一章 ありふれた最悪④
自動車に
「ぐッ……!」
痛みより息苦しさが強く、身体を丸めたいのに、全身のどのパーツも思うように動いてくれない。
「やべえやべえ!」
おそらく、正路を撥ねた自動車が、それに気付いて引き返してきたのだろう。
扉が開く音がして、自動車に乗っている人々とおぼしき声と足音が聞こえる。しかし彼らは、「逃げようぜ」と言いかわすと、正路に声をかけることもなく車に戻ったようだ。エンジンを勢いよく吹かし、自動車の走行音はたちまち遠ざかっていく。
(ああ……車に撥ねられるって、こんな感じなのか)
アスファルトの冷たさと硬さを片頰に感じながら、正路は打ち棄てられたゴミのように地面に転がっていた。
動きたいのに、動けない。荒い息をしながら、
おそらく、左腕も、両脚も、似たような状態なのだろう。
(動かないはずだよ。
どこか
深呼吸したいのに、思いきり息を吸い込むことができない。息苦しくて
不思議なことに、痛みはほとんど感じなかった。むしろ、身体の大部分が消え去ったような奇妙な感覚がある。
ただ、むず
なるほど、自分は死につつあるのだ、と正路は確信した。
(運転してた人たち、助けようともしてくれなかったな。やっぱり僕は、生きる価値のない人間なんだ)
(最悪な日の終わりに、こんな死に方をするなんて。でも、もう、いいや。何もかも、どうだっていいや)
徐々に視界が
(死ぬのって、こんなに簡単なんだな)
あまりにも
ところが。
カツ、カツ、カツ……。
離れたところから、誰かの靴音が聞こえた。
ひとりだけのようだ。歩く速度はずいぶんと速く、メトロノームのように正確なリズムを刻んでいる。
おそらく、大人だろう。
(誰か……来た?)
今さら発見されても、どうせ自分は助かるまい。
だが、せめて警察に連絡を入れてくれるとありがたい。さすがに、朝までこのままで子供に見つかったりしたら、一生もののトラウマを与えてしまうに違いない。それだけは避けたい事態だ。
この期に及んで他人の心配をしつつ、正路は目を閉じて、真っ直ぐこちらへ近づいてくる靴音を聞いていた。
やがて、正路の頭のすぐ近くで、靴音は止まった。
ずっと高いところで、誰かの息づかいが感じられる。
自分の惨状を見て、悲鳴も出ないほど驚いているのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていた正路の耳に、男の声が聞こえた。低くてよく通る、耳に心地いい声だった。
「血の臭いに誘われて来てみれば、これはこれは、なかなかの眺めだ」
悲鳴どころか、笑みを含んだ、かなり楽しそうですらある声音である。
(なんだか、変なタイミングで変な人が来ちゃったな)
せっかく安らかに死んでいこうとしたのに、声の主が気になって、このままでは死ぬに死ねない。
正路は重い瞼をこじ開けて、声の主の姿をせめてひと目見ようとした。
最初に見えたのは、暗がりにぼんやり映る、かの人の足元だった。
ピカピカに磨かれた、いかにも高価そうなローファーのつま先が、もう一歩で正路の顔面を
こんなに格好のいい靴を履く人物は、いったいどんな顔をしているのだろう。
そんな正路の動きに気付いたのか、声の主は小さく笑った。
「なんだ、まだ生きていたのか。か細い身体で、存外しぶとい奴だな」
(いや、いくらなんでも、それは酷いのでは?)
まさか、この状況で、「大丈夫ですか」でも「救急車を呼びます」でもなく、「まだ生きていたのか」と言われるとは。
ろくに動けない正路にも、ついに声の主の顔が見えるようになる。
(うそ、だろ)
声の主は、まだ若い、そして、驚くほど整った顔立ちの男性だった。
シャープな頰から、スッキリした
やや皮肉っぽそうな曲線を描く
モデルか俳優と言われても、少しも驚かないほどの
(もしかして、天使が迎えに来てくれたのかな。いや、天使はあんな酷いことを言わないよね。むしろ、悪魔……)
まるで正路の考えを読んだかのように、男は口角を片方だけ
「おい、話しかけてやっているんだ。ジロジロこっちを見てばかりいないで、返事くらいしたらどうだ」
男は、正路の惨状など少しも気にしていない様子だ。
(何なんだ、この人)
せっかく安らかに死ぬところだったのに、いや、現在進行形で死につつあるのに、正路は男にすっかり気を取られてしまった。
だが、呼吸すらままならない今の正路には、声を出すことが難しい。
「……た……す?」
どなたです、と
だが不思議なことに、男は木枯らしのような正路の声を聞き取ったらしい。たちまちムッとした顔つきで正路を
「くたばりかけている人間の分際で、己の名すら語らずして俺の素性を探ろうとは、いい根性だな。お前、今、自分がどうなっているか知っているか?」
そう言いながら片手を伸ばした彼は、何かをヒョイと拾い上げ、正路の鼻先にぶら下げる。
悲鳴を上げたくても上げられない正路の喉が、ヒッと
男が無造作にぶら下げているそれは、正路の脚、だったのである。マネキンの部品のように見えるそれは、確かに正路のバスケットシューズを履いている。
靴の形から、それが右脚であることもわかった。
さっきまで正路の身体を支えていたはずのその右脚は、ふくらはぎのあたりで無惨に断たれ、生々しい傷口からはへし折れた骨やちぎれた筋肉が露出していた。
「う……そ」
「さしずめ、車にでも轢かれたか。見事にちぎれて転がっていたぞ。ちなみに、他の手足も折れて
冷静に、いや、むしろどこか楽しげにそう言いながら、男は正路の右脚の傷口に鼻を近づけた。ふんふんと臭いを
「悪くない。いい機会だ、試してみるか」
(何を?)
自分の悲惨な状態をサラリと知らされたにもかかわらず、自分の目で見ることがかなわない正路にとっては、むしろ目前の男の挙動が気になって仕方がない。
だが男は、正路が予想もしなかった行動に出た。
正路のちぎれた脚から漏れ出す血を、何の
「!?」
「生きている人間の血肉でも、身体から離れたものであれば、あ奴の呪いは発動せんか。面白い。これはいいことを知った」
(何をして……何を言ってるんだ、この人)
正路は、永遠に閉ざされるはずだった両目を裂けんばかりに見開き、信じられない思いで目の前の美しい男を凝視している。
だが、正路の驚きはそこで終わらなかった。
「ならば」
歌うようにそう言った男は、次の瞬間、正路の脚にがぶりと大口で
「ひ……ッ!」
正路は、恐怖におののいた。
ぴちゃり、ジュルッ、ムチャ……。
確かに聞こえる生々しい音は、男が脂を舐め、血を
男の美しい、雪のように白い顔が、みるみるうちに赤い血で汚されていく。それを正路は小刻みに震えながら、ただ見ていた。
普段なら、無我夢中で走って逃げるところだ。
しかし、今、彼の身体は走るどころか、顔を背けることすら難しい。
(これは、現実なんだろうか)
陶然とした表情で、男は正路の脚を
こんなホラー映画でも見ないようなシーンが、果たして現実のものなのだろうか。
もはや正路には、目の前の光景が現実のものなのか、あるいは目前に迫った死が見せる幻覚なのか、判断がつかなくなっていた。
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