3 粘り勝ち
次の日、カズラは朝日が姿を現すのよりも随分早くから海に出た。黒々とした海を小船で進み洞窟に辿り着く。座り心地が良いとは決して言えないごつごつした岩の上へ無頓着に腰を下ろしてガーネを待った。冴えた目で海面の変化を観察する。
しかし、案の定と言うべきだろうか。夜が明けてもガーネは来なかった。けれどもカズラはその場に留まり続けた。空高くに太陽が移動してようやくカズラは立ち上がる。
「うーん、来ないかあ」
さして残念でもなさそうに呟く。思い切り背伸びをして更には両肩を豪快に回した。凝り固まった筋肉を解れたところできゅるる、とひ弱な音が腹から響く。
「お腹がすいたな」
腹を手で緩く擦りつつカズラは洞窟を後にした。また明日、と言い残して。
小船を漕いで去っていくカズラを岩陰から見つめる影があった。
◆◆◆
二日目。今日もカズラは洞窟を訪ねていた。時間帯もほぼ同じだ。昨日と違うのはその荷物。中身の大して入ってなさそうな革袋と動物の胃袋で作られた水筒を持ってきている。凸凹した岩の上で座ったり寝転がったりしながらカズラはガーネが現れるのを待った。
正午を過ぎてもガーネは来なかった。けれども、カズラはすぐには帰らない。傍らの革袋を漁って幅広の葉っぱに包まれた茹で芋と皮を剥いて食べる黄色い果実を取り出した。それらを食べながら合間合間に水筒を傾ける。
「ご飯を持ってきて正解だったな」
たちまちに完食すると、用済みの葉っぱで果実の皮を包んで革袋に放り込む。それから立ち上がった。革袋と水筒を手に取って洞窟を離れる。
「また明日」
カズラは無人の洞窟に手を振った。
◆◆◆
三日目。カズラは昨日とまったく同じ行動を繰り返した。ガーネは姿を見せない。
「グ……ズェ、アっ痛い!」
暇つぶしにカズラはガーネの名前を発音しては舌やら頬やらを噛んでいた。なかなか上達しないが、カズラは苛立ちも焦りもしていない。
「また明日」
そう言って去るカズラの表情は明るかった。
◆◆◆
四日目。変化があった。カズラが洞窟に着いたのは日が昇る直前だった。髪を整える時間もなかったのか、普段から癖のある焦げ茶色の髪はいつも以上に丸まっているしはねてもいる。おまけに手ぶらだ。しばらく座り込んで乱れた呼吸が元に戻るまで待ってから、カズラは海水で顔を洗っていた。
残念ながら、ガーネについては変化がなかった。昼時になるとカズラはさっさと小船に乗って帰る――のではなく、少し沖に出て釣りを始めた。洞窟で捕まえた小さな蟹を蔓に括り付けて海に落とす。カズラの思い通りに動く蔓は巧みに揺れて魚を誘った。
難なく数匹の魚を釣り上げたカズラは満足そうに浜へ戻っていく。
「また明日」
海風の狭間にカズラの呼びかけが落とされる。
◆◆◆
五日目。深夜から降り続く雨は未だ止む気配がない。土砂降りのなか、カズラは洞窟を訪れた。髪から下着までびっしょりと濡れたままカズラは朝が来るのを待っていた。厚い雨雲に覆われていたせいで朝日は拝めなかったけれども。
いつもの昼食をとる頃には雨は止み、雲の隙間から日の光が射していた。カズラは目を細めて空を仰いだ。
「今日も来ないかあ」
また明日、と弾むように呟いた。
◆◆◆
六日目。今朝は晴天だった。カズラは前日の大雨でぬかるんだ道を軽快に歩いて海に出る。洞窟に着いたのは太陽の天辺が水平線から覗く直前だった。
「……?」
これまでと違い洞窟に入ってすぐカズラは立ち止まる。カズラの利用するこの洞窟は大した奥行きがなく、日中であれば入り口から最奥を見渡すことができた。しかし、今は早朝だ。周囲はまだ薄暗く、視界が悪い。カズラは目を凝らした。数本の蔓が腕から現れて蠢いている。
そうするうちに円い太陽が海上へ現れた。生まれたての朝日が海や島、そして洞窟も照らす。すると最奥で何かが煌めいた。カズラの口元が綻ぶ。
カズラは浅瀬を足早に進んだ。勾配を上がり、最奥で待ち構えていたガーネに挨拶する。
「おはよう」
「…………」
ガーネは無言だった。カズラはガーネと向き合うように腰を下ろしつつ、人差し指を見せる。指先から伸びる蔓をゆっくりとガーネに向かわせながら、首をやや右へと傾けた。蔓の魔法を使ってもいいかと身振りで問うカズラにガーネは小さく頷いた。カズラの顔が綻ぶ。
