二章 謎めくひと②

 正路の裸身が、ブルッと震える。

「あれは……夢じゃなかった……? まさか、でも」

 でも、僕の脚は無事だしと自分に言い聞かせ、それでも不安でたまらなくて、正路はみぎひざを立て、自分の右脚に謎のライン以外は問題がないことを確かめようとした。

 しかし、ハードな勉強に明け暮れた日々を経てもそこそこの視力を保っている彼の目は、知りたくなかった決定的な事実に気付いてしまった。

「ない! あざが、ない」

 ようやく咳が治まった正路ののどから、絶望の声が上がる。

 彼の右ふくらはぎの内側には、生まれつき、小さなほくろが寄り集まったような、えん形の茶色い痣があった。医学的にははんと呼ばれるものらしいが、長さ二センチほどあるその痣を、彼の母親は「あんよのトンカツ」と、親しみをこめたあだ名をつけていた。

(お父さんなんて、「お前に何かあっても、その痣があったらすぐわかるな」なんて酷い冗談言ってたのに。僕に「何か」あったのに、痣のほうが先に消えちゃった)

 どこか切ないおかしみを感じていたのも束の間、正路はさらに嫌なことを思い出す。

「そうだ、あの人がもりもり齧ってたの、ちょうどこの辺だったよね」

 あのとき、正路の血で汚れた唇に笑みを浮かべ、あの男はこうも言っていた。

『お前の体をおおむね元に戻し』

「おおむね」

 夢の中でもそこを突っ込んだな、とつぶやこうとしたところで、すべてのパーツがカチリとみ合う。

 ちょうど、き逃げされて正路の右脚がちぎれたその箇所に、「あんよのトンカツ」こと痣があったのだろう。

 そして、痣のことなど気づきもせず、あの男が皮膚をむしゃむしゃ食べてしまったせいで、元に戻すときにはすっかりなかったことにされた。

 信じたくはないが、そう考えるとすべてがスムーズに理解できる。

「どう考えても悪夢だけど、夢じゃない。あれ、夢じゃなかったんだ」

 だとすれば、全身に走る薄赤いラインは、事故で負った傷を彼が修復した名残ということになる。それもまた、納得できる話だ。

「いや、納得はできないけど、理屈は通る。いやいや、そんな理屈ないよ。僕は確実に死にかけてた。それを、薄いラインと酷い筋肉痛レベルの痛みだけ残して、こんなふうに治しちゃうなんて。そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか!」

 大いに混乱し、軽いパニックに陥った正路は、柔らかなマットレスをたたいて、声を荒らげた。

 だが、予想だにしない応答が、閉じた引き戸の外から正路の耳に飛び込んできた。

『当然だ。人間にそんなことができてたまるか』

「ギャッ!?」

 聞き覚えのある、男性の声だ。

(今の声、まさか)

 正路の疑念は、次の瞬間、確信へと変わった。

 ノックもなしに重そうな木製の引き戸をガラリと開けて部屋に入ってきたのは、あの、西洋絵画か大理石の彫像のように美しい男だったのだ。

「あ、あああ……やっぱり夢じゃなかった。実在した! うわッ」

 轢き逃げされて以降のホラー映画さながらのてんまつは、やはり、すべて実際に起こったことだった。

 それを思い知らされたショックと同時に、他人の前で自分が全裸であることに慌てた正路は、それでも布団を引き寄せることはしかねて、自分の両膝をギュッと抱え、とにかく体をコンパクトに縮こめて、見える部位を少なくしようとした。

 そんな正路の涙ぐましい努力など気に留める様子もなく、男はズカズカと部屋に入ってきて、ベッドの上に持参の紙袋を荒っぽく置いた。

「ようやく起きたか。ちょうどいい。着ろ」

 あいさつも「大丈夫か」も抜きで、男はいきなりそう言った。

「あ……あの?」

 膝を抱え込んだまま、戸惑うばかりの正路に、男はいらついた様子で小さく舌打ちし、とげのある口調で言った。

「三日も寝とぼけて、まだ脳が働いていないのか? 頭の中は無事そうだったから触っていないが、いっそ全部造り替えたほうがよかったかもしれんな」

「ちょ、ちょっと待ってください。それは困ります! っていうか、その、やっぱりあなたが、僕のことを助けてくださったんですよね?」

「当たり前だろう。まさか、忘れたふりか? それで逃れられるなどとは思うなよ。契約をたがえれば、お前の心臓がはじけ飛ぶぞ」

「そ、そんなギミックが!?」

「ギミックという言葉は知らんが、お前は、その身を、つまり命をもって俺と契約を交わしたんだ。違えれば、命を奪われて当然だろう」

 常識を語る口調で、男はツケツケとそんな恐ろしいことを言う。正路は、ゴクリとつばを飲んでから、おそるおそる確認した。

「あの……その『契約』って、僕があなたの下僕になるって話、でしたよね?」

「それは覚えていたか。重畳だ。あるじとして、お前に服を買ってきた。着て、下に来い」

「服?」

「お前の服は無惨な状態だったから、むしり取るついでにすべて捨てたぞ」

「むしり……取ったんですか、あなたが?」

 男は、さも当然と言った様子であごを数センチ上げる。

「そうしないことには、その体を修繕できまいが。それとも、当てずっぽうでさんに繕われたかったのか?」

「そんなことはないです!」

 今、男と正路を取り巻く事情は何もかもが異常なのだが、男の手、いや口にかかると、すべてが正論のように聞こえるので始末が悪い。

(でも、確かにあれだけ体がボロボロになったんだから、服だって酷いことになってただろうな)

 正路はおそるおそる膝から手を離し、紙袋をのぞき込んだ。なるほど、袋の中には、まだパッケージングされたままの衣類がぎっちり詰め込まれている。

 正路は少し驚いて男のしかめっ面を見上げた。

「わざわざ、僕のために買ってきてくださったんですか?」

「俺の服では、お前の指先とつま先は一生、太陽を拝めないだろうからな」

 ウッと正路は言葉に詰まる。

 確かに、身長が百六十センチそこそこの小柄な自分に対して、目の前の男は均整の取れた長身だ。おそらく、百八十センチは超えているだろう。

「ああ、着替える前にシャワーを使いたければ、階段脇がだ。お前が流した血はすべて、俺が飲み干し、め尽くしたはずだ。汚れなどないとは思うがな」

 男はそう言うと、正路の血の味を思い出したかのように、満足げにニヤリとした。

「ヒッ」

(やっぱり……そうなんだ。っていうか、舐め尽くしって!)

 うっかり、自分の脚をむさぼっていた男の血みどろの顔を思い出し、あの赤い舌で、男が自分の裸身を舐めているところまでうっかり想像した正路の顔が、たちまちしゆうで真っ赤に染まる。

 それを見た男は、かたまゆをヒョイと上げて、あきれ顔で言った。

「それだけ血の気があれば、もう不自由はあるまい。いいから、身支度をして下に来い」

 そう言い終える前に、彼は既に背を向けており、正路が何か言い返そうとしたときには、その姿は引き戸の向こうに消えていた。

 ぼうぜんとする正路の耳に、彼がとんとんと階段を降りていく足音が聞こえてくる。

「勘弁してくれよ……。あの人、何者なんだろう。僕、いったいこれからどうなっちゃうんだろう」

 途方に暮れてそう言ってみても、答えてくれる者はない。

 とりあえずわかったことは、あの男がひどくせっかちなたちだということだ。

 おそらく、早々に着替えて彼が指定した「下」へ行かなければ、酷くいらたせてしまうに違いない。

「僕が下僕ってことは、あの人、正体も名前もわかんないけど、とにかく僕の『ご主人様』ってことになるんだよな。ご主人様は、店長より、たぶん上」

 心の中でそんな序列を確立させて、正路は小さくうなずいた。

 アルバイト先の店長の不興を買ってあんなことになってしまったのだから、それより上位にいるご主人様を怒らせるのは、非常にまずい。

 特に、相手の素性を何も知らない今は、できるだけことを穏便に運びたい。

(とはいえ……血がついてるとこ、全部舐められたってこと……になるのかな、さっきの話だと)

 さすがにそれはおおな表現だと思いたいが、確かに、体のどこにも血液の付着はない。

(そんな変態じみたこと、あのれいな人が……したんだろうか。いや、考えても仕方がないけど!)

 驚きの連続に感情がかなりしていて、男に体を舐められたことへの嫌悪感までは湧いてこないが、とにかく羞恥の念が強い。このまま服を着込むことは正路には難しかった。

「よし、とにかくシャワーだけさっと使わせてもらって、ありがたく服を着よう。何もかも、話はそれからだ」

 自分が生きていることだけは確かなのだし、あの男が命の恩人であることも確かだ。

 まずは身支度を整え、彼に懇ろにお礼を言わなくてはならない。

(引っ込み思案とか言ってる場合じゃない。しっかりしろ、僕)

 自分自身の頰を軽くたたいて気合いを入れ、正路は紙袋を提げると、素っ裸のまま、ベッドを降りた。

 そして、筋肉痛にうめきながらも、可及的速やかに、男が教えてくれた浴室へと向かったのだった。

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