10年だ。原因を探すにしても時間が経ちすぎてる。もう、良いんじゃ無いか?あの優しい成人だってお前がこの件に縛られ続けることを良しとはしないはずだ。あの声で、“僕に縛られ続けないで”ってきっと言ってるはずだ。」


血反吐を吐きそうな程の悲痛な叫びは周囲に空しく木霊していく。よりにもよってそのことを同等に引き摺っているお前が言うのかと内心で憤りながら、それを逃すように吐息をこぼす。


だが最早、この憤りでさえこれからの俺は抱くことが無くなるのだろう。


「んなこと、お前に言われなくても俺が一番分かってるわ。だから、今日ここで全部置いていこうと思って夕方から来てたんだよ。もうここにはこれねぇからさ。」

「そうか…そうかぁ。」


ぞんざいにそう言えば、あからさまに安堵したような顔になったツツミはすっかり気が緩んだのか大きくため息を吐いた。再び墓石に向き合ったツツミは昔を思い起こすように墓石を通して遠い過去を見ていた。


「にしても、成人のやつ、マジで演技上手かったよな。10年前のあの日、快晴そっくりにメイクしてきてたんだろ?俺、あのとき快晴が2人居てびびったんだぜ。」


確かにロープで首を吊っている男と瓜二つな男が目の前で呆然としていたらさぞ驚くだろう。まさか誰も身近な人間に成り代わった状態で自殺するという他に類を見ない方法で自殺するなんて思いもしないだろうから。


当時もそれのせいで少し世間がざわついたものだった。


勿論3日もすればそれも風化してしまったが、俺の心には杭を打ち付けられたかのように深く、深く、罪が刻みつけられている。何にも気がつけなかった自身への、周囲に気がつけなかった自身への罪。


10年抱えてきたそれを今日、ここに置いていく。


「俺さ、遠いところに行くことになってさ。」

「あぁ、地方にいくことになったって言ってたよな。快晴なら大丈夫だって。何てったって明るくて、社交的なんだからよ。」

「だから、だからさ、ここに全部おいてかせて貰うな。」


震えそうになる声で必死に墓石に決意を述べる。迷いに迷ってここまで来た10年。オマエが死んで経った時間。これでやっと俺は前に進むことが出来るのだ。


ふと、アイツが死んでからも見続けたハムレットの一節を思い出した。


生きるべきか死ぬべきかそれが問題だTo be, or not to be, that is the questions。」

「ん?何それ。」

「ハムレットの有名な台詞だ。今までの俺にぴったりだと思ってな。ハムレットが復讐するか否か、選択すべき状況で悩み苦しんでいる姿を表わすのに使われた言葉だ。」

「ふーん。」


あまり興味が無いのだろう。生返事を返された。ツツミの劇に対する興味が上がったことはこれまで1度も無い。当時散々話していたのだから少しくらい興味を抱いてもおかしくは無いだろうに。こいつは一貫して興味を持たなかった。


しゃがんだままのツツミが腕時計に目をやる。良い時間だったのだろう。俺を窺うように顔を上げた。


「…もう良い時間だな。そろそろ帰るか。」

「あぁ、そうだな。」


了承の言葉にツツミが立ち上がる。俺もそれに合わせるように立ち上がった。そのまま歩き出し、背を向けて離れていくヤツに、俺は腰にずっと下げていたそれを構えた。


ずっとこちらを見ていたカラスが音を立てて羽を羽ばたかせ、驚きを抱きながらどこかへ飛んでいく。硝煙が筒の先から、先の線香の煙の様に立ち上っていく。ツツミは何も理解できていないのか、撃たれた足を押さえながら無様に目を白黒させてうつ伏せに地面に転がっている。続く、痛みにうめく声。


すっかり覚悟の決まった俺には、その様相に特に何か思う事も出来ない。固まった決意を緩ませることが、俺自身が辛くなることに繋がることは火を見るよりも明らかなことだった。故に、何も思わない。思ってはならない。


ツツミは愚鈍な頭でやっと状況が理解できたのか、キッと俺を睨み付けた。


「クソッ…!お前、何すんだよ!」


憤るツツミを横目に、俺は右手で胸ポケットから取り出した重くてクソほど苦い煙草に火をつける。タールの含まれた毒煙が肺を満たし、疲弊した体を更に重くさせたように錯覚させる。


