第20話:それ、本にしないんですか?


「ダニエル! 待ってくれ!」


 背中にぶつかるように聞こえたジャンの声を無視してダニエルは走り続ける。いつもであればすぐさま立ち止まり、ジャンに駆け寄っていただろう。だが、今はそれができなかった。

 ダニエルの胸の内に渦巻いたさまざまな感情ものがジャンのそばに行かせてくれない。自分が怒っているのか、悲しんでいるのかわからない。泣き叫びたいのかもしれなかったし、笑い出したいのかもしれなかった。


「ダニエル!」


 悲痛な音色の声と共に腕を掴まれ、そこでようやくダニエルの足は止まった。

 なんでおまえのほうが泣きそうな声なんだ、泣きたいのはこっちだ、とダニエルは振り返ることもせずに自分の足元を見ていた。

 ダニエルの靴は平民以下の人間がよくはいている革靴で、見るからにぼろぼろだった。靴を作るための皮ではなく、他の革製品を作る工程で出た端切れを繋ぎ合わせて作られた、かろうじて靴に見える安物。

 比べてジャンが今履いている靴は光を受けて黒光する革靴で、いかにも高級品だと分かる一品だった。靴だけではない。着ている服、身につけている装飾品、住んでいる場所、食べている物でさえダニエルが想像もできないほど良いものが与えられ、元孤児とは思えないほど洗練された所作はまるで初めから貴族そうであったかのようだった。

 ジャンのことならなんでも知っていると思っていたのに、知らない他人にんげんのようだった。


「やっと捕まえた。あいかわらず足が速いね。せっかく街で会えたんだから、少し話そうよ。時間はあるから、大丈夫。美味しいケーキがある喫茶店を聞いたんだ、いっしょに──」

「おれにはねえ」


 話す時間も、気も。

 ジャンが息を呑む音が耳に届いた。振り払おうとしたジャンの手はびくともしない。ダニエルは鼻の奥の痛みを誤魔化すために強く目をつむった。

 買い物に出た先で久しぶりにジャンを見かけたダニエルはもちろん話しかけようとした。周囲に貴族がいないかを確認して、駆け寄ろうとしたのだ。けれど、ダニエルの知らない女性と談笑しているジャンを見て駆け寄ろうとした足も、振ろうとした手も石になったかのごとく動かなくなった。雷に打たれたような衝撃に打ちのめされ、知らず知らずのうちに胸元を握りしめていた。

 嫌な音を立て始めた心臓に追い立てられるようにダニエルは踵を返して走り出していた。一瞬、視線のあったジャンを無視して。

 心臓の痛みはまだ続いている。痛みは治まるどころかひどくなっているようだった。


「お貴族様が貧乏人なんかと話してていいのかよ。さっさと戻って、さっきのきれいなネエチャンとヨロシクしてろよ」

「きれいな、って、ダニエル、待って、誤解だ、彼女は──」

「うるせえ!」


 力の限り腕を払って、けれどもやはり掴まれた腕は自由にならなくて、ダニエルは苛立ったままジャンを睨め付けた。困ったように下がった眉尻のジャンは、しかし微笑んでいる。


「なに笑って──?!」


 唐突に抱きしめられたダニエルは思いきりジャンの厚い胸板に顔面をぶつけた。知らない匂いと、懐かしい匂いに涙が勝手に滲んだ。


「誤解だよ、ダニエル。彼女は屋敷の使用人で、ただの知り合いだったんだ、買い物の帰りに偶然会って挨拶しただけだよ」


 本当だよ、と重ねてジャンがダニエルに囁いた。逞しい腕に力強く抱かれたまま、ダニエルはジャンの言葉を噛み砕いて、それから反芻する。

 ただの知り合い。偶然会っただけ。

 自分の早とちりであった、と理解したとたんに羞恥が爆発して、ダニエルの頬を真っ赤に染めた。


「僕はダニエル以外に心を奪われたりなんか絶対にしないから安心して」


 嫉妬してくれたのは嬉しいけど、と照れたようなジャンの声音にダニエルの羞恥は限界を突破した。


「──……というわけで、オチをどうしようか迷っているのです。ダニエルは恥ずかしすぎてジャンを叩いてしまうのか、それとも逃げ出してしまうのか……」

「どっちもありえそうですもんね。ジャンダニのオチとしてはラッヴラヴなイチャイチャオチもアリだと思いますが!」

「それはそれで素敵ですけれど、ちょっと解釈が……」

「あ~なるほど~」


 ジャンダニを応援する会の同志おねえさんに話があると呼び出されて、のこのこ出かけていった喫茶店で聞かされたのはジャンとダニエルを間近に見ているうちにできたという素晴らしい妄想おはなしだった。

 オチがまだできていないとはいえ、素晴らしいものは素晴らしい。これ本にしないんですか?


