2 名前


 人魚は黄金色の目をしていた。ほの暗い周囲を彷徨ったあとに傍らで座るカズラを捉える。


「……、……! △ア■○ァア▼!」 


 人魚の甲高い悲鳴は潮の香りが充満した洞窟に喧しく反響した。カズラは両手で耳を塞ぐ。

 ただただ煩いだけで、魅了されるも何もない。これこそ人魚の数が減っている一番の理由だった。カズラの知る限りでは、あるときを境にして人魚は魅了の歌声を失っていったのだという。今ではごく一部の人魚だけしか魅了の歌声を持っていないとも。

 原因は不明のまま。病なのか呪いなのか。それともまったく別の原因があるのか。人魚はそれを知っているのかいないのか。どちらにしろ現状からして改善には至っていないようだ。

 人魚は敵、つまり人間や他の魔物への重要な対抗手段を失ってしまった。力の均衡が崩れてしまったのだ。人間は人魚を積極的に狩るようになった。美しい異形を手元に置いて愛でるために。食べるために。薬の材料にするために。金のために。快楽のために。人魚に殺された同胞のためにと人魚を狩った人間は果たして存在するのだろうか?

 カズラはゆったりとした口調で人魚に話しかけた。


「うん。分かるよ。怖いし混乱するよね。でも、僕は人魚狩りじゃないから少し落ち着いてほし」

「ア●□ァ! ▲□○××ア!」


 カズラの訴えもむなしく、人魚は髪を振り乱しながら半狂乱で叫び続けている。両腕と下半身を懸命に動かして後退するが、ほんの少しすれば岩の壁にぶつかって逃げ道を失うだろう。

 実は人魚から見て右側の傾斜を下っていけば洞窟の中まで来ている浅海へと簡単に逃げられるのだが、そんなところまで気が回らないようだ。

 ごつごつした岩場で強引に動いているせいで人魚が余計な怪我をしそうで、カズラはほんの少し気持ちがはやった。耳から手を離す。


「って言われても無理だよなあ。そもそも言葉が通じないし……やっぱりこうするしかないか」


 えい、と右手の人差し指から極細の蔓を伸ばして暴れる人魚の左肩辺りに付着させた。人魚はまた叫び声を上げると、水かきのついた手で力任せに蔓を引きちぎろうとする。しかし蔓は驚異の粘着力で人魚にへばり付いていた。

 カズラは控えめな笑顔を浮かべながら人魚へ話しかけた。今度は魔法の蔓を通じて。 


『僕はカズラ。人間の魔法使いだ。人魚狩り……君を捕まえた人間たちとは違う。僕は君を襲わない』

「!? ……□アァ×▼?」


 頭のなかに突如響いたカズラの声に人魚が瞠目する。慮外の驚きが恐怖を凌駕したのかもしれない。人魚の身体の強張りがやや解けて声の調子も安定する。カズラはこの絶好の機会を逃さななかった。


『どうして言ってることが分かるのかって? それはね、僕の魔法の力だ。この蔓で繋がっている限り、頭で思うだけで会話できるのさ。種族が違っても、言葉が違ってもね。さすがにあんまり原始的な生き物は無理だけれど。君ならとても簡単だ』


「? …………」


 人魚の動きが止まる。目だけが何度も瞬きを繰り返していた。ここぞとばかりに詰め込まれた説明を一生懸命に理解しようとしているのだろう。昔から説明が下手くそだと言われ続けてきた上にその自覚もしっかりあったカズラは黙って人魚が頭の整理をするのを待った。

 しばらくして、人魚が眉を吊り上げた。おまけに今度は両手で蔓を引き抜こうとしている。人魚は怯えているし怒ってもいた。考えていることが全部分かってしまうのかとカズラに怒鳴る。


