二章 謎めくひと①

 深くて暗い水底から、はるか上方にきらめく光を目指して、正路は両手で水をく。

 冷たい水は、正路を逃がすまいと全身に絡みつくが、両脚でそれを軽々と振り払い、のし掛かる水圧をぐいと押し返す。

(ああ、身体が動くって素晴らしい……!)

 息苦しさより、手足を自在に操って力強く泳げることが、何よりうれしかった。

(生きてる。僕は、生きてる!)

 全身に喜びをみなぎらせて、正路はぐんぐんと光を目指して浮上する。

 ザバッ!

 ついに静かな水面から頭が突き出したその瞬間、正路の目がポカリと開いた。

「……あ、れ?」

 さっきまで感じていた冷たい水は、れいさっぱり消えていた。

 代わりに彼の身体を覆っているのは、ズッシリと重い綿布団である。

「なんで?」

 自分が今置かれている状況がまったく把握できず、正路は両目をパチパチさせた。そろそろと首を巡らせ、辺りの様子をうかがう。

(ここは、いったいどこだろう)

 彼は、見知らぬ狭い部屋の、壁際に置かれたベッドに横たわっていた。

 アパートの部屋にある硬いベッドではない。おそらく上質のマットレスなのだろう、全身がしっかりと、それでいて柔らかく支えられている感じがする。

(ああ、さっきまでの重たい水の感覚、このベッドの感触のせいか)

 心地よい寝床だが、ただひとつ、使い慣れないクラシックなそば殻枕はとても硬くて、後頭部が鈍く痛む。

 何げなく息を吸い込んだ途端、鼻腔をほこりかびの臭いに刺激され、正路は盛大にき込んだ。

 どうやら、この布団は長らく手入れをされていないようだ。無闇に重いのは、たっぷり湿気を吸い込んでいるからだろう。

 正路は片手でそろそろと布団を腹の方へめくり上げ、身を起こそうとした。

 だが、たちまち全身にきしむような痛みが走り、うめきながら再びベッドに倒れ込む。

「いたた……いったい、何がどうなって……あっ」

 痛みが寝起きの頭をシャッキリさせてくれたらしい。正路の頭に、意識を失う前の出来事が、周回遅れのそうとうのように早送りで流れ始めた。

(そうだ、僕、車にねられて、身体がちやちやになって死にかけて……そして、信じられないくらい綺麗な、もっと信じられないくらい変な男の人に会ったんだ)

 なかなか止まらないせきと、治まらない痛みにもんしつつも、正路は必死で記憶をたぐり寄せる。

(生きたければ、下僕になれ……とか言ってたっけ、あの人。ぐちゃぐちゃになった僕の身体を元に戻してくれるとか、何とか)

 記憶の中の、おかしな角度にねじれた自分の腕を思い出すと、今さらながら、ぞっとして身震いしてしまう。

 しかし、き逃げされたことも、死にかけたことも、あの謎めいた男とのやりとりも、すべてが現実離れしていて、まるで悪夢のように思われる。

「悪夢……夢……あれ、夢だったんじゃないかな。だって」

 小声でつぶやいて、正路は横たわったまま、両手を顔の前にそろそろと持ち上げてみた。

 両腕はちゃんとちゆうかんせつで正しい方向に曲がるし、手も握ったり開いたりできる。

 両脚をゆっくり交互に上げてみると、痛みはあっても、意のままに動かせる。

 ただ、全身の筋肉や骨が、激しい運動をした翌日のようにうるさく悲鳴を上げているだけだ。

「何故かあちこち痛いけど、どこも折れてないし、ちぎれてない」

 ちぎれてない、と声に出した瞬間、恐ろしいビジョンが正路のまぶたの裏によみがえる。

 あの、実在するとはにわかに信じられないぼうの男は、正路のちぎれた脚を「食べて」いた。

 あの、鮮血に汚れた能面のように白い顔を思い出すと、全身が総毛立つ。

(あんなことが実際にあるわけ……)

