二章 謎めくひと③

 シャワーでさっぱりして、真新しい服を着込んだ正路が浴室を出ると、フワッと香ばしい匂いが鼻をかすめた。

 どこを見ても、ここが古い家であることは確かだ。

 おそらく、階下で誰かが調理していて、換気扇からの排気が、何らかの理由で二階に入り込んでしまっているのだろう。

(焼き魚!)

 匂いの正体に気付くなり、正路のみぞおちが切なくうずいた。

 そういえばさっき男は実にさりげなく、正路が三日も眠っていたと言っていた。

 当然、そのあいだはまったく飲み食いしていないのだから、体が空腹を訴えるのは当然と言える。

(厚かましいけど、僕の分も……あるかな。あるといいな)

 切実にそう願いつつ、正路は階段を降りた。

 ほんの小さな三角形の踊り場で急カーブする階段は、かなり急で、しかも踏み板の幅が狭い。手すりはあるが、油断すると、あっという間に踏み外してしまいそうだ。

 階段を降りきったところで、正路はまたしても驚かされた。

 そこは、いわゆる昭和の「茶の間」だった。

 十畳ほどの座敷に、ちやだんやちゃぶ台が置かれ、ふっくらした座布団が並べられている。壁際には、折りたたみ式のづくえが立てかけてあるので、そこでデスクワークもできるのだろう。

 ここもまた絵に描いたような昭和の空間なのに、テレビだけが液晶画面なのがどこか面白い。

 茶の間の奥には、システムキッチンではない、いわゆる「お勝手」と呼びたい古風な台所が背の低い水屋を挟んであり、男はそこで何やら料理中であるらしかった。

(奥さんか誰かが料理してるのかと思ったけど、あの人がしてるんだ。ここ、一人暮らしなのかな。それにしても……)

 正路の心をもっともきつけたのは、茶の間と一応、昔風のロールカーテン、もとい竹製の上品なすだれで仕切られた、続き間の広い土間だった。

 いや、おそらくそこは、茶の間の座敷より一段低いので土間なのだろうと、正路が勝手に考えただけである。

 というのも、広い空間の中央に、玄関とおぼしき扉へと続く通路がかろうじて確保されているものの、その両脇は、天井近くまでうずたかく積まれた、古ぼけた道具で埋め尽くされているからだ。

(これは、粗大ゴミ置き場? いや、まさかそんなもの、家の中に作らないよね。いったいここ、何なんだ? あの人も謎なら、家も謎だよ)

 道具といっても、明らかに用途の明らかな家具もあれば、人形や楽器、面のようなものまで見える。薄暗いのではっきりとはわからないが、四角く見えるのは、絵画の額に違いない。

 こつとう品ばかりかと思えば、一番近くに転がっているのは、つい最近まで放送されていた特撮番組のヒーローが使っていた武器の玩具おもちやだ。

 あまりにも雑多な品揃えで、方向性がまったく見えない。

「おい、何を突っ立ってる。運べ」

 呆然と立ち尽くしていた正路は、背後から聞こえた男の声にギョッとして振り返った。

「あっ、何を?」

「飯だ」

 台所に立つ男は、振り返りもせずそう言った。正路は、水屋を回り込むようにして、男のもとへ行った。

 なるほど、無骨なステンレスの調理台には、木製の大きなトレイが置かれ、そこに料理の皿がきちんと並べられていた。

「あ、さっきの匂い、塩鮭だったんですね。美味おいしそうだ」

「いいから運べ」

 男はあごをしゃくった。どうやら、食事は茶の間のちゃぶ台で摂ることになっているらしい。

 正路はずっしり重いトレイを両手で持ち、まったく薄らがない全身の痛みをこらえながら、ちゃぶ台へと運んだ。

 皮目がこんがり焼き上がった塩鮭に、明らかに炊きたてのピカピカ輝くごはん、青菜をさっとで煮たもの、それに、茄子なすしる

 まるで、旅館の朝食のようだと思いながら食器を並べていると、男が片手に小振りな鉄瓶を提げてやってきた。

 座布団にどっかと胡座あぐらをかくと、傍らに置かれたちやびつふたを開け、中からきゆうみを取りだして、お茶をれ始める。

(ますます旅館みたいだ!)

 感心しながらはいぜんを終えた正路は、ちゃぶ台の脇に、えて座布団を敷かずに正座して、両手を畳についた。

 そして、軽くまゆをひそめた男に向かって、畳に額がつくほど深く頭を下げた。

「僕の命を助けてくださって、ありがとうございました。あと、こんなに立派な服まで。こんないい服、僕、着たことないです」

 それは、お世辞でもけんそんでもなかった。

 正路が迷いに迷って紙袋から選び出した服は、ごくカジュアルなベージュのチノパンに、紺色のコットンセーターという組み合わせだが、いずれも名前しか知らないような高級ブランドの品である。おそらくどちらも、きちの二、三枚は軽く旅立つ価格設定だろう。

 急須に茶さじで茶葉をすくい入れ、鉄瓶から湯を注ぎながら、男は何でもないことのように応じた。

「下僕の装いは、あるじの品格を映す鏡のようなものだ。粗末なものを着ることは許さん」

 下僕や主という、現代社会ではまず聞かないような言葉を、男はごく自然に口にする。

 正路は、まだ頭を下げたまま、言葉を継いだ。

「あと、食事まで。何から何までお世話になって、本当にありがとうございます。どうやって、このご恩を返せばいいのか……」

 それは、感謝の言葉としては実に定型的なものだったが、男はつまらなそうに鼻で笑った。

「はなから返しきれる恩ではあるまい」

「それは……そうですけど。その、僕、事故の直後は色々混乱していて。死にかけててたぶん頭もぼーっとしていて」

 正路には見えないが、男のまゆじりがピクリと動いた。

「お前、やはり契約をたがえ……」

「違います! そうじゃないです。契約……っていうか、約束したことは、ちゃんと思い出しました」

 正路はたまりかねて頭を上げた。そして、自分を厳しい目で見据えている男に向かって、正直にこう言った。

「だけど、下僕として僕がすべきことっていうのが、ちょっと記憶があいまいで」

 すると男は、険しい面持ちのままで言った。

「俺はお前に、俺のために働き、俺の餌になれと言った。下僕というのは、主に支配される存在だ。お前の身も心も、あの契約を交わして以来、すべて俺のものだ」

「……すべて」

「ああ。俺の命令に従え。俺を満足させられるよう、己を磨け。端的に言えば、それが下僕の務めだ」

 切り口上でそう言うと、男は二つの湯吞みに茶を注ぎ分け、きっぱりと言った。

「飯が冷める。食え」

 それもまた、「ご主人様」の命令の一つなのだろう。

 正路は、半ばあきらめの心境で「はい」と従順に返事をして、男と差し向かいの位置に置いた座布団に座った。

「いただきます」

 正路は礼儀正しくあいさつをしたが、男のほうは何も言わずに食べ始める。

 やはり、食べ方もせっかちだ。

 大口で頰張っているわけでもき込んでいるわけでもないのだが、はしの動きが異様に速い。実に正確に美しく、鮭の身が箸の先でほぐされ、骨が取りけられていく。

 感心しながら、正路も自分の鮭を解し、ごはんに載せて頰張ってみた。

「美味しい!」

 思わず、子供のように無邪気な声が出た。

 皮だけでなく、身も表面もパリッとするように焼き上げられた鮭は、塩加減がほどよく、脂の乗りも上品だ。

 青菜は、正路が知らない種類の野菜だった。平べったい軸と葉をしていて、緑色はごく淡い。全体的に驚くほど軟らかく、薄味の出汁がよくみていた。

 味噌汁は焼き茄子の皮をいて、大ぶりに切ったものが実になっていて、そのシンプルさがとても潔い。焼き目の香りが、白味噌の甘さを少し引きしめている感じもする。

 久しぶりの食事なせいだけでなく、素材の良さと調理の腕前が揃ってこそのうまさだ。

 思わずがっついてしまっていることに気付いて、正路は慌てて箸を置き、気を落ちつかせるために男が煎れてくれたほうじ茶を飲んだ。

「ん?」

 あれだけ丁寧に煎れてくれたのだ、当然旨いと期待して飲んだほうじ茶の味に、正路は思わず小さな声を上げてしまった。

「どうした?」

 静かに速やかに食事を進めつつ、男はいぶかしげに正路を見る。

「あ……えっと、その」

 正直な感想を言えばあまりに無礼かと、正路は口ごもる。すると男は、ピシャリと言った。

「主に隠しごととはけしからんな。これからは、包み隠さず何でも言え」

「で、でも。失礼なこととか、怒らせちゃうこととか……」

「どういらえるかは俺が決めることだ。お前の浅慮など必要ない。で、茶がどうした?」

 命の恩人に詰問されては、答えざるを得ない。正路は、おずおずとこう言った。

「いえ、僕の知ってるほうじ茶と味が違うなって。何だか……ええと、すみません、焦げ臭い、かな」

 𠮟しつせきを予想して、正路は首を縮こめる。

 しかし男は、こともなげに同意した。

「そうだな」

「えっ?」

「これは、京番茶だ」

「きょう……番茶?」

「京都の昔ながらの番茶だ。り番茶ともいう。茶葉をまずに大ぶりなままで乾燥させ、炒るとこうなるらしい」

「へえ!」

 初めて聞く茶の名前や製造法に、正路は目を見張った。男は、口角を微妙に上げ、淡い微笑を浮かべてこう続けた。

「俺も初めて飲んだときは、こんな落ち葉のような見てくれの煙臭いものをありがたがって飲むのかと小馬鹿にしたものだが、慣れれば旨い。ここの先代店主夫婦が、好んで飲んでいた」

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