第11話ただいま、千尋の国ゾアン⑦
葡萄の森よりさらに奥に進むとツィウェル川の支流で小さな滝の麓にたどり着く。一見、洞穴にしか見えない洞窟がアスラの故郷——正確にはアスラを育てた寵姫、紫苑の部屋だった。
「時々お邪魔してるよ、ちび狼くん」
牡丹曰く、交代で様子を見たり部屋の手入れをしているらしい。千花の絆は深く強い。半獣で、本来なら蔑まれる対象であるはずのアスラが成人するまで育つことができたのも、ひとえに寵姫達の情によるものだ。紫苑の娘として、千花の一員としてアスラは受け入れられた。
「もう『ちび』じゃない」
「それは失礼」
早速、行方不明者続出の件について詳細を聞きたいのはやまやまだが、その前にもう一人挨拶をしなければならない寵姫がいる。
「紫苑は?」
牡丹は心得たとばかりに道を譲った。薄暗い洞窟の最奥に紫苑が眠っている寝台がある。床に敷かれているのは毛足の長い獣の皮。二年前にセザが仕留めた大熊の皮をなめしたものだった。その上にアスラは腰を下ろした。
「ただいま、紫苑」
お土産のブドウを乗せても、返事はない。当然だ。
寝台の上に横たわる獣人は、氷の中に閉じ込められていた。
雪を彷彿とさせる白い肌。輝く銀の髪は、ただ後ろに流しているだけでも神々しさを醸し出す。体つきはほっそりとしているが折れそうな弱々しさはない。閉ざされた瞼の奥には翠玉のような瞳があることをアスラは知っている。が、口も目も閉ざされて動く気配はない。
「変わりないね」
「いや、変わったよ」背後から牡丹が声を掛けた「今日は嬉しそうだ」
穏やかな寝顔だ。厚い氷に覆われてさえいなければ今にも目を覚ましそうだった。まるで、あの悪夢のような一夜など、なかったかのように。
狼族の集落が水妖に襲われたのは五年前のことだった。百にも満たない少数の部族とはいえ、獣人の、それも獅子族と双極を成すほどの力を誇る狼族が、一晩で壊滅にまで追い込まれた。
襲撃の理由は不明。心当たりといえば、最北の海沿いに位置していたため、水妖にとって最も襲撃しやすい場所だったことぐらい。前触れもなく、理由もわからないまま狼族の獣人達は殺され、あるいは紫苑のように氷漬けにされた。
壊滅状態となった狼族の縄張りはしかし、五年が経過した今もなお、襲撃した水妖含めて誰も立ち入ることがない。集落跡地とその周辺が氷に呑まれてしまったからだ。
水妖による侵略戦争の幕開けかと、すぐさま迎撃体制に入った獣人族側もこの事態には首をかしげた。侵略した地を放置した上に、一向に水妖達が進撃する気配をみせない。意図がわからなかった。
とはいえ、獣人族の一翼が不当な目に遭ったのは事実。狼族最高の戦士である紫苑が氷漬けにされ、共にいたはずのアスラが生き延びたことが、さらなる疑惑を呼んだ。いかに相手が水妖とはいえ、真っ向勝負で後れを取る狼族ではない――誰かが、罠にかけない限り。
裏切者を処刑し、水妖への報復を声高に叫ぶ獣人達に対し、当時の獣王ゼノは結果として様子見を決断した。相手の目的がわからない以上、打って出るのは得策ではない。砦を作り警備を固め、境界線の見張りを増やしていつでも対処できるようにした。アスラが寵姫の座を降りて千尋の森を飛び出したのも、この時だった。
最後の襲撃から早五年、水妖の襲撃はない。狼族の集落は氷で閉ざされたまま、紫苑は眠り続けたままだ。
「水妖がいつまた動き出すとも限らない。今はなるべく陛下には国内に留まっていてほしいのだけれど」
「つがい探しに『紅蓮の人魚』探し、結構忙しいんだよね。玉座でふんぞりかえる暇もありゃしない」
「まだあきらめてないんだ」
あきらめてしまったら、あの悪夢の夜から生き延びた意味がない。アスラは数少ない生き残りの一人だった。狼族の名だたる戦士達を蹂躙した水妖の姿は見ている。赤い鱗を持つ人魚、たった一人の水妖によって狼族は滅ぼされた。
「人魚はともかく、つがいの方は身近に適任がいるじゃないか」
「ファルサーミは駄目だよ。断られた」
「手近過ぎるよ、さすがにそれは」
牡丹は苦笑いした。
「セザ様はどうだい? 幼馴染だし、歳も近い」
おお牡丹よ、お前もか。アスラはなんだか裏切られたような気分になった。
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