1 救出


「風が気持ちいいな」


 一人の男が朝焼けの海を眺めながらのんびりと歩いている。男の名はカズラといった。

 少し癖のある焦げ茶色の髪を潮風がそよそよと揺らしている。しかしながら、早朝にも関わらず律儀に整髪料を使って上げて左右に流した前髪はそれしきの風では乱れなかった。


「今日は何をしようかなあ。まずは宿で何か食べて、それからちょっと寝てぶらぶらして……」


 白い砂浜を踏みしめながらご機嫌に呟いた。細かい砂粒が足の指の隙間に忍び込む。

 この浜辺に沿って進んだ先にはこぢんまりとした町がある。カズラはその町の宿屋にもうひと月ほど滞在していた。とは言ってもほとんど一日おきに朝帰りをしているから泊まっているという実感は薄い。


「また目覚めたときに日が暮れてたら困るから宿の人に目覚ましを頼もうか。……たぶん伝わるだろ」


 カズラの母語である北国の言語はここ――南方の島国クルックスでは通じない。だが、今のところは共通語と身振り手振りを駆使したふんわり会話でどうにかなっている。共通語はよほどの秘境でもなければ通じるから便利だった。相手が共通語を流暢に喋れなくても、単語をぽつぽつ喋るだけでも問題はない。意思疎通の取っ掛かりがあればそれで良かった。あるのとないのとではかかる労力も時間も大違いだ。しかしながらその共通語にも方言はあるのでそこは気をつけなければいけないのだが。

 クルックスの美しい海は昔から多くの人を惹きつけてきた。大陸から離れ碧海に孤立しているクルックスを楽園と歌う吟遊詩人もいたくらいだ。伝聞でしか知ることができないからこそ想像が膨らむ。クルックスを目指す旅人は絶えることがなく、危険を押して遠方からやって来るものも少なくなかった。漁業以外に目立った産業のないクルックスはそういう旅人を積極的に受け入れて商売することで栄えた。クルックスの人々にとって旅人は恐れ警戒するのではなく、歓迎しもてなすものなのだ。そのため共通語はもちろん他国の言語を使える者も珍しくない。

 カズラの利用する宿の主人もそれに当てはまるのだが、カズラの喋る言語は一度も聞いたことがなかったらしい。無理もない。カズラのいた国とクルックスはあまりに離れている。内向きなお国柄とも合わさってカズラの国の人間がわざわざクルックスまで足を伸ばすことはなかったのだろう。

 閑話休題。カズラがここひと月楽しく過ごせているのはひとえにクルックスの人々が柔軟にカズラを理解しようと努力してくれたからである。カズラの金離れが良かったのも理由の一つかもしれない。

 カズラが海に向かって鶸色の目を眇める。足を止めてつま先立ちになった。


「小さな船が一艘、二艘……」


 濃藍と橙の混ざる海に小振りな漁船がぽつりぽつりと水平線に向かって進んでいた。

 大多数の漁船はこの砂浜と正反対の場所にある港から漁に出ている。申し分なく整備された港ではカズラ自身も利用した大陸と島を結ぶ定期船の発着も行われていて、一日中何かと賑わっている。正式な港が出来る前はもっと沢山の漁船がこの場所から臨めたのだろうか。

 それこそ、クルックスの民が海の魔物と相互扶助の関係にあったという遥かな昔ならば。カズラが北国から離れて気ままな旅をするなかで耳にしたもはや証明する者のいないクルックスの奇譚。

 カズラははたと思い出した。


「そうだ。人魚。クルックス海の人魚も見たかったんだ。とても綺麗らしいし」


 カズラは人魚を見たことがなかった。上半身が人間で下半身が魚類の人魚は今も各地の海に生息している、らしい。

 人間と同じように性別があり、女性の人魚は見目麗しいだけでなくその歌声は聴く者を魅了してしまうのだという。魅了された者は人魚の操り人形と化して自ら海に飛び込んで死んでしまう。対して男性の人魚は話題性に欠けるのかそもそも数が少ないのか、小船に取り付いて難破させるとか何とか適当な話がごく稀に流れてくる程度だ。 

 総じて人魚は人間に敵対的だった。溺れ死んだ人間を食べるわけでもない。大いなる海で自在に生きる人魚は無力な人間を弄んで楽しんでいた。当然ながら人間は人魚を恐れた。人魚に殺された哀れな人間たちの昔話は世界のそこかしこに溢れるほど存在している。

 しかし、カズラの知る限り、人魚は確実にその数を減らしている。恐ろしい海の魔物としての人魚は船乗りの語る昔話にだけ登場する存在になりつつある。きっとそう遠くない将来に人魚は世界の海から姿を消してしまうのだろう。


「……あれは」


 カズラの視線は海ではなく砂浜に釘付けになっていた。漁船と思しき木製の小船が着岸しているのがうっすらと確認できる。今朝は随分と早く戻ってきたらしい。よほど大漁だったのだろうか。

 小船から二人の人間が降りてくる。一人は痩せっぽちの小柄で一人は筋骨隆々の大柄だ。分かりやすく対照的な二人組だった。大柄が獲物の入った漁網を担いでいる。結構な大物だ。

 数ではなく質で勝負する漁師たちなのだろう、とカズラは勝手に納得した。さっさと頭を切り替えて歩き出したまさにそのときだった。


「アァァァアアァァァァァァアァァ!」


 絶叫。しかし歌っているようにも聞こえた。同時に大柄の担いだ漁網が上下左右に暴れまわっている。漁網に囚われた何かが命を振り絞って抗っていた。ただの魚ではない。魔物の類だろう。

 離れた場所にいるカズラさえ顔をしかめたくなるような音量に、しかし二人組は反応が薄い。耳栓でもしているのかもしれない。

 大柄が漁網を砂浜に叩き落とした。柔らかい砂が多少の衝撃は吸収してくれたかもしれないが、痛いことには変わらないだろう。漁網はなおも動き続ける。大柄が何事かを怒鳴っている。

 昇る朝日が砂浜を照らす。漁網の隙間で褪せた虹色が光った。カズラは目を見張る。震える吐息で言った。


「人魚だ」


 小柄が漁網に手をかざす。閃光が走って漁網を取り巻いた。すると漁網が一際強く跳ね上がってぴくりとも動かなくなる。すかさずカズラは駆け出していた。


「雷の魔法。小さい方は魔法使いか」


 カズラの背中や腕から鶸色の蔓が何十本も生えてくる。紐のように細い蔓は蔓同士で絡まり合いながら途轍もない速さで二人組のもとへ伸びていく。

 気を失ったか死んだかした獲物を確認するためか大柄が漁網を剥ぎ取る。そうして現れたのはゆるやかな桃色の巻き毛をした少女だった。ただし、下半身は人間のそれではない。魚だ。

 尾びれがあり、恐らくだが胸びれだか腹びれのようなものある。光の具合で七色に輝く鱗が丸い乳房のちょうど乳首の辺りまで覆っていた。カズラが話に聞いた人魚そのものの姿だった。

 大柄が人魚の頬を叩く。すると小柄が大柄に何かを言った。苦言だろうか。憤慨した様子で大柄が小柄に言い返す。口論するのに夢中で二人組はカズラ、正確に言うとカズラの操る蔓の接近に気が付かない。


「誰が乱暴だァ!? こいつをこんな状態にしたのはテメェだろうが!」

「私が加減を間違うとでも? 頭まで筋肉で出来てるお前と一緒にしないでくれ」

「んだと!? テメェあんまり調子に乗ってっと殺す……ッ!?」


 暴力沙汰の一歩手前で二人組は動きを止める。なぜならカズラの伸ばした蔓が二人組の背中をそれぞれ貫いていたからだ。縄状になった蔓は人差し指ほどの太さになっていた。


「ぐっ! 何だ、これは……っ力が……!」


 二人組は振り返る余裕もなく膝から崩れ落ちた。小柄は蔦に触れてぶつぶつと呟いている。大柄はどうにか蔓を引き抜こうとしているがびくともしない。蔓が頑強であるのと同時に、二人組の力が急速に失われているからでもあった。

 それでも大柄は蔓から手を離さない。小柄も雷の魔法を発動させようとするが、もはや肌をパチリと痛ませるくらいの威力しか出せなかった。


「誰だ! 俺の邪魔を、しや、が、るのはよ、お!」


 大柄が吠える。そして、ようやくカズラが二人組の背後にやって来た。いそいそと二人組の正面へ回り込む。満面の笑みで二人組に手を振った。

 知ってる言葉を話してくれて助かるよ、と小声で溢してから言う。


「誰って。僕だよ」

「だから誰だよ!」


 大柄が今度は流暢に吠えた。と思ったら砂浜に顔面から倒れ込んだ。最後の力を振り絞るには些かしょうもない理由だった。

 カズラは小柄を指差す。同時に細い状態のままの蔓を背後で倒れる人魚に伸ばした。蔓は人魚の二の腕に張り付く。


「そっちの彼と同じ魔法使いさ」

「……! …………!」


 小柄がカズラに何かを言い返そうと口をぱくぱくさせている。すでに声を出す余力はなかった。さっき雷の魔法を使っていなければまだ可能だったかもしれないけれども、後の祭りだ。

