4 話をしよう


 七日目。今朝はカズラの方が早かった。


「おはよう」


 と笑顔で言って浅瀬から最奥へと上ってくるガーネに手を振る。ガーネは小さく頷いてから昨日と同じ位置取りをした。


「いいかな?」


 またもや昨日と同じようにカズラが人差し指を立てる。細い蔓がじわじわとガーネへと向かっていった。ガーネは無抵抗のまま、蔓が左肩に取り付いてからすぐカズラへ話しかけた。


『また来たのですね。わたしはもう来ないかもしれなかったのに』

『もう済んだ話じゃないか。君はこうして来てくれたんだし』

『…………』


 気楽に言い返されて毒気を抜かれたガーネは無言でカズラから顔を背けた。すると、カズラが革袋と水筒以外に何かを持っていることに気が付いた。見慣れぬ何かについてガーネが訊ねる前にカズラが口を開いた。


『あ、そうだこれ。島に生えてた花なんだけど見たことある? そもそも花って知ってる?』


 そう言ってカズラがガーネへ差し出してみせたのは一輪の花だった。鮮やかな赤い花が漏斗状になっている。ガーネは花をじっと見つめた。顔を歪めたわけでも涙を流したわけでもないけれど、悲しそうだとカズラは感じた。 


『…………初めて見ました』

『けど、初めて知ったわけじゃなさそうだね』


 カズラが指摘すると、ガーネのくりくりした目が更に大きく見開かれる。ガーネは逡巡の後に言葉を選びながら話しだした。


『昔……わたしたちが歌を失うよりももっと昔に、人間と交流を持っていたことを知っていますか?』


 ガーネの問いかけにカズラは頷く。そして、ああ、と後悔の吐息を漏らした。


『知ってる……ああ、そうだった。クルックス海の人魚は人間と助け合いをしていたんだったか。すっかり忘れてたよ。それが本当なら人間を食べたりはしないよね。昨日は見当外れの質問をしてしまったな。ごめんね』


 カズラは真摯に頭を下げる。その態度にか、謝罪の言葉自体にかは分からないがガーネは戸惑ったふうに首を振った。


『いえ……人間と関わりを持っていたのはずっとずっと昔の、僅かな時間のことですから』


 控えめだけれど、確かな断絶を伝える言い方だった。カズラは顔を上げる。また悲しそうにしているのか確認したくて。しかし、ガーネはただ苦笑いをしているだけだった。どうしてさっきは悲しそうにしたのだろう。不思議に思いつつカズラは訊ねる。


『当時の話は群れに伝わっているの?』

『はい。戒めとして』

『人間とは関わるなって?』

『それと、人間を助けるな、ですね』


 ガーネはにこりと付け加えた。たっぷりの皮肉をこめて。しかしながらその程度で怯むほどカズラは善い人ではない。だからカズラは鷹揚に首肯した。


『ははは。違いない』


 カズラが笑い声を上げる。それは場の雰囲気を和まそうとする愛想笑いなどではなく。心からカズラは笑っていた。ガーネの口の端が引きつる。けれどもそんなことは気にも留めずにカズラは一頻り笑ってから会話を再開した。


『昔の君たちはどうやって人間と意思疎通していたんだろう。歌声にそういう力があったとか?』

『……いえ。身振り手振りでしか交流していなかったようですが』

『そうなんだ。今と変わらないんだね』


 なるほど、と相槌を打つカズラにガーネがぽつりと零す。


『……あなたは全然違います』


 ガーネの言葉に今度はカズラが苦笑した。


『誤解しているようだけれど、僕は言葉が通じない相手みんなにこうして話してるわけじゃないよ』


 我ながら説得力がないなあと淡々と自覚しながら言い含める。だが事実には違いなかった。人間にしても魔物にしても毎日いつでも魔法を使ってまで交流を持ちたいとは思わない。


『そうなのですか?』

『そうだよ。魔法は不必要に見せびらかすものじゃない……と思ってるからね。はい』


 はい、と言い終わるのと同時に持っていた花をガーネに押し付ける。不意打ちに面食らったガーネはされるがまま花を受け取ってしまった。赤い花が水かきの分だけ少し大きく見える手に包まれているのをカズラは満足そうに眺める。対するガーネは戸惑いもあらわに花を見下ろした。


『はい、と渡されても困るのですが』

『僕もこのまま持ってたって困るし』


 悪びれもなく言い切る。しかし、ガーネが花を突き返すよりもカズラが言葉を継ぐ方が早かった。


『ねえ、この花にはどんな話が残ってるの?』


 興味津々に訊ねる。ガーネの持つ花自体には見向きもしない。カズラの認識ではこの花はとっくにガーネのものになっているようだ。ガーネはため息をついた。


『……この花と同じかどうかは分かりませんが……人間がわたしたちの髪に飾ることがあったと。海に潜ればすぐに取れて失くなってしまうのに、そうする人間があとを絶たなかったとか』

『へえ……君も飾ってみる?』


 カズラはにんまりと笑ってガーネの髪を指差した。ガーネの花を握る手の力がかすかに強まる。


『わたしの話を聞いていましたか? すぐに失くなってしまうのですよ』

『すぐに失くなったって今綺麗ならいいんだよ』


 能天気にカズラは言った。やはり花には一瞥もくれずにガーネだけを見ている。


『……意味が分かりません』


 つんとガーネが顔を背けたってカズラは浮かれ調子のままだった。また明日、と陽気に言い残して洞窟を出ていく。


◆◆◆


 八日目。カズラはガーネの顔を覗き込もうとするが、上手くいかない。今朝は合流してからずっとこんな調子だった。原因は分からない。とはいえ、魔法の蔓は拒まれなかったからそこまで深刻に考える必要もないだろうとカズラは考えていた。

 けれど、せっかく会えたのにお喋りしないのも勿体ない。カズラは意識して明るい声を出しつつ水を向けることにした。


『ガーネさんは知ってる? 海で溺れた人間を水の精霊が見初めて生まれたのが人魚の始まりだっておとぎ話』


 ガーネの動きが止まる。返事はないし相変わらずこちらを向いてはくれない。けれども、確実にカズラの語りに耳をそばだてている。そのためカズラは焦れたガーネが端緒を開くまで沈黙することにした。

 そして案の定我慢の効かなかったガーネがカズラを急かすように言葉を返す。


『……初めて聞きました。水の精霊? とは何なのですか?』


 まあるい黄金色の瞳がようやくカズラを映した。


『水に宿る僕たちとはあり方の違う命、かなあ。水だけじゃなくて火とか風とかに無数に宿っていて、その場合は火の精霊や風の精霊に呼び方が変わったりするけど。いっぱいいるくせに気に入ったやつ以外には姿はもちろん気配すら覚らせないのさ』


 などと得意げに語っているが、カズラは精霊を見るどころか気配を感じたことすらない。


『どこにいるか分からないということですか?』

『そう。精霊ってやつは選り好みがかなり激しくてね。気に入られさえすれば力を貸してもらえることもあるみたいだよ。そういう連中は精霊使いって呼ばれてる』

『あなたは精霊使いではない……のですよね?』


 ガーネの疑問にカズラは大きく頷いた。


『うん。僕は彼らの好みじゃないみたいだ。けど、君は違うかも』

『わたし?』


 ガーネが小首を傾げる。いとけない仕草にカズラの目が細まった。


『君なら水の精霊に気に入られるかもしれない』

『そんな。わたしは水の精霊について今初めて知ったのですよ。これまで見たことも存在を感じたこともありませんでした。それはつまり……好みではないということなのでは』


 と言ってガーネは唇を食んだ。言葉の上では否定しつつも残念がっているようだ。

 希望を持たせるようなことを言っておきながら、カズラはガーネの言い分に大方同意していた。精霊使いは物心のつく前から精霊の干渉を受けるという。カズラが唯一対面したことのある精霊使いもそのようなことを愚痴っていた。火の精霊に気に入られたその精霊使いの周りでは赤子の頃から火事が絶えなかったとか。そのときは精霊使いも大変だなあと正しく他人事として考えていたのだが。