「ちなみに当て馬の女使用人は私です!」

「ヒュー! 作者の特権! で、これ本にしないんですか?」


 私の言葉に同志おねえさんはきょとんとしたあと、ゆるく首を横に振った。


「いえ、本だなんて。とんでもないことですわ。本にできたなら素晴らしいのでしょうけれども、気軽に作れるものではありませんから」


 なんと。ジャル学世界このせかいは本が気軽にできないのか。もしや羊紙皮に手書きの時代か?


「写しの魔術はありますけれど、やはり紙は高価なものですから」

「紙って羊紙皮ですか?」

「ええ。魔物の皮も使われる場合があるそうですけれど、皮は紙以外にも使われていますからどうしても高価になってしまうのでしょうね」

「なるほどお!」


 これは経験が生きたな!

 紙の作り方なら日本のオタクは当然ご存じですね! なぜなら有名WEB小説の主人公に本狂いの幼女がいるからだ!

 アニメ化もした某作品の主人公は無類の本狂いで、識字率が低く本が普及していない異世界に転生してしまい、ないなら作るの精神で和紙を作って本を作ったのだ。

 いやあ、心ゆくまで本を読むために困難にぶつかりながらも結果、世界の裏支配者的な存在に成り上がっていく様は爽快だった。

 というわけで、ないなら作ろう同人誌! 私は尊いジャンダニ話を形にして残したいんだ!

 王都は川が近いし、森もあるし、魔物もいるし、魔術もある。いけるだろ和紙作り!

 そんなこんなで私は数ヶ月をかけて和紙を作り始めた。

 情報屋とイーヴの協力のもと和紙を作り、足踏みミシンでお世話になった機巧カラクリ作りの鍛冶屋さんに印刷機を作ってもらい、ついでにインクも作って、同志おねえさんが完成させたジャンダニの話を和紙に印刷していった。

 刷り上がったページを私は万感の思いで丁寧に和綴の本にしていった。最後のひと針を通して糸を切る。こうしてこの世に一冊目のジャンダニ本が完成したのだった。

 本としては薄い。本というより冊子だが、この世界で一番初めにできたジャン×ダニ本。聖書じゃん。

 私は早く読みたくてしかたなかったが、ぐっと我慢して作者に本を届けるべく街を疾走した。

 この本の原稿を書き上げるために同志おねえさんは夜も眠れなくなるほど悩んで推敲をしたのだ。その苦労が報われなければ嘘だろう。


同志よおねえさん! 本が完成しましたァァ!」

教祖様オディル


 待ち合わせ場所の公園にはマフラーを首に巻いた同志おねえさんが鼻を赤くして、白い息を吐きながら待っていた。こんな冬空の寒い中待たせてごめんよ!

 表紙は無地に題名だけのシンプルなものだが、色は二人でジャンダニっぽくしたいとあーでもない、こーでもない、と相談を重ねたものだ。その薄緑色の表紙に同志おねえさんがそっと触れる。眼は隠しようもないくらい潤んでいた。


「これが私の本……」

「そうだよ! 読んでみて!」


 同志おねえさんは寒さだけではなく震える指先で一ページ一ページ、ゆっくりとめくっていく。眼は忙しなく文字を追って動き、表情は口元が緩んだり眉根が寄ったりとこちらもまた忙しい。

 そうして表紙をめくったのと同じようにゆっくりと裏表紙が閉じられる。ほう、と満ち足りた表情で同志おねえさんがため息を吐いた。


「ありがとうございました、教祖様オディル


 大事そうに本を両手で抱きしめて、同志は私を見た。涙に濡れた眼を細めたその表紙にほろり、と一粒こぼれる。


「私の考えた、私の好きな人たちの本が、こんな立派な本になるなんて……本にしてもらえるだなんて、夢にも思いませんでした。本になることがこんなにすばらしいなんて、想像もしていませんでした。このような幸せを教えていただいて、本当にありがとうございました」


 同志が頭を下げ、それから石畳の色が小さな範囲で変わる。私もつられて泣きそうになった。


同志おねえさんの努力の賜物だよ。私はそのお手伝いをさせてもらっただけ。だからお礼を言うのは私のほうだよ。原稿を書き上げてくれてありがとう同志おねえさん


 だって素晴らしいお話は形にして手元に残しておきたいじゃん?


「というわけで先生おねえさん、次回作のご相談をですね……!」

「ええ、はい! 実際に本を手にしたことで創作意欲がどっぱどっぱに湧いてまいりました! すぐに次の話に取り掛かりますね!」


 らんらんと輝く眼の先生おねえさんに平民嫌いの貴族はもちろん、本人たちにも決して知られないように保管と頒布には厳戒態勢を敷くように忠言して私は帰路についた。

 うへへ、家に帰れば出来立てのジャンダニ本が読めるぜ。そして布教も捗っちゃうな~?!

 ダニエルにはぜっっったいにバレないようにしよう。

 その日、私は収納箱マジックボックスのひとつに頑丈な鍵を取り付けた。

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