か細い蔓が以前と同じようにガーネの左肩に付着した。たちまちにガーネが単刀直入に話しかけてくる。
『どうして諦めないのですか? 他にすることはないのですか?』
『君を待つのに全然飽きないからさ。他にすることは……特にないな』
カズラが答えるとガーネは沈黙した。注意深くカズラの表情を窺う。と、同時に何だこの暇人はと言いたげに眉を寄せた。蔓越しにその言葉が伝わってきたわけではないが、恐らく当たっているだろう。そして実に正しい指摘だ。
しばらく待ってもガーネが喋る様子がなかったのでカズラは代わりに口を開いた。
『僕も訊いていい? 君はどうして来たの?』
『……………………』
ガーネの視線が虚空をさまよう。やや青みがかった舌で唇を湿らせた。単純な質問にガーネが答えあぐねているのはガーネ自身もどうして来たのか分かっていないからか。それとも、カズラには伝えにくい理由だからか。きっと後者だ。カズラは思った。
先ほどガーネはどうして諦めないのかと訊ねた。それはつまり、カズラが何日もガーネを待ち続けているのをどこからか観察していたということだ。何日も何日も来ない相手を馬鹿みたいに待つカズラの姿はガーネの目にさぞ奇異に映っただろう。不思議に思っただろう。もしかしたら憐れみさえ覚えたかもしれない。自ら再び不気味な人間に接触しようとするほどには。
ガーネはようやくカズラと目を合わせる。
『……来てはいけませんでしたか?』
ガーネは仏頂面で押し通すことにしたらしい。質問に質問で返されてもカズラはあっけらかんとしていた。
『いいや? 僕は嬉しいけど。君が嫌じゃないのならいいよ』
混じりけのない本音だった。理由が何であれ、ガーネが会いに来てくれたという事実だけが重要だった。ガーネがか細い吐息を漏らす。
『嫌では……ありません』
そう言うとガーネの身体から強張りが多少解けた。いい兆候だとカズラは笑う。それから改めてガーネに向き直った。
『それならいいんだ。今日は何の話をしようか?』
カズラはあっさりと話題を切り替えてしまった。ガーネは咄嗟にカズラの持っている荷物を見る。
『その中には何が入っているのですか?』
と声に出してから、ガーネは顔をしかめた。振る話題を間違えたと考えたのかもしれない。しかし、カズラはガーネが二の句を継ぐ前に水筒へ手を伸ばした。そして水筒の蓋を開けてガーネに見せる。
『塩っぱくない水だよ』
カズラの大雑把な説明にガーネは小首を傾げた。恐る恐る水筒に顔を近付けて鼻をひくつかせる。馴染みの海水とは異なる控えめな匂いにガーネは目を丸くした。
『人間はこの塩っぱくない水を飲まないでいるといずれ死んでしまうんだ』
と説明のようにも独り言のようにも言ってからカズラは水筒を傾けて水を飲んでみせた。それから水筒に蓋をして地面に置く。
『海の水ではだめなのですか?』
『だめだね。海の水は塩っぱすぎてどれだけ飲んでも喉が渇いてしまうから。君たちは違うの?』
カズラに問われてガーネは困惑の表情を浮かべた。
『……あの、わたしたちは水を飲みませんし、飲まなくても死にません。人間は大変ですね』
憐憫のこもった言葉にカズラは鷹揚に頷いた。現状でいえば人魚の方がよほど大変だろうと思ったけれどもそれをガーネに伝えることはしない。
『そうだね。人間は大変だ』
と蔓越しに返事をして、独り言つ。
「当たり前といえば当たり前だけど、人魚と人間は身体のつくりがかなり違うみたいだね。見た目は半分同じなのにさ」
蔓を経由しない独り言にガーネの眼光が鋭くなる。何を言ったのだと問い詰められる前にカズラは大げさな動作で革袋を掴んだ。革袋を縛る紐を緩めて中から葉っぱに包まれた茹で芋と黄色い果実を取り出す。
『こっちには……茹でた芋と果物が入ってる。お腹がすいたら食べようと思って』
あからさますぎる陽動だったが、それでも効果はあった。ガーネの視線は見事に芋と果実へと吸い寄せられ、くりくりとした目には好奇の光が踊っている。
カズラは芋を包む葉っぱを指先で摘んだ。
『食べてみる?』
『い、いえ、見るだけでいいです』
ガーネは勢い良く頭を振る。ほとんど同時にカズラの指先が葉っぱから離れた。芋と果実を傍らに置きながらカズラが話す。