「あるわけないじゃないか。あんなの、ゾンビ映画の中だけの話だよ」

 正路は声に出して呟いてみた。

 そうだ。確かに自分は自動車に撥ねられた。

 そこまでは実際あったに違いない。しかし、そこから先はいくらなんでもこうとうけいだ。

 となれば、あれはきっと撥ねられたショックで見てしまった幻覚に違いない。

 全身が痛むのは、車に撥ねられたなら当たり前のことだ。むしろ、奇跡的にその程度で済んでよかったという話なのだろう。

 不思議なのは、今、自分がいるこの見知らぬ部屋だが、もしかしたら、轢き逃げされて倒れている自分を発見した親切な誰かが、自分の家に連れ帰ってくれたのかもしれない。

(だけど今どき、救急車を呼びもせずそんなことをしてくれる人、いるかな。どこの馬の骨とも知れない奴を、自宅に連れて帰るなんて、そんなこと……あるかな)

 急に不安になって、正路は今度は慎重に身を起こした。

 やはり、ギシギシと効果音が聞こえてきそうなほど、身体じゅうがこわり、少し動かしただけで鈍い痛みが走る。とはいえ、慣れてしまえば動けないというほどではない。

 改めて周囲を見回してみると、何とも生活感あふれる、ノスタルジックなしつらえの部屋だ。

 ベッドはシングルサイズで、木製のヘッドボードは実にプレーンなものだ。

 壁はザリザリした触感の、うぐいすいろの塗り壁、床面は毛足の短いカーペット敷きだが、もしかしたらその下は畳かもしれない。

 窓だけはリフォームしたのか、アルミサッシのモダンなもので、一面だけでも十分に日光が差し込み、部屋を明るく保っている。

 室内のそれ以外のもの……天井のいくつか雨漏りらしきシミのある杉板も、そこから下がる四角いペンダントタイプの照明も、引き出しタイプの重厚なタンスも、綺麗な彫刻が入った木製の鏡台も、すべてが昭和の空気を色濃く帯びている。

 無論、正路自身は昭和の時代を生きていないのだが、実家で同居していた祖父母、特に早くに亡くなった祖母の部屋が、こんな感じだった。

 そう思うと、見覚えのない部屋が、どこか懐かしく思えてくる。

 ただ、布団もそうだが、ヘッドボードにも、照明器具にも、他の家具にも、白っぽく埃がたっぷり積もっている。カーペットも、本来はもっと鮮やかな色なのではなかろうか。

「ずっと、使われてなかった部屋なのかな。そこに、僕を運び入れてくれたんだろうか」

 そう思うとありがたいことこの上ないが、それはそれとして、とにかく室内のすべてのものが埃っぽい。子供の頃に比べれば遥かに軽くなったとはいえ、ハウスダストにアレルギーがある正路にはなかなかに厳しい環境だ。

 いつになっても断続的に咳が出るし、そのたびにアバラがみしみし痛むので、とりあえず即席のマスク代わりに、服のそでで鼻と口を押さえよう……と思いついたところで、正路は恐ろしいことに気がついた。

 服の袖など、なかったのである。

 彼は、すがすがしいまでに全裸だった。布団をすべて、埃を立てないようにそろそろといでみれば、下着一枚身につけていない。

「なんで!?」

 今度は思わず悲鳴を上げて、正路は忙しく辺りを探した。しかし、どこにも彼の服らしきものはない。

 幸い、室内には誰もいないので、全裸でも見られて困るわけではないが、どうにも落ち着かない。かといって、布団を身体に巻き付ければ、なおいっそう咳の発作がひどくなりそうだ。

「うう、なんで僕、素っ裸に……あれっ」

 裸体を隠すものが見つからず、途方に暮れて自分の体に目を向けた正路は、ふとあることに気づき、首を傾げた。

 体の至るところに、うっすらとではあるが、淡紅色のぐねぐねしたラインが走っている。幼い頃、赤ペンで自分の腕に落書き遊びをしたあと、洗ってもなかなか落ちなくて困ったことがあったが、あのときにそっくりだ。

「これは何だろう。あっ」

 そのラインがいちばんクッキリしているのは、右のたいだった。激しくうねるラインを不思議がって眺めているうちに、正路は、再びあの謎の男のことを思い出した。

「そうだ、あの人、僕の右脚をかじってたんだった。美味おいしそうに、なんかよくわからない食レポまでしてた。あの夢の中で、僕の脚はもげちゃってて、傷口はすごくぐじゃぐじゃしてたっけ。このラインみたいに」

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