一章 ありふれた最悪⑤

 再び頭がぼんやりしてきて、正路が今度こそ意識を手放しそうになったそのとき、男はようやく顔を上げた。

 そして、正路が今まさにあの世に旅立とうとしているのに気付くと、何のちゆうちよもなく足を放り出し、正路の血に汚れたパーカーの襟首を引っつかんだ。

 そして、ぐんにゃりした正路の身体を引き起こすと、思いきり頰を張り飛ばした。

「ぐっ……う」

 またしてもさんの川から引き戻され、正路はうっすら目を開く。

 そんな彼の顔にぐっと血で汚れた顔を寄せ、男は冷たく言い放った。

「勝手に死ぬな。お前にはまだ用事がある」

「……よ……じ?」

「そうだ。人間の血肉をらったのはほぼ千年ぶりだが、お前の血も肉も、実にうまい。久しぶりなせいかと思ったが、そうではない。お前の血はとろりと甘く、それでいて清澄だ。そしてお前の肉は、適度なごたえと素朴な野趣がある。いずれも悪くない」

 まさか、人生が終わりかけるタイミングで、自分の血と肉の食味を評価されるなどとは誰も思うまい。

(僕の身体の食レポをされても困るよ……! もう、何がなんだか)

 ツッコミを入れたくてもかなわない正路は、恨めしげな視線を男に投げる。

 だが、そんなささやかな正路の抗議などスルリと無視して、男はこう言った。

「おい、お前。このまま死ぬなら、お前の肉体は、俺が責任を持って余さず喰らってやる。それはそれで、安心してくたばるがいい」

(それは、とても安心できる話じゃないです)

 そんな気持ちを目に込めても、男にはまったく伝わっていないようだった。

「だが、この旨い血肉を、今だけの味わいにするのは惜しい。どうせなら、飼っておきたいものだ」

(本当に、この人、何を言ってるんだろう。すごくヤバいんじゃないか? もしかして殺人鬼か何か……ああいや、殺人鬼だからって、人肉を生で食べたりしないよね。お肉が物凄く大好きな人……いや、人肉は普通、お肉には入らない)

 男の正体を見極めたいと思うものの、圧倒的に血が足りない頭はぼんやりとかすみが掛かったようで、間抜けな推測ばかりがグルグル脳内を巡る。

 そんな正路にいらついたように、男はもう一度、正路の頰を今度は心もち軽く引っぱたいてから、こう告げた。

「旨い血肉の礼に、お前には得しかない提案をしてやろう。俺の下僕になれ」

「……は?」

 あまりのことに、妙にクリアな声が出た。正路は、そろそろ自由に動かなくなってきたまぶたを必死で何度かしばたたかせ、「何を言っているんですか」の意を男に伝えようとする。

 だが、男は真顔だった。口元は血みどろでまるでピエロのようだったが、冗談を言っている表情ではない。

「俺の下僕になれ」

 男は同じ台詞せりふを繰り返し、さらに言葉を継いだ。

「俺の下僕になり、俺のために働き、俺の餌になれ。そうすれば、お前の身体をおおむね元に戻し、衣食住を保障してやろう。それなりに厚遇してやる」

 今度こそ、正路はひんの状態でありながら、あきれ返ってしまった。

 この男の正体はわからないが、とんだほら吹きであることだけは確かだ。

 どんな名医でも、今の正路を救命することはできないだろう。それを、「おおむね元に戻してやる」などと……。

(おおむね?)

 心に引っかかる一言が、正路の唇を小さく動かした。

 男はそれを正確に読み取り、しゃがんだまま、器用に肩をすくめてみせた。

「俺は、こうなる前のお前の身体を知らんからな。推測で修繕せねばならん箇所がどうしても出てくる。さっき、俺が喰った箇所も適当に埋めねばならんしな」

「……な、にを、言っ」

 正路が必死で口にした言葉を、男はあっさり遮る。

「案ずるな。人間の身体であることに違いはあるまい。俺の美意識をもってすれば、元より優秀な身体になるやもしれんぞ」

 二の句が継げない正路にニッと笑いかけ、男は立ち上がった。猫のようにしなやかな動きだ。

「どうだ。生きたくはないのか?」

 男が立ったせいで、彼の言葉は、まるではるか頭上から降ってくるように正路には感じられた。まるで、得体の知れない神様からの問いかけのように。

(生きていたって仕方ない。そう思ったんだってば。だから、このまま)

 このまま、静かに死なせてほしい。

 正路が、そんな願いを唇で形作ろうとしたそのとき、不意に脳裏に懐かしい声が木霊こだました。


『なんも』


 それは、半日前に聞いた母親の声だった。「な」と「ん」の間にごくごく小さな「あ」が入る、彼女独特の、おっとりした柔らかな言い回しだ。

 正路が受験失敗を告げ、謝ったとき、母親は真っ先に「なんも」と言った。

 生粋の秋田県人ではない母親は、普段はほとんど標準語で話す。そんな彼女が、珍しく口にした秋田弁が、「なんも」だった。

 標準語に翻訳すれば、「いえいえ」や「どういたしまして」となるのだろうが、この場合は、「大丈夫よ」というニュアンスだ。

 おそらく、秋田弁を使うことで、正路に故郷の空気を少しでも伝えたいと思ってくれたのだろう。

『こっちからの仕送りも受けんで、ひとりで頑張ってんのに、何を謝ることがあるの』

 息子の二度にわたる受験失敗は、彼女にとっても大きなショックだっただろう。それでも母親は、明るい声でそう言ってくれた。

「でも、二度も大学入試に落ちて、お祖父じいちゃんもお父さんもガッカリするよね。申し訳ないよ。もう、あきらめたほうがいいのかもしれない」

 母親の声に里心を刺激されて、正路はついそんな本音を口にした。

 彼が農学部を志したのは、専業農家の祖父と父が、毎年、災害や害虫、病気に苦労しているのを見てきたからだ。彼らほど頑強ではないので、家業は継げないだろうが、代わりに、強くて収量が多く、食味のいい野菜を品種開発する仕事に就きたいという一心だった。