『そう? 残念。でも、慣れないものを食べて体調を崩したら大変か。君たちは普段何を食べてるの?』
『海藻と貝を食べています』
と答えながらガーネはまだ芋と果実を見ていた。俯き加減のガーネを眺めながらカズラは彼女が海藻と貝を頬張る様を思い描いてみる。けれどもうまくいかない。
もっと上品な食べ方ならどうだろうか。海藻なんかを細かく手で千切って少しずつ咀嚼していく。時間がかかっても焦ることはない。透き通る海の底で、幾筋にも分かれた太陽の光を浴びながら食事をしている。
間を置いてからカズラは訊ねた。
『人間を食べることってあるの?』
無神経な質問を浴びせられたガーネがカズラを睨め付ける。しかし、カズラは悪びれる様子もなく平然とガーネを見返した。無遠慮がいくところまでいっていたからだろうか。沸騰寸前だった怒りはあっという間に鎮まっていった。代わりに浮かんできたのは諦念だ。
ガーネは肩を落とした。
『……食べません』
「ふうん……やっぱり捕食するために人間を殺していたわけではないんだな」
思わず口に出してしまう。心のうちに留めておけばいいものを。ひとりでいる時間が長いと独り言も多くなってしまうものだ。そうカズラは決め付けている。
『今何と言いましたか?』
ガーネが鋭い声で問いただす。眉間には深い皺が刻まれていた。ガーネの怒りが再沸騰している。不信感のおまけ付きで。
先ほどのように簡単にごまかされてはくれないようだ。カズラは両手を掲げた。
『君が怒りそうなこと』
簡潔に答える。怒るだけで済めばいいけれど、と今度こそ心のうちで呟いた。ガーネの顔がこわばる。
『言ってください』
ガーネの尾びれが地面を叩いた。それほど激しくはない。威圧の一環だろうかと考えてすぐに否定する。ガーネは心許なくカズラを見ていた。今にも目を逸らしてしまいたいと言いたげに。
だからきっと無意識の動きだろう。人間が緊張や動揺から髪や唇に触れたり腕を組んだり膝を揺すってしまうように。カズラはガーネを見据えた。
『昔の君たちは捕食するために人間を殺していたんじゃないんだなって』
『…………』
ガーネの顔から表情が消え失せる。尾びれが勢い良く地面へ叩きつけられた。これは威圧の一環かもしれない。蔓からは何の言葉も感情も伝わってこなかった。カズラはガーネを覗き込む。
『ほら。だから怒るって言ったのに』
『わたしは怒っていません。昔の……つまり、歌声で人間を魅了して殺していた頃のことは……わたしには分かりません』
ガーネが目を伏せる。カズラの予想に反してガーネは落ち着いていた。
『昔は人間を食べていたかもしれないってこと?』
『そうです』
『群れで一番長生きしてる人も知らないのかな』
『知りません。わたしたちは人間ほど長く生きられませんから。長も歌を失った後のことしか知らないはずです』
『え。そうなの?』
呆気にとられるカズラをガーネが見上げる。小さな唇がかすかに震えていた。
『それにわたしたちは……』
『ガーネさん?』
カズラが呼びかけると、ガーネはハッと息を呑んだ。黄金色の瞳が頼りなく揺れる。
『……今日はもう帰ります』
とだけ告げてガーネは顔を背けカズラから離れた。両腕と下半身を器用に使い地面を這って浅瀬へ移動していく。桃色の巻き毛から覗く背中は色白を通り越して青白かった。
『そっか。また明日ね』
カズラはガーネへ手を振って事もなげに蔓を切った。
「…………」
洞窟から去るまでガーネは一切振り返らず、また返事をすることもなかった。そして一人残されたカズラは無造作に寝転がった。手足を大胆に伸ばす。岩が頭や背中にごりごり刺さって痛い。
ガーネとの会話を思い返しながら、カズラはまたしても独り言に没頭していた。
「秘密……うーん、問題って言った方がいいのかな。とにかくそういうものを抱えてそうだけど、僕にどうにかできるものでもないだろうしなあ。そもそも明日も来てくれるのかな」
そんなことを独白しつつ、カズラは近くに置いてあった芋を魔法の蔓を使って掴み葉っぱを剥いていった。もちろん仰向けになったまま。更には蔓で冷え切った芋を口に運びながらカズラはぼんやりと天井を見上げていた。
カズラの朝はそうして過ぎていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます