第10話ただいま、千尋の国ゾアン⑥
城の裏手に千花の庭、すなわち寵姫達の住まう後宮がある。とは言っても寵姫一人ずつの『部屋』が点在するだけの庭だ。塀や柵で囲われてもいないので、どこまでが敷地なのかもわからない。寵姫の数の増減によって『部屋』も変化しているので細かく定めていないのだ。
重要なのは、世界樹と水門の周辺一帯が千花の庭であること。そして寵姫達はすべからく世界樹と水門を守る使命を持っている、ということだ。
千花の庭の北側にアスラは足を運んだ。ブドウの木が連なっていることから『葡萄の森』とも呼ばれている場所だ。
旬を迎えようとしているブドウの実を見上げる。幼い頃は、この木の下で昼寝をしたり、ファルサーミと組み手をしたり、セザと喧嘩をしていたものだ。比較的大きな実をつけたひと房をもいで、お土産にする。ブドウは紫苑の好物だった。
葡萄を腕に下げて千花の庭を歩いていたアスラだったが、不意に足を止めた。かすかな気配と空気を切る音を察知するのと、木の陰から何かが飛びかかってきたのは同時だった。
獣のような俊敏な動きで蹴りが放たれる。アスラは軽く身を捻ってその蹴りを避けた。体勢を崩した相手の腕を取って背後に回し、地べたに身体を押さえた。
そこでようやく、アスラは襲撃者の正体に気づいた。獅子の耳に尻尾。体格も立派な獅子族の青年。格好こそ無様だが威嚇する様には先代獣王ゼノの面影があった。それもそのはず、襲撃者はゼノの長子なのだから。
「やあ、ザン。元気だった?」
「はなせ卑怯者!」
友好的な挨拶の返礼は罵倒だった。取り押さえられた状態でザンは吠えた。
「いきなり襲ってきた奴に卑怯者と言われる筋合いはないよ」
「黙れ裏切り者、獣王陛下を弑しておきながら、よくも千尋の森に帰ってきたな!」
「いや、だから先代が死んだのは病だって」
仮にアスラが先代獣王ゼノを殺していたとしてもザンに咎められる謂れはない。獣人族の王はもっとも強い者がなるのが慣わしだ。
「五年前と同じように毒を盛ったのだろう! 穢らわしい半獣め、貴様の悪行は森中に知れ渡っている。誰が貴様なぞを王と認めるものか!」
「少なくとも『千花』は認めているよ」
凛とした声が割って入る。ザンとアスラは同時に同じ方を向いた。
茂みから現れたのは長身の女性だった。短く切った髪から覗くのは鹿の角。動きやすさを重視した軍服だが美しさは損なわれることはない。ぴんと張った背筋に力強い目。『凛々しい』という言葉がこれほど似合う獣人はいなかった。
先代獣王の寵姫の一人、千花の牡丹は胸に手を当てて軽く礼をした。
「お帰りなさいませ、獣王陛下」
「ただいま、牡丹姉」
牡丹はアスラに目礼すると伏しているザンを見下ろした。
「これは一体どういうことかな? 畏れ多くも獣人族の王が帰還されたというのに、出迎えるどころか背後から襲撃するとは」
「こいつが王であるものか!」ザンは息巻いた「誉れある獣王の座を未熟な半獣に就かせることなど、断じて認めん」
お言葉だが、たった今、その未熟な半獣に挑んで敗れたのはザンだ。
「少なくとも今、千尋の森でアスラ様に敵う獣人は君を含めていないようだけど?」
「セザが帰ればこんな半獣なんぞ……っ!」
サラといい、ザンといい、不服を申し立てるくせに最終的にセザ頼みというのはなんとも情けない。牡丹も同じことを思ったのだろう。口をつぐんで呆れた顔をしていた。
「じゃあセザに言っておいてよ」
アスラはザンの首根っこを掴んで放った。
「王座が欲しけりゃさっさと戻ってこい、ってね。いつでも相手してやるよ」
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