 その決意を告げたとき、祖父も父も喜んで、とても自慢に思ってくれたようだ。

 そんな彼らの期待を二年続けて裏切ったことに、正路は深い罪悪感を覚えていた。

 しかし母親は、明るさを少しも失わない声でこう言った。

『私もお父さんもお祖父ちゃんも、そりゃあんたには期待してるよ。でも、その期待は、あんたが農学部に入って学者さんになることだけじゃない。あんたが、幸せな、実り多い人生を送ることを期待してるの』

 さりげなく告げられる家族の深い愛情に、正路は胸を打たれてとつに言葉が出なかった。そんな彼に、母親はなおもこう言った。

『私らのことは気にしないで、あんたは自分の将来を自分でよく考えて決めなさい。寂しくなったら、帰ってきたらいいよ。お茶っこ飲みながら話そう。相談にはいつでも乗るからね。でも、決めるのはあんたよ。あんたの一生に、私らは責任持てんからね』

 そんな母親のメッセージが、胸の中からあふれ出してくる。

 言葉のひとつひとつが、闇に絡め取られていた正路の心を、ただ一筋の光のようにかすかに照らすようだった。

(そうだ。お母さんは、僕が、幸せな、実り多い人生を送ることを期待しているって言ってくれた。それなのに僕は、せっかくもらった命を、勝手に諦めて、捨てようとしてたんだ)

 さっきまでの落胆より遥かに重い後悔が、正路の胸を刺した。

 身体の感覚は失われていても、心がキリキリと痛み、正路の顔をゆがませる。

「ぼ……く、は」

(ここで死んだら、僕は一生、お母さんとお父さんとお祖父ちゃんを悲しませて、ガッカリさせ続けるんだ。でも、生きていれば……もしかしたら)

 母親の言葉をの糸のようにしてすがり、正路は生者の世界に再び顔を向ける。

 そんな心の動きに呼応するように、男は冷たい声で告げた。

「どうする? 死ぬか、生きるか、お前が決めろ。死ぬなら、お前は俺の胃袋に収まる。生きるなら、お前は俺の下僕となる」

 それはどう考えてもこうとうけいな選択肢だし、いったい「下僕になる」というのが実際どういうことなのかも、今の正路には想像すらできない。

 それでも、男の「下僕になる」ことで、本当に生き延びることができるのなら、ここでただ死を待つよりはいくらかマシなのかもしれない。いや、ずっとマシなはずだ。

「……くは」

 虫の羽音ほどの声しか出なかったが、男は微かにうなずいた。聞こえている、とゆっくりしたまばたきが伝えてくる。

 正路は、今の彼に吸えるだけの空気を最後の力を振り絞って吸い込み、心からの約束の言葉を弱々しく、それでもハッキリと言葉にした。

「ぼ、くは、いきる」

 男は、すっと目を細めた。

「人間よ、お前の真名を偽りなく告げよ」

 男の口から放たれた言葉は、むちのように鋭い。もとより偽名を使うなどという考えは正路にはなかったが、名前を口にすれば、もう後戻りはできないのだという事実は、何故かハッキリと理解できた。

 いささかの恐れをもって、それでも他に選択肢はないのだと自分を励まし、正路は男に初めて自分の名を告げる。

「あ……あだち、まさみち」

「よかろう。その名をもって、お前の魂と肉体は共に我がものとなる」

 どこか厳かにそう告げて、男は再び正路の傍らにかたひざをついた。そして、真っ二つに折れてへこんだ正路の胸骨の上に、骨張った白い両手を重ねて置く。

「契約は成った。我が下僕よ。お前の肉体を繕ってやろう」

 そう言うなり、正路の胸に置かれた男の手のひらが、銀色の光を放ち始める。

 まばゆい、何か神聖なものを感じる、清らかな光だ。

 だが、正路はその光の美しさを心ゆくまで味わうことはできなかった。

 どくん!

 これまでの人生で一度も経験したことのない強烈な強さで彼の心臓が拍動し、感覚がなかったはずの全身に、沸き立つほど熱い血が猛スピードで駆け巡るのがわかる。

「うっ……あ、ああああああああっ!」

 その直後、まさに、今、正路が負っている無数の傷の痛みが、一斉に彼の脳に殺到した。

 耐えがたい苦痛に襲われた正路の口から、泡立った大量の血液が溢れ出す。

「か……はっ」

 彼が覚えているのは、そこまでだった。ブレーカーが落ちるように視界が真っ暗になり、正路の意識は、底の見えない深みへとゆっくり落ちていった……。

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