「●▲アァ■ア▼ァア●■ァ!」

『ああ。そこは安心してほしい。君の頭のなかを何でもかんでも覗き見たりは絶対にしないよ。あくまで君が僕に伝えたいことだけを読み取るようにしてる』


 人魚の蔓を掴む手が緩む。ただし、とカズラは続けた。


『嘘をつきたくないから言っておくと、やろうと思えばできる。……とは付け加えておこう』

「ア□○×!」


 人魚が大声で訴える。同時に力いっぱい蔓を引っ張った。カズラは眉を寄せる。


『うーん。証明するのは無理だな。僕を信用してもらうしかない。厳しい? そりゃそうだ』

「…………」


 ははは、と能天気に笑う。人魚は冷めた目をしたまま一言も発しようとしない。


『だんまりか。困ったな』


 カズラは困り顔で髪をかき混ぜた。胡座をかいた脚の上に頬杖をついて思案する。

 自分は人魚狩りではないと証明する術はない。それに、人魚からしたら人魚狩りもカズラも同じ人間だ。カズラが人魚狩りであってもなくても大きな違いはなくて、人間であるというだけで人魚が敵意を向けるには十分すぎる理由なのだと。

 これだけ話せたら上出来か、とカズラは結論付けた。人魚がこの場を去ろうとしたら潔く蔓を切断しようと決める。万が一襲いかかってきたらどうしようか。下手に反撃したら怪我をさせてしまいそうだ。背中を向けて一目散に逃げるのがいいかもしれない。自分が怪我をする分には一向に構わないのだし。

 などと考えている間に結構時間が過ぎていたらしい。にわかにまだまだ警戒心の残る可憐な声が響いた。


『あの人間たちはどうなったのですか?』

「…………!」


 人魚から話しかけられる可能性をあまり考慮していなかったせいでカズラは反応が遅れた。

 たっぷり間を空けてから目を輝かせて人魚を見る。人魚の手は蔓から離れていた。まさか話しかけてくれるなんて、と人魚の問いかけを疎かにして盛り上がりそうになるのをぐっと堪えて答える。


『殺して海に捨てたよ』

『………………そうですか』


 簡潔な返答に人魚があからさまに表情を曇らせる。カズラはばつが悪そうに頬から手を退かした。


『あー……、海に捨てたのはまずかった?』


 人魚のすみかである海に死体を遺棄したから怒ったのだろうか。カズラは考える。ただ人魚と話したいがために人間を殺したことやごみのように死体を海に捨てたことに対する懸念も罪悪感も端から存在していない。そういうカズラの欠落を糾弾する人間は残念ながらここにはいなかった。

 人魚が大げさに首を振る。 


『違います。あんなのはすぐに誰かのご飯になりますから。わたしが悔しいのは、わたしの手であいつらを殺せなかったこと』


 一旦そこで押し黙った人魚をカズラは急かしたりしなかった。人魚は荒い呼吸を静めてから再度口を開いた。 


『あいつらがわたしたちを捕らえるために何をしたか知っていますか?』

『知ってるよ。随分としつこく挑発していたみたいだね』


 カズラが首肯すると、人魚は唇を噛みしめる。


『……群れの仲間は無視しろと言っていました。人間はああしてわたしたちを誘き出すのだと』

『君は戦うことを選んだわけだ』


 カズラはあっけらかんと相槌を打った。人魚は顔をひそめる。


『仲間たちのように忍耐強くなれなかっただけです。結局は何もできずに捕まって……』


 語尾が弱まる。俯いてしまった人魚にカズラは小首を傾げた。胡座を崩して人魚へにじり寄る。


『だけど、君は生きてるしあいつらは死んだ。少なくともあいつらに君の仲間が狩られることはない。これも君が戦いを選んだ結果じゃないの?』


 人魚が忽ちに顔を上げる。僅かに表情が和らいでいたが、地道に距離を詰めるカズラに気付いた瞬間に再び険しくなった。しかし、逃げ道を探る様子はない。


『…………あなたは何なのですか? どうしてわたしを助けたのですか?』

『僕は人間の魔法使い。カズラだ。もし良ければ君の名前も教えてほしいな』


 初めて魔法の蔓を通じて話したときと似たような自己紹介を繰り返した。後半に付け加えた言葉は紛れもない本音だ。

 でも、と人魚の顔色を窺う。人魚は目を逸らして両手を胸元に当てていた。どう見ても嫌がっている。カズラはさっさと話題を変えることにした。


『って話は置いといて。僕が君を助けた理由だよね。それは簡単。君と話してみたかったから』


 人魚がぽかんと口を開ける。綺麗な歯並びだ。全体的に人間よりも尖っていて、人間でいう犬歯に当たる部分が特に鋭利だ。肉食なのだろうか、と余計なことを考えつつカズラは話を続ける。


『僕さ。しばらく色んなところを旅してるんだけど、一度も君たちを見たことがなくてね。だから今日は見るどころかこうして話ができて良かったよと思ってるよ』

『…………』


 カズラは微笑んだ。いつの間にか手を伸ばせば人魚に触れられる距離まで迫っていた。けれども、それ以上は近付かない。今度は胡座ではなく片膝を立てて座った。


『それに、もっと話してみたいとも思ってる』


 人魚が徐々に両手を下ろした。


『……どうしてわたしと話をしたいのですか。人間はわたしたちを恐れている……いいえ、もう、人間はわたしたちを恐れていませんね』


 人魚は肩を落として自嘲する。カズラは首を捻った。


『全員が全員君たちを恐れてないってことはないはずだよ』

『ですが、時間の問題でしょう?』

『……恐らくは』


 真正面から問われてカズラは言葉少なに認める。他者からの同意を得て人魚はより項垂れてしまった。覚悟していることとはいえつらいものはつらいのだろう。カズラは殊更明るく話した。  


『それで、どうして僕が君と話をしたいのかだけど……そうだな。君が僕と話そうとしてくれから、じゃ納得できない?』

『できません』

『即答かあ厳しいな。うーん……僕にはこの魔法があるじゃない?』


 と言って左手で蔓を指差した。人魚はやや怪訝そうにしながらも首を縦に振る。 


『だからさ、これまでも何度か魔法を使って人間が魔物と恐れる生き物と話そうとしたんだよ。全部徒労に終わったけどね』

『一言も話せなかったのですか?』


 人魚の質問にカズラは左拳をかたく握った。熱の入った様子で語る。


『そう。一言も。コロス! とか ハラニクヨコセ! とか一方的に宣言されるのを話したってのに含めるのなら一応は話したことになるけどさあ……』


 いやあハーピーの爪は鋭かった、と独白するカズラは遠い目をしていた。人魚は口を噤んでいる。カズラに同情するべきか呆れるべきか決めかねていたのかもしれない。そうするうちにカズラの視線が人魚に戻った。


『そんなわけで今こうして血を見ることなく君と話せて嬉しいよ。できればもっと話したい』

『…………』


 不必要に早口だった。人魚はもじもじしながら尾びれを上下に振っている。たぶん困惑しているのだろう。嫌がっているのに無理強いするのはカズラの趣味ではなかった。どの口が言うのかと非難する声はカズラには聞こえない。

 今度こそ本当の本当に解散か、とカズラは人魚を眺めた。七色の輝きの弱まった紺碧の鱗が見える限りでは隙間なく並んでいる。そこでカズラははたと思い出した。 


「『あ!』」

『!?』


 頭でも声でも大声を出したカズラに人魚の肩がびくっと跳ねる。驚かせたことを詫びるでもなくカズラはやや前のめりになって人魚に訊ねる。


『訊くの忘れてた。たぶん大丈夫だとは思うけれど、君さ、怪我……人間の僕には見分けられないような大怪我してたりする?』

『……いえ、していませんが』

『痺れはとれた? もう動ける?』

『はい。もう平気です』


 立て続けの質問に人魚が答えてみせると、カズラは胸を撫で下ろした。それから独り言のように言う。


『良かった。他人の怪我は治せないからさ』


 そして、カズラは立ち上がった。人魚が不思議そうに見上げる。カズラは鷹揚に服にいくらかついた砂利を払い落としてから洞窟内の浅海に視線を移した。


『一人で海に戻れる? あ、ちなみにこの洞窟は君が連れて行かれた砂浜からそこそこ東に進んだ岩場にあるんだけど。群れと合流できるかな』

『はい。問題ありません』


 はきはきと応答する人魚にカズラは顔を綻ばせる。もしかして自分って本当は説明が上手な方なのでは? と一瞬だけ自惚れた。


『そうか。じゃあ、僕は行くよ』

『え?』


 思いがけない言葉に人魚は大きな目を丸くした。魔法の蔓を通じては何も伝わってこないが『さっきもっと話したいって言っていましたよね?』と思っているのはありありと分かった。ちっちゃい子どもみたいだな、と心のうちで呟く。

 カズラは日が昇り明るさも暑さも増した洞窟の外を手で示した。 


『明日。朝日の昇る頃に僕はまたこの洞窟に来るから。僕と話してやってもいいって思ったら君も来てよ。それじゃあね』


 一息で言い切る。続けてカズラは返事を待たずに人魚から蔓を離した。しかし。


『待ってください』

『?』


 肩から離れた蔓を人魚が掴んでいた。カズラはきょとんとしながらも、強引に蔓を引っ張ったり外したりはしない。

 人魚が口を開く。すぐに閉じた。次に舌で唇を湿らせる。再び開いたと思ったら前よりもかたく結ばれた。蔓を通じた会話に発声は必要ないのだが、肉体は慣れた方法に連動するようでカズラですら特段に意識しない限りは唇を動かしている。人間も人魚もそこは同じらしい。

 人魚が何かを言いあぐねているのは分かる。けれども肝心の内容は思い付かない。ありえそうなのは二度とカズラには会いたくない、だろうか。

 頬の内側をぐっと噛んで、人魚はついに意を決した。戦いを挑むような目つきでカズラを射抜く。


『…………わたしの、名前は、ガーネです』


 態度と裏腹に頭のなかに響く声は小さく大人しい。恐れ憎む人間に己の名を告げるのにどれほどの勇気が必要だったのだろう。カズラには推し量ることすら難しい。

 カズラは一際ゆったりと頷いた。ガーネの瑞々しい勇気を手折ってしまわないように。


『ガーネさんか。よろしくね』


 人魚はそっぽを向く。横目にカズラを見た。


『………………ですが、名前を教えたからといって、明日ここに来るとは限りませんから』

『分かってるよ。またね、ガーネさん』


 とカズラはガーネが握っている辺りで蔓を切断した。ガーネの手に残った蔓は間もなく消え失せる。わなわなと身体を震わせるガーネを尻目にカズラはサンダルを脱いだ。こみ上げてくる笑いをごまかしもしないで。


「ア×! ○▼ァ■ー!」


 だから明日必ず来るとは言っていないでしょう、な気がする。カズラは人魚の怒り声を呑気に分析しながら、脱いだ履物を手に持って浅海を進んでいった。一度たりとも振り返らない。

 そして、洞窟を出たカズラは日差しの強さに小手をかざした。でこぼこしている上に滑りやすい岩礁を危なげなく歩いて小船まで辿り着く。櫂を操って岩礁からそれなりに遠ざかったところでようやく人魚のいる洞窟を顧みた。


「ズ……グア、痛っ。うーん……違うな。ェアーエ? ……さん。人間には発音が難しいな」


 小船を漕ぐ。周囲に誰もいないのをいいことにカズラは砂浜に戻るまで独り言を言い続けた。けれども、ガーネの名前を呼ぶことは叶わずちくちくと痛む舌だけが残ったのだった。

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