それが今は心地良い。


「何すんだって…お前が一番分かってんだろ、人殺しが。」


被っていた皮の下にあった俺の悪辣な顔が覗く。ツツミが目を見開いた。何故知っていると言いたげな反応に俺は嘲笑しか出てこない。本当に知らないとでも思っていたのだろうか。あまりにもお粗末な頭に笑いを通り越して、涙が出てきそうだ。


俺はアイツの墓に座りながら律儀に返答を待つヤツに嗤って言ってやった。


「全部、全部知ってたに決まってんだろ。お前が、あいつを妬んでたことも、俺を疎ましがってたことも全部な。」


そう、俺はちゃんと知っていた。常にクラスの中心だったアイツに鋭い目を向けていたことも、そっくりな俺達が共に居るときにあからさまな嫌悪が滲みでていたことも。


「お前はアイツを嫌っていた。まぁ、クラスの人気者だったからな。お前に言わせてみれば、明るくて、社交的で、文武両道。だからお前はアイツをスクールカーストから引きずり落とそうとしたんだろ。」


今思えば、随分と洒落にならない嫌がらせを受けていたのかもしれない。


俺自身は何をされたかは知っていても、それを実際に行われたアイツの心理的負担は半端ではなかっただろう。それに強いアイツの事だ。嫌がらせ自体にさほどストレスは感じていなかったのかもしれない。


しかし昼はニコニコと笑顔で話しかけてくる級友が、裏ではその嫌がらせをしているのかもしれないという状況では、人間不信になってしまってもおかしくはなかった。あの太陽のような笑顔の下でアイツは一体どれほどの苦痛を抱え込んでいたのだろうか。


何よりそれに気がつけず、相談相手にすらなれなかった自身に腹が立つ。アイツが1人で死んだのは、アイツにとって俺は完全には信用出来ない存在だったということに他ならないのだ。死んでからやっと気がつくなんて、あぁ、虚しすぎる。


顔の青くなったツツミはすっかり威勢を無くし、静かになってしまった。


「お前の計画は上手くいったよ。嫌いな奴を自殺にまで追い込んで、俺を第1発見者にすることで容疑者として周囲に疑念を持たせる。そのせいですっかり俺の立場は地に落ちた。」


あの時、俺に近づいてきたのは周囲に良い印象を与えさせるためと俺からの信頼を得るためだったのだろう。本当に人につけ込む事が上手い。


だがそんなツツミにも予想外な事があった。


「それでも成人が快晴のフリをしていたことは予想外だったんだろ。成人の病欠が多かったのは体調を崩していた快晴の代わりに成り代わって学校に行ってる時があったからだ。何分、容姿がそっくりだったからな。演劇の練習の延長線上みたいなものだったんだ。まぁ孤児院の先生以外は知らなかっただろうけどな。」


快晴が病気などの時、成人はわざと快晴のフリをして学校に行っていた。そのことは孤児院の先生方には暗黙の了解があり、諦めたように笑って許してくれていた。


そしてアイツが帰ってこなかった次の日、俺は教室ですっかり冷たくなったそれを見つけたのだ。


「俺が全部知ったのはアイツが死んで2年後の事で、全てを書かれた日記を呼んだんだ。流石、頭の良い奴だからか、ツツミ、お前がやったことを誰が見ても分かるようにちゃんと残してくれていたよ。」


あぁ、吐き気がする。2年もの間、眼前の男を友として扱っていたことも、自身の節穴具合にも。ぐつぐつと積年煮込まれたどす黒い感情の中にも、当時ツツミに対しての信頼は確かにあった。しかしそれは既に憎悪に変化し、今ではそれを更に黒く染めるためのスパイスにしかなっていない。


親友を奪っておいて、笑っている眼前の男が赦せない。親友の立場を奪って人気者になったことも赦せない。赦せるはずが無かった。だが、赦されないのは俺も同じこと。明かされこそしなかったがツツミよりもよっぽど罪深いことをしているのだから。


すっかり短くなった煙草をざらりとした墓石に押しつけて消す。白い墓石についた黒い跡が俺がここに存在することを示していた。


「8年だ。俺が臆病で決心を固めるのにかかった時間は、きっと長かっただろうな。随分と待たせてしまった。」


墓石から飛び降り、這いずってでも逃げようとしている男の眼前へ回り込んで頭に照準を合わせた。うつ伏せのままガタガタと体を震わす男を見て、強い失望感と愉悦が顔を覗かせる。しかしその中にも確かに、悲しみがあったのだった。


これで、全てが終わるのだ。


元友人のよしみで、穏やかにを心がけて普段の引き締まった顔を緩ませた。


「殺人犯には似合いの最後だろ。アイツとは違って苦しみは一瞬だ。一足先に地獄に行っててくれ。それに安心しろよ。俺の射撃の腕は知ってるだろ?絶対に外してやらねぇから。」

「快晴ェ!!」


必死の声をかき消すような2度目の銃声。


既に亡骸となったそのものに慈悲とばかりに俺の最大の罪の答え合わせをしてやる。


。」


銃を下げ、親友であるアイツが入って居る墓の前へと移動する。真正面からそれを見て、俺は先とは違う本心からの笑みを浮かべるのだ。


「随分時間がかかってすまなかった。…いや、違うか。ごめんね…だね。10年越しの復讐は果たしたよ、快晴。」


表情も、口調も、先程とは一転して柔らかく、本来の俺…否、“僕”に戻していく。10年ぶりのこの表情と口調は最早違和感を抱いてしまうほどで、時の流れを強く感じた。


今日という節目までにケリをつけなければと常々思っていた。元友人だからと復讐する決意を抱けなかった臆病なは、。だから夕方からずっとツツミを待っていたのだ。もう、後戻りは出来ないように。


左手に握る未だ冷たさの残る拳銃をしゃがみながら地面に置き、僕は懺悔するように墓石に手を合わせる。快晴の名を奪い、汚してしまった事への懺悔を。ただただその赦しを請うた。


そもそもとうの昔にこの劇は崩壊していたのだ。キャストを正しく配役できていない欠陥だらけの劇だった。気がついたスタッフも直すことが出来ないほど欠陥を持つ舞台。主人公を演じる人物が変われば同じ物語でも全く同じ物にならないことは当然のことだと僕はよく知っていた。


ウィリアム・シェイクスピアの戯曲、“ハムレット”は王子であるハムレットが、父を毒殺して母と結婚した叔父に対して復讐をするために狂人のふりまでする物語だ。


あぁ、まるで自身のようだと僕は思う。王子ハムレットは内向的で、懐疑的で、非行動的で、決断力に乏しかった。しかしながら悩みながらも復讐の為に狂人のふりをして、それを見事に遂げるのだ。本当に僕のような存在だった。だから好きだったのだ、“ハムレット”が。


僕は復讐を成すために、ハムレットのように自身を別人に塗り替えてまで復讐を成したのだ。彼はふりであったが、これが狂気でなくて何が狂気なのだろうか。正しく僕は狂人であったのだろう。


今までの全てを戯曲のキャラクターになぞらえるならば、僕には後1つだけ仕事が残っていた。


立ち上がって僕の名前の入った墓石を見る。もう沢山買った線香は無い。代わりとばかりに口にくわえながら煙草に火をつけ、少し吸ってから供え場所に置いた。湿気の多い銘柄なので2,3分もすれば火は消えてしまうかも知れない。それでも今はこの狼煙が天に居る快晴に届けば良いと思った。


立ち上がり、自身の頭に銃身をつける。どこか鬱屈で、憂鬱でありながら、晴れ晴れとした気持ちだった。


そうして、最後に親友に今生の別れを告げていなかったことを思い出す。僕は無理矢理口角を上げて笑って見せた。


親友よ、また会う日までSee you in the next world, dear my friend!」

──あぁ、喜劇だ。


そのまま僕は引き金を引いた。


***


再び戻ってきたカラスが黒いガラス玉のような目で、大木の上からそれらを眺めた。彼は何を思ったのか、“成人”と書かれた墓石の上に止まり、その正面に居座るただただ満足そうに微笑む死体を見て、首を傾げていたのだった。

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