 以前にガーネは人魚は人間ほど長く生きられないと零していた。とはいっても、ガーネの指す人間がどの辺りに住むどの階級の人間なのかによってなかなかに寿命に差が出てきてしまう。けれども、人間と交流を持たずこの島の海でずっと生きてきたガーネは島民か旅人くらいしか見たことがないだろう。幸いというべきだろうか、この島には腰が曲がってもなお漁に出る者や丁寧に蓄えられた白ひげを見せびらかしながら海辺を歩く旅人が存在する。つまるところ、ガーネは老人を知っている。

 身体つきだけでいえばガーネは女性になりかけの少女といったところだろうか。全体的にカズラにはない丸みを帯びているが、ところどころが痩せている。それに振る舞いはまだまだ少女のそれだ。人間であれば十二分に成長の余地があるだろう。けれど、人間より寿命の短いらしい人魚にとっては今の状態が大人といっていいのかもしれない。大人になって初めて精霊に見初められた精霊使いの話は各地を旅してきたカズラでも聞いたことがなかった。

 前言撤回するべきだろうか。カズラは思案する。弄んだのかとガーネは怒るだろう。怒ったまま海へ逃れてそのまま戻ってこないかもしれない。人魚と二人きりで語り合うだなんて貴重な機会はもう二度と訪れないかもしれない。額を荒い地面に擦り付けて謝れば憐れんで許してくれるだろうか。しかし、数々の下心を軽々と上回るくらいにカズラは思った。

 そんなのつまらない。カズラの知る精霊使いは皆人間で、ガーネは人魚だ。違う生き物だ。人間の常識で縛られるものではないと。

 蔓の伸ばしていない方の手で何度か硬い地面を叩いた。 


『そうかな。まだ君に気が付いていないだけかも。だってそうだろ。人魚の始まりに水の精霊が関わっているとするなら、君たちは水の精霊の子孫みたいなものだ。少なくとも僕よりは可能性があると思うね』


 思いつきで喋ったわりにはいいところを突いているじゃないか。カズラの頬が緩んだ。


『おとぎ話を本当に信じているのですか?』


 ガーネは大層訝しんでいる。そういえば人魚のおとぎ話とはどんなものなのだろう。人間に纏わるおとぎ話が一つくらいはあるだろうか。この後に訊ねてみよう。カズラが唇をさっと舐める。 


『信じたい、が正しい。それにさ。水と共に生きて死ぬ君たちの呼びかけに水の精霊が応えないとは考えにくいじゃないか』

『精霊は選り好みが激しいと言ったのはあなたですよ』


 間髪入れずに言い返される。もっと流されやすい性格だったら良かったのに。いつも通り身勝手に無責任にカズラは思う。


『それはそうだけどさ。試しに呼びかけてみなよ。案外簡単に力になってくれるかも』


 格段に投げやりになった返答にガーネは眉を寄せた。ついでに唇もきゅっと縮まる。明らかにカズラの言葉に納得のいった様子ではない。よし額をごりごりに削ってみるか、とカズラが真剣に謝り方を吟味し始めたところでガーネが発言した。


『呼びかけるといっても……どうやって?』


 眉間の皺は消えている。笑顔ではないが、唇がかたく結ばれているわけでもない。めいっぱい譲歩されていると実感しながらカズラは答えた。


『歌ってみれば?』


 一瞬でガーネの表情が強張った。激怒したのかもしれない。


『わざと言っているのですか? わたしの歌には何の効果もありません』


 魔法の蔓から伝わってくる語調は荒々しい。だが、この期に及んでもガーネは蔓を切り離せと命令してこない。この時間が失われるのを惜しんでいるのはたぶん自分だけではないのだ。カズラは肩を竦めた。


『人間は魅了できなくなったかもしれないけど、精霊には効くかもしれないだろ? 一度だって精霊に向けて歌ってみせたことが?』

『それは……ありませんが』


 ガーネが口ごもる。言いがかりをまともに受け止める必要はないんだよ、と助言する優しさをカズラは持ち合わせていない。それどころか彼女の素直さを利用するために囁いた。


『だったらやってみたらいい。どうせ失敗したって痛くも痒くもないんだ』

『…………嫌です』


 小声ながらはっきりと断られる。カズラは軽薄に笑った。


『嫌かあ。そう返されるとこれ以上は押せないな』


 カズラはその日、さよならを言って洞窟を離れてもまだ人魚のおとぎ話について訊き忘れたことに気付かなかった。

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