 小柄は倒れてしまわないように必死で堪えているが、大柄に続くのも時間の問題だった。

 窮地に陥っている二人組などお構いなしにカズラは続ける。


「君たち、人魚狩りとかいう人魚専門の狩人だろ? あ、たまには人魚以外の魔物も狩るんだっけ?」

「……、……、…………」

「…………、…………」


 二人組は答えない。否、答えられない。しかし、カズラはうんうんと頷いた。


「だよね。それにしても、へえ、これまで結構な数の人魚を捕まえてきたんだな。生け捕りにできた人魚は金持ちに売るって本当かい? 観賞用だか愛玩用だか知らないけど」


 カズラは一人で話を続けている。人魚に張り付いた蔓が役目を終えて跡形もなく消えていった。


「うわ、本当なんだ。良くやるよなあ。生け捕りにできなくても全身を解体して売って大儲け? 無駄がない」


 おざなりな拍手をしてから、カズラは二人組に近付いた。小柄が顔を歪めてカズラを睨み付ける。


「だけど今回は大損だよ。悪いね。せっかく君たちが何日だっけ……ええと、二十日くらい人魚の縄張りっぽいところで大騒ぎしたり、ごみや以前に狩った人魚の血をばら撒いたりして挑発し続けてようやく海面まで上がってきてくれたこの貴重な人魚は僕が貰う」


 カズラは滔々と喋り続けた。


「……………………」

「……………………」

「ん? 何で考えていることが分かるのかって? 魔法だよ魔法。それに間違わないでほしいんだけど、分かるのは考えてることだけじゃないから。君たちの過去も全部分かるよ。蔓で繋がっている限りはね。必要もないのにわざわざしないけど」


 小柄の顔色がこれ以上ないほどに白くなった。カズラは苦笑する。


「本当は僕がこうやって声を出す必要もないんだけどね。蔓で繋がってさえいれば心のなかで思うだけで会話できるから。でもいきなりそんなことしたら君たち驚くだろ?」


 カズラは徹底して明るい口調を保っている。いつしか小柄は身震いが止まらなくなっていた。

 一方で大柄が砂浜にめり込んだ顔面をようやっと持ち上げた。砂粒を顔中にびっちりと張り付かせながら息巻いている。今にもカズラに襲いかかりそうだ。実際は呼吸をするのすら苦痛に感じている段階なのだけれど。


「自分の魔法についてどうしてこんなに馬鹿みたいに喋ってるか分かるかい? ああ、魔法使いの君は分かってるみたいだね」

「……、…………、……、……」


 小柄が力なく口を開け締めする。懇願する目つきでカズラを見上げていた。しかしカズラは気に留める様子もない。未だ事態を飲み込めていない大柄へ言い放った。


「君たちはここで殺すから。変に見逃してあとで仕返しされても面倒だからさ。ごめんね」

「…………、…………」

「…………!」


 カズラが言い終わるのと同時に小柄は口を半開きにしたまま、そして大柄は目を限界まで見開いたまま脱力した。魔法の蔓に命を吸われ尽くした身体はそのまま一切動かなくなった。

 蔓を引き抜くと、残った穴から血が滲んだ。カズラは片眉を上げて人魚と二体の亡骸、更には小船と海とを見回す。


「一応処理しておくか」


 カズラが蔓を出現させる。これまでよりも数の増えたひょろひょろの蔓が絡まり合って太く頑丈になっていった。そうして出来た七本の蔓のうちまず四本が二人組に絡み付いて軽々と持ち上げる。残りの三本は人魚を拘束する漁網を器用に取り除いてから抱え上げた。

 カズラは二人組の使っていた小船に近付く。そして、船尾側に二人組を放り込んでから船首側に人魚を横たえた。

 七本の蔓は休む間もなく小船を押し始める。カズラが小船に立て掛けられていた櫂を手に取った。着実に海へと進む小船の後をゆったりと追いかける。

 あっという間に小船は海に浮かんだ。蔓は消え、カズラが小船に乗り込む。


「よし」


 振り返って砂浜に忘れ物がないかを確認した後でカズラは小船を漕いだ。透き通る海を小船が進んでいく。浜辺で穏やかに寄せては返す波の音だけが